『素晴らしき特撮人生』(佐原健二)(小学館)
(2005.8.8.)
『ウルトラQ』(66)の万城目淳、そして東宝の特撮映画と、子どもの頃、気がつけばいつもこの人がそばにいた気がする。何より、この人が映画で演じる善悪さまざまなキャラクターが面白かったし、出てくると何故かホッとしたものだ。
決して“うまい”とか“華がある”というタイプの役者さんではなかったけれど、結局生き残って、70歳を過ぎた今も現役であり続けているという不思議な人でもある。
この本はもちろん“特撮マニア”に向けての要素が大きいが、一人の俳優の内面史、あるいは映画やテレビドラマの側面史としてもなかなか読み応えがある。特に本多猪四郎監督との数々のエピソードは感動的だ。ところで去年、『ウルトラQ倶楽部』として新作ラジオドラマが放送されたとのこと。聴いてみたかった。(後にCDとして発売された)。
『「ゴジラ」とわが映画人生』 (本多猪四郎)(ワニブックス新書)
(2011.2.17.)
『ゴジラ』(54)をはじめ、数多くの東宝特撮映画を監督した本多猪四郎が、生前に唯一残したインタビュー集を復刊したもの。自分にとっての本多猪四郎という人は、初めて名前を覚えた映画監督であり、子どもだった自分に映画の楽しさや面白さを教えてくれた恩人でもある。
本書を読むとその人柄の良さがしのばれるが、同時に、(自省の意味も込めて)人柄やものの考え方が作り出すものに如実に反映されるのだと改めて思った。
本多さんは、何度も応召され、若き日の貴重な時間を戦争に費やされたが、以前、大森一樹が「自分がゴジラ映画を作った時に、本当の戦争を体験した本多さんには深い部分で決してかなわないと思った」と語っていたように、戦争体験が後に作った映画の中に生かされている。その意味では、特撮の円谷英二、プロデューサーの田中友幸と共に、『ゴジラ』を作るべくして、時代に選ばれた人だったのかもしれないと思うのだ。
『銀幕の東京 映画でよみがえる東京』(中公新書)
(2006.1.4)
氏のさまざまなエッセーに登場する“映画の中の東京”を一冊にまとめたもの。本来ドキュメンタリーではない劇映画が、過去の記録になってしまうところが“変化する街・東京”を象徴する。紹介されていた成瀬巳喜男の『秋立ちぬ』が見たくなった。
『クレジットタイトルは最後まで』『今ひとたびの戦後日本映画』(中公文庫)
(2006.1.29.)
前者は筆者お得意の映画のディテール集、あるいは1本の映画からめぐらされる空想や雑学の旅の楽しさ。後者は日本映画から観た戦後が興味深く語られる。
「田中絹代と戦争未亡人」「三船敏郎と復員兵」「ゴジラはなぜ暗いのか」「貧乏の好きな成瀬巳喜男」「口笛吹いておいらは元気-清水宏監督」「穏やかな父-笠智衆」」など。
どちらも10年ほど前にハードカバーが出された時に読んでいたのだが、今回読み直してみると、驚くほど忘れていたことに気づいてがく然とした。それとともに、70年代から、映画を見たり、映画について書いたりする中で、この人に大きく影響を受けている自分がいるとも感じた。
まあ、切っ掛けはものまねでも、それを超えないといかんけど。先頃、惜しくも亡くなった瀬戸川猛資の『夢想の研究-活字と映像の想像力』(創元ライブラリ刊)にも再読して唸らされた。こういうものを書くには新旧含めてもっと本を読まねば、映画を見なければならない。
『君美わしく 戦後日本映画女優讃』(文春文庫)
(2006.2.3.)
川本三郎による映画黄金時代の女優たちへのインタビュー集。今はなき幻の雑誌『ノーサイド』に連載されていたものの集成版。大女優たちへの連続インタビューは映画史の貴重な証言集だ。「いい仕事をされましたなあ」という感じ。『わたしの渡世日記』ほか、名随筆家でもある高峰秀子の本がまた読みたくなった。
『西部劇(ウェスタン)への招待』『時代劇(チャンバラ)への招待』(PHPエル新書刊)
(2006.2.6.)
