爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

リマインドと想起の不一致(19)

2016年03月13日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(19)

 満腹になったぼくらは遊覧船に乗った。遊覧船といってもサービスの方法を知らない廃船直前の風体で、リタイア前の最後の勇姿のようでもあった。エンジンがエンジンであることをのどかな音で主張していた。それでも、ぼくらは楽しかった。陸からいくらかでも離れたことにより、ぼくとひじりの関係も現実の世界から隔絶されて美しく映った。

 海水には塩がある。全部、集めたらどれほどの体積になるのか無駄な計算をしてみる。

 地上に足が着いていない不安定さの中に居心地の良さを感じている。ぼくらの立場も同じだ。中学生の日々は間もなく終わる。高校生と名乗るにはちょっとだけ早い。自分を知っている周囲の人々から離れ、自分を知らない人々の群れに加わる。そこが最善の場所になる可能性もあった。反対に排除される危険性も認めたくないが拭えなかった。簡単なことばでいえば期待と不安ということで表現できるだろう。

 船は出発地に戻るために方向を変えた。その際にすこし揺れる。両足を踏ん張る。ぼくの腕にひじりがすがりついた。ぼくらは目と目を合わせた。

 船はまた陸に着いた。降りてもまだ身体が小刻みに動いているような錯覚があった。太陽が真上にある。南から西へと役目を終えて帰る太陽。ぼくらの一日も、半分は過ぎてしまったのだ。

 親子連れが釣りをしている。バケツに小さな魚影があった。海という広大な場所からちっぽけなバケツに移された。ぼくらは反対だ。小さな町から別の高校がある場所に通う。そこにも自分の痕跡がのこる。思い出が増えれば、なつかしさも自然と生じるはずだ。なれ親しむから愛着、愛募となる。ぼくらは過去になど縛られない年代だ。そう思っているだけなのかもしれないが。

 歩きつかれて防波堤にすわる。たくさんの生命がこの海に存在するのだろうが、いまは見つけられない。しかし、小さなカニが岩のすき間から顔をのぞかせる。これらは不便に歩いた。決められた方式にのっとることしかできないのだ。将棋の桂馬と方法論は同じだ。ぼくらは次の三年間を経なければ大人になれない。大人になるとは一体、どういうもので、具体的になにを示してくれるのかも分からなかった。

「今日は、ありがとう」突然、ひじりが言いだした。
「なんだよ、急に」
「一日、いっしょに居てくれたから」
「いつでも、これぐらいならできるよ」

 会社員が、休日に子どもたちとできない約束をするように、ぼくも確約のないことを軽はずみに口にする。言葉はときには希望の表明でもある。ぼくらは同意したように肩と肩を寄せ合う。

 春だと思っていたが、まだこの時期は古い衣服を引っ張り出すようにして、もとの状態に名残惜しく帰りたがったのか冷たい風が吹き出した。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