筆くらべ いかせ いのち
北原 隆義 (石川県七尾市妙観院 副住職)
先日、古書店で「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」という本を買い求めました。ページをめくっていると、弘法大師さまにまつわる昔話が載っていました。題名は「筆くらべ」といいます。
平安時代の三筆といえば、嵯峨天皇、空海、橘逸勢の三人で、いずれ劣らぬ書道の名人でした。彼らの文字は中国的な書風で、力強く、豊かな風格がありました。そのなかで空海は弘法大師と呼ばれ、真言宗の開祖であるばかりか当代きっての知識人で、いろは歌の作成からお饅頭の紹介にいたるまで、始まりのよくわからないものはみんな弘法大師の発案とされているほどです。
あるとき嵯峨天皇が空海を呼び寄せ、「私の持っている書を見せてやろう。良い手本になるぞ」と、たくさんの書を見せてくれました。「見事なものでございますな」と空海が頷くと、帝はその中でもとりわけ優れた筆跡で書かれたものを得意そうに広げました。「これはすごいぞ。唐の国の誰かが書いたものだろう。名前はわからないが誠にうまい。どう真似てみてもこのようには書けない。私の宝物だ」と目を細めます。「ごもっともでございます」と空海も頷きます。帝の様子を見ていれば、どれほどこの書を大切にしているか見当がつきます。「さすがに唐の国は広い。これほどの名筆家がいるとは、ほとほと感心してしまうほどじや」。
やがて空海は一礼して呼吸を整えると、「実はこれは私めが書いたものです」と言いました。帝はきょとんとして「そんなばかなことが…」と言うと、空海は重ねて「本当でございます」と答えます。「いや、それはない。第一そなたの筆跡とまるで違うではないか」と帝は笑います。空海は少しも騒がず、「ご不審はもっともでございます。ですが、軸から紙を少し剥がして糊付けされたところをご覧ください」と帝に申し上げました。
そこで家来に命じて隠された部分を見させると、確かに小さな文字で青龍寺沙門空海と記されてありました。弘法大師空海が唐の長安に渡り青龍寺で修行を積んだのは本当のことやす。沙門というのは僧侶のことで、このように署名するのが昔からの習慣でした。帝は「うーん」とうなると、しばらくして兜を脱ぎ「見事じゃ。しかしどうして筆跡が今と変わっているのじゃな?」と尋ねました。「はい、国によって書き方を変えたからでございます。唐は大きな国ですので、このように強く、勢いよく書くのが相応しいでしょう。その点日本は小さな国ですので、それに従って細かく綿密に書くようにしております」。「なるほど、そなたの言うとおりじゃ」と帝は称賛して止まなかったということです。天皇もまた巧みな筆の使い手であったからこそ、お大師さまのすごさがよくわかったのでしょう。名人を知る人もまた名人だということです。
著者の橘成季(たちばなのなりすえ)は九条家に仕えた名随身で、勤