いずれもかつては隆盛を誇りながら、今は消えつつある2大ジャンルについて“6人のオヤジたち”が熱く語った2冊。どちらも好きなジャンルだが、こうしてその道のマニアの知識を披露されると自分はその極一部しか見ていないことに改めて気付かされる。映画について何か書くにはやはり知識の集積や記憶力がものをいうのだ。
『日本映画を歩く ロケ地を訪ねて』(JTB)
(2006.3.29.)
この本では東京近郊以外のロケ地が紹介されていてなかなか楽しい。
『映画を見ればわかること2』(キネマ旬報社)『ミステリーと東京』(平凡社)
(2008.1.22.)
一本の映画や一つの小説からまるで数珠つなぎのように広がっていく話題の豊富さにまたも唸らされ教えられる。川本節健在なり。
『時代劇ここにあり』(平凡社)
(2009.1.5.)
『東京人』2月号は「剣豪の世界」。デアゴスティーニが「東映時代劇名作DVDコレクション」を発売。今、時代劇ブームが来つつあるのか。それとも来させようとしているだけなのか。これなら西部劇もありか。
『銀幕風景』(新書館)
(2009.5.20.)
世界の映画ロケ地をめぐったもの。
『きのふの東京、けふの東京』(平凡社)
(2010. 2.16.)
これは前にどこかで読んだぞ、また同じようなことを書いて…などと思いながらも面白く読んでしまう川本三郎独特の東京近郊歩き本。
『ミステリーと東京』(東京人)
(2005.7.19.)
雑誌『東京人』に連載中の川本三郎の「ミステリーと東京」。以前、広瀬正の『マイナス・ゼロ』が登場してやられたと思ったら、今回は長坂秀佳の『浅草エノケン一座の嵐』。実在、架空の人物をからめてエノケンと浅草の黄昏を描いた秀逸ミステリー。またやられた、というか、どうも趣味がカブるなあ。(後に単行本化(平凡社)された)。
『東京つれづれ草』(ちくま文庫)
(2005.11.14.)
ノスタルジックな東京散歩案内、映画や本やスポーツについてなど、どうもこの人とは趣味趣向がかぶるところがある。とはいえ、いろいろな面で著作を通じて教えてもらうことも多々あり。
『東京おもひで草』(ちくま文庫)
(2005.11.25.)
この中に、先の映画『ALWAYS 三丁目の夕日』にも当てはまる一文があった。
「ノスタルジーという感情は、遠い昔に対してではなく、つい昨日のこと、近過去に対する独特の感情だから、東京のように変化が激しく、昨日まであった風景が今日はもうはかなく消えてしまうような都市のなかでこそ生まれる」
『私の東京町歩き』(ちくま文庫)
(2005.12.9.)
1980年代末、バブルの末期に雑誌『東京人』に書かれたものだけに、筆者の筆致も書かれた町の様子も今とは随分違う。改めて、東京が急激に変化する町なのだと実感させられる。
さて、文中に「五反田からTOC(東京卸売センター)に向かう道が嫌いだ」とあった。確かに“散歩”には向かない町だが、こう書かれると住んでいる人間(当時)にとってはあまりいい気持ちはしない。つまりこれは住人ではなくあくまで旅人の目で書かれたものだということを承知しながら読んだ方がいい場合もある。
とはいえ、いつも同じようなところをロンドのようにぐるぐる回りながら、心地良く読まされてしまうのは、やはり自分と趣向が似ている性なのだろうか。『東京つれづれ草』『東京おもひで草』そして本書に続いて『東京残影』(河出文庫刊)を読み始める。これはもはや中毒。
『大正幻影』(97.ちくま文庫)『映画を見ればわかること』(04.キネマ旬報社)『あのエッセーこの随筆』(01.実業之日本社)『東京の空の下、今日も町歩き』(03.講談社)
(2005.12.28.)
