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リマインドと想起の不一致(46)

2016年07月07日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(46)

 ひじりが数日前に別れたという噂を耳にする。ぼくは動揺する。液状化現象。彼女は悲しんでいることだろう。反面、同情しながらも一方でぼくはその事実を喜ぼうとしていた。利己的ということが事実として分かる。立体的に、否定できない自分の胸に鋭利な刃が突き刺さる。どちらにしても幸福を招けない原因と結果。

「もう一度、告白してみれば?」噂を運んできた女性の友だちが気軽に言った。
「どうして?」
「どうしてって、まだ、好きそうだから」
「どっちが?」

 彼女はぼくを指差す。そして、「ひじりもなんじゃない」アナウンサーのニュース原稿であれば失格という声音で言い足した。「本気かどうかは分からないけど」

 君はぼくの胸から消え去ってくれなかった。ぼくは可能性を天秤にかける。現在、自由ではないことがもどかしかった。ひじりの前に正々堂々と出るには、ぼくにはたどらなければならない道がある。ひとつ解決すべき問題があった。

「本気にしないでね。あゆみちゃんがいるんだから……」
「本気、本気って、いろんな意味で多用しすぎだよ」
「どっちにしろ、応援するよ」

 意味合いがどちらにもとれ、曖昧な範疇にただよっている。

 ぼくは自室でこれからのことを考えてみる。それは今後という時間ではなく、過去の楽しかった思い出を再確認する行為に集中することだった。そして、最後は別れてジ・エンドだ。ぼくはその後、あゆみで救われた。また楽しさの何たるかを知った。

 するとあゆみから電話がかかってくる。ぼくは演じる。醜さや作為をひた隠しにして応対する。日曜の映画の待ち合わせを再確認する。予定というのは大事なものだ。ふたりの間で無効にするのは裏切りである。いや、裏切りというのは片方の側のアプローチであった。もう片方は、常に受け身である。

 ぼくらは悲恋の映画を見る。あゆみは泣いている。ぼくは、この作りものの物語をあゆみを通して実話にしてしまう。そうした恐れを抱きながら物語の進行を追っている。耳の奥では、「もう一度、告白してみれば」というメローなささやきが生まれては消えた。鼓動のようにそれ自体が中心を離れて意志をもつ。

「可哀そう過ぎない?」あゆみは主人公に肩入れしている。そして、優柔不断な俳優を役柄を度外視してなじっていた。ぼくは過剰に感情移入しないよう努力していた。あれは、明日のぼくだった。ぼくの萌芽があれだった。

 あゆみの食欲。彼女がどの程度食べ、好みがどういうものかも知っている。ぼくらは共通に好きなものを投げかけ合い、一致するものを当てた。苦手なものもある。ふたりとも嫌いなものはなかった。

 目の前にあゆみがいる。日常になってしまった事柄。緊張もなく、自分自身でいられる。美化も、虚栄も虚勢もない。等身大の自分とあゆみ。この年月がぼくだった。ぼくは、これをこわすことなど望んでいるのだろうか? ひじりの今回の、二度目の別れとなってしまった本当の原因はどんなものだったのだろう。知る理由もない。ぼくらはもう既に他人なのだ。一線を越える、と口にしてみる。それは良いときに限定して使用するようにも思われた。ならば悪いときにふさわしい表現はなんだったのか? ぼくの内部に悪がある。出口を求めて、うごめいている悪がある。



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