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リマインドと想起の不一致(48)

2016年07月10日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(48)

 電話が鳴る。ひじりの声はこういうぬくもりある音だったのか。いや、片時も忘れることもないはずなのだが。

「相談にのってもらいたいことがあるんだけど……」すこし不安げな声の響き。
「相談?」
「相談というのかな、お願いなのかな」

 ぼくらは翌日に会う約束をする。一日は、その不安定な拘束を予想させる事柄だけで異常に長くなった。

 ひじりの過去の振る舞いを総ざらいする。しかし、濃密であっても親しくしていたのは一年とわずかである。そのなかで記憶に順位をつける。ぼくが幸せの絶頂だと当時は気付いていない日々。もどれないと思っていた。カンガルーの母のポケットであり、割ってしまった皿だった。手は滑り、人間はうっかりとミスを繰り返す。

 別れた日以来、ぼくの目を真正面で見ることのなかったひじりが、いまは、ここにいた。印象がすこし変わっている。だが、すこし話せばもとのひじりが帰って来る。ぼくはこの日を待ち望んでいた。彼女のお願いというものを、この一日で何度あれこれと考えただろう。疑問は悩みでもあり、同時に無限のよろこびでもあった。ひどいことは言われないだろう。わざわざ、会ってまで憎しみを告げることもない。わずかな希望がぼくを新しくする。刷新ということばが自分にあらわれる。

「彼女と別れたんだってね。聞いたよ。残念だね、どう、辛い? 訊くまでもないか」
「まあ、普通には」
「わたしとのときは?」
「どうかな。ごまかせないけど辛かったし、信じたくなかった」
「そうなんだ。うれしい。あ、別れたことじゃないよ」
「知ってるよ」
「わたしも自分のこころにウソをついているようだった」
「どうして?」
「言いたくない」

「あせって言わなくてもいいよ」沈黙というのは限りない破壊だった。そして、同時に修復の過程ともなった。でも、ぼくは自分から何かを促したり、率先して口を開く気を失っていた。その沈黙をひじりが終わりにしてくれた。勇気があるのだろう。

「ね、もう一回、わたしにチャンスをくれない。くれるかな?」とひじりが心細げに言った。それはぼくが言うべき唯一のセリフだった。主演とかエキストラとかの役柄を無視して挑む格好つけずに正直に語るべき生涯一度の本気の問いかけになるはずだった。こころの底からもれる本音の響きの振動だった。ぼくの答えは、もしくは何層にも塗り重ねたぼくの空想の中で繰り返した問いに対するひじりの答えは漆黒の闇にどう反響したのだろう。

 ここに君がいる。過去で終止符をつけたつもりの曲に、つづきの楽章のファンファーレが鳴る。フォルテ。ピアニッシモ。ひじりの表情は、ぼくの胸を強く叩く。ふたつの身体が連動しているように同じ左右の動きを両者が示す。影絵にでもなったみたいに、ライトに灯され。

 君がぼくの胸のなかにいる。もう一度いる。おそらく偽物でもなく、夢でもなく。

 のちにシャガールという画家を知り、幸福なふたりをモデルにしているが、あの夜のぼくとひじりであっても間違いはないであろうと勘違いをする。そのキャンバスのなかでぼくとひじりは手をつないでいる。どこにも飛ばされないように。



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