このところ川本三郎のエッセーばかり読んでいる。図書館で借りて主に仕事場への行き帰りの電車の中で読むのだが、すらすら読めてしまう文章力と引用のうまさ、そして博覧強記とも言うべき豊富な知識に魅せられる。
こういう書き物は読みながら紹介されている本や映画を読みたくなったり、見たくなったりするか、あるいは書かれている地に行ってみたくなるかが勝負なのだが、そういう点では著者はまことに紹介上手。で、楽しく読むのだが、もの書きの端くれとしては、読後は「こりゃあとてもかなわない」と思ってちょっと落ち込むのだ。以下に、読みたくなった本などを。
『大正幻影』
『美しい町』佐藤春夫
『人面疽』谷崎潤一郎
『映画を見ればわかること』
『京都花園天授ヶ丘 マキノ撮影所物語』並木鏡太郎
『死者との結婚』ウィリアム・アイリッシュ
『スナーク狩り』宮部みゆき
『あのエッセーこの随筆』
『チーチャンへの絵手紙』岡本馨
『自転車』志賀直哉
『古書店めぐりは夫婦で』ローレンス&ナンシー・ゴールドストーン
『東京の空の下、今日も町歩き』
『都市周縁の考現学』八木橋伸浩
『大森界隈職人往来』小関智弘
『シネマ今昔問答』『シネマ今昔問答・望郷篇』和田誠(新書館刊)
(2006.7.13.)
映画と記憶
和田誠の『シネマ今昔問答』『シネマ今昔問答・望郷篇』を読む。若い編集者との“問答”という形で古今の映画が語られるが、これは編集者たちの作業が大変だったろうと思ってしまうのは、同業故の悲しさか。
さて和田さんもさすがに年を取って少々理屈っぽくなっているし、晩年の淀川長治さんとの確執を感じさせるところもある。挿絵のタッチもちょっと変わったかな。
まあ、それにしてもクラシック映画については相変わらずの博覧強記ぶりを発揮。こちらなどまだまだ修行が足りないと思わせてくれるところはうれしくもある。なにしろ『お楽しみはこれからだ』などで映画の面白さを教えてくれた恩人なのだから。
和田さんが、例のキネマ旬報の映画検定を受けたら満点を取るのかな。この前解答を調べたら、つまらぬミスもあり60問中7問も間違えていたのでちょっと落ち込んだのだが、思えば映画を記憶するという行為自体が変わってきている気もする。
昔は調べものがあれば洋書も含めて本や資料を探し、きちんとメモも取っていたから記憶の持ちも良かった?のだが、最近はインターネットなどで簡単に調べがついて目で見ただけで覚えた気になるから頭には残らない。もちろん自分が年を取ったせいもあるのだが…。
また、映画については「リアルタイムで見た」というのがやはり大きな要素を占めると思う。自分にとってのそれは、やはり1970年代から80年代のもので、テレビや名画座で後追いした昔の名作とは明らかに違う存在だ。
これはその映画の出来、不出来、あるいは好き嫌いとは別の問題で、いくら後追いしても、作られた時代の生の空気や雰囲気までは残念ながら体感することはできない。映画を見るという行為にはそれを取り巻くさまざまな事柄が結構重要だったりもするからだ。
だから、映画自体はうろ覚えでも、それを見た時の映画館、自分自身のことや一緒に見た友のこと、社会の風潮、流行、ファッション、音楽…そうしたものの方を鮮明に憶えていたりもする。これらが映画を思い出す時の記憶の鍵と密接に結びついていることは否定できない。
例えば、先日亡くなったジューン・アリスンは、自分にとってはテレビや名画座で見た『甦る熱球』(49)『グレン・ミラー物語』(53)『戦略空軍命令』(55)といったジェームズ・スチュワートとの共演作が印象深い(もちろん公開されてから何十年も後の話)。
ところが、彼女をリアルタイムで見てきた、師匠の長谷川正は「彼女が最も輝いていたのは『姉妹と水兵』(44)や『百万人の音楽』(44)の頃。かわいくて一種のアイドルだった」とよく言っていた。こういうリアルタイムの実感はやはり大きいと思う。
『エジソン的回帰』山田宏一(青土社刊)
(2006.6.1.)
相変わらず和田誠の装丁がいいのだが、以前に比べると筆者の筆力が落ちた感じがするのが、ちょっと淋しい気がした。
『鞍馬天狗のおじさんは-聞書アラカン一代』(竹中労)ちくま文庫
(2004. 11. 21.)
再読した本書は、アラカン(嵐寛寿郎)ファンの竹中労の熱気とそれに応えるアラカン本人の飄々とした味が程よくブレンドされた好書だと思う。日本映画界の赤裸々な側面史として読んでも面白い。
アラカンが、戦病死した山中貞雄について語っているところはなかなか面白かった。最初は「才能あんのかいな」と疑ったアラカンが、やがて「(山中に)脚本書かしたらええ、監督やらしたらええ、これ天才やないかと。山中の才能を発見したのはワテやと、これが自慢だ」と変化する様子が楽しい。
初版本のマキノ雅弘の序文が、この本の全てを言い当てている。「これは荒々しい本や、無遠慮な本や、ほんまのことばかり書いてある本や。読みながら不覚にも涙がこぼれてきた、声を立てて笑うほどおかしゅうて、急に悲しくなってくる本や…」と。
『探偵映画』(我孫子武丸)(講談社文庫)
(2010.12.10.)
未完成の“本格探偵映画”を残して監督が失踪。残されたスタッフ、キャストはどう映画を完成させるのか…。目立ちたいキャストが、各々、我こそは犯人だと名乗り出る(犯人役に立候補する)会議の場面が面白い。ほぼ同世代の作者が繰り出す映画に関するうんちくも楽しいが、ラストのどんでん返しがちょっと弱いのが残念。
『映画篇』(金城一紀)(集英社文庫)
(2010.7.23.)
『ローマの休日』(53)の上映会を軸に展開される5つの物語を通して、作者の映画への愛が綴られる。5つの物語の中に友情、恋愛、家族…などの問題が盛り込まれ、それぞれがハードボイルド、ファンタジー、ハートウォームと趣を変えているところが秀逸。久し振りに、読み進むのが惜しく感じられ、わくわくしながら読み終えた小説。作者自身が、映画が人生を変えることや映画の力を信じているところがうれしい。
『東京名画座グラフィティ』田沢竜次(平凡社新書刊)
(2006.10.11.)
筆者は1953年生まれなので7歳ほど年上。しかも、我がテリトリーだった城南地区(品川、大田、目黒)の名画座についてはあまり触れられていないから手放しで懐かしめなかったのが少々残念ではあった。
ただ、元々映画への思い入れとは実にパーソナルなもの。しかも、今のようにビデオもDVDもなかった時代の映画体験は、年齢や地域差、あるいは見た映画館によっても大きく異なるわけで、そこがまた個性的で面白かったともいえるのだ。
実際、自分がこういうものを書いたら、やはり70年代から80年代にかけての城南地区中心のものになるだろうし…。東京は自分の周囲で大抵のことは済んでしまうから、ほかの地域に関しては結構無関心だったり、疎いところがあるのだ。
『大魔神の精神史』(角川新書)『モスラの精神史』(講談社新書)小野俊太郎
(2010.10.27.)
どちらも読みながら、1本の映画をここまで掘り下げるかと驚く。引用の巧みさとこじ付け、粘着力、こだわりに恐れ入る。
『日本映画〔監督・俳優〕論』黒澤明、神代辰巳、そして多くの名監督・名優たちの素顔 萩原健一(ワニブックス新書)
(2010.10.27.)
ショーケンいわくの「リミッターを超える」という一言が印象に残る。
ショーケンには一度だけ会ったことがある。彼が『日本映画〔監督・俳優〕論』という本を出した時に、出版記念会見の模様を、取材、撮影し、記事にしたのだが、かつての憧れの人を目の前にして、仕事とはいえドキドキした覚えがある。(2010.10.18.)
『証言 日中映画人交流』劉文兵(集英社新書)
(2011.5.20.)
高倉健、佐藤純彌、栗原小巻、山田洋次らから、日中の映画交流や中国への思いを聞き出した好著。寡黙なイメージが定着している健さんが、結構本音でしゃべっている部分が印象に残る。巻末の木下惠介の晩年に関する論文も興味深く読んだ。
黒澤明を支えた人々
(2010.9.15.)
先日、『生きる』(52)を再見した際に、黒澤映画を支えた人たちについて改めて興味をそそられたので何冊か読んでみた。
『虹の橋 黒澤明と本木荘二郎』(藤川黎一)(再読)
東宝(黒澤映画)のプロデューサーでありながら、黒澤と袂を別ち、後年はピンク映画に転じ、最期は孤独死を遂げた本木荘二郎の流転の生涯を追ったもの。
本木について書かれたものはほとんどないだけに、関係者への取材による貴重な証言なども得られているのだが、私小説と実録を併せたような妙な体裁を取っているため(こういう形にしなければ出版できなかったのかもしれないが…)、散漫な印象を受けるのが惜しい。
『複眼の映像 私と黒澤明』(橋本忍)
黒澤、橋本、小国英雄、菊島隆三らによる、壮絶なまでの脚本作りの現場が紙上で再現される。『羅生門』(50)のラストの違和感に対する答えもここに記されていた。脚本の師匠である伊丹万作への敬愛、黒澤への愛憎がにじみ出た好書。
もし『影武者』(80)が当初の予定通りに、監督黒澤明、脚本橋本忍、撮影宮川一夫、音楽佐藤勝、主演勝新太郎、若山富三郎で撮られていたら…とよく夢想したものだが、この本を読むとそれは初めから実現不可能だったことがよく分かり切なくなる。
『天気待ち 監督黒澤明とともに』(野上照代)
長年、黒澤映画のスクリプター(記録係)を務めた女史によるエッセー。ここにも伊丹万作が登場する。筆者が息子の十三の世話係をしていたとは知らなかった。女性の視点から黒澤を見つめた点が新鮮だった。イラストも秀逸。
『評伝 黒澤明』(堀川弘通)
黒澤映画の助監督を務めた後、監督となり多くの秀作を残した筆者による評伝。全編を「クロさん」で通すなど、黒澤への敬愛の情にあふれながら、厳しい見解も正直に書いている。それにしても、三船、本木、橋本、菊島、佐藤…なぜみんな黒澤から離れていったのだろう。
『成吉思汗の秘密』(角川文庫)
(2005.1.24.)
大河ドラマ『義経』を初めて見た。前年の『新選組!』に比べると、良くも悪くも昔からの大河に戻った感じがする。で、見終わった後に、何だか高木彬光の『成吉思汗の秘密』が久々に読みたくなって一気に読破。
いわゆる義経=成吉思汗説を小説という形で表した歴史ロマンで、荒唐無稽な話だが何度読んでも面白い。名探偵・神津恭介ものにはその後も『邪馬台国の秘密』や『古代天皇の秘密』がある。
どれもアカデミズムから見れば異端なのだろうが、所詮、歴史の真実など誰にも分からないのだから、こういう壮大な歴史ロマンがあってもいいのだ。余談だが、我が贔屓作家の一人、海渡英祐はこの『成吉思汗の秘密』執筆の助手を務め、“海渡”というペンネームは義経渡海伝説から付けたのだという。
『七福神殺人事件』(角川文庫)
(2006.1.12.)
“七福神巡り”で思い出したのが高木彬光の『七福神殺人事件』。死体の上に谷中七福神の朱印が置かれる奇怪な連続殺人が描かれる。
推理小説は土地勘があるかどうかで読み応えが変わる。描写されている地を思い浮かべながら読む楽しみが増えるからだ。読み直してみると高木彬光は実際に東京周辺の七福神巡りを網羅したのではないかと思える。またこの小説は神津恭介が解いた最後の事件でもある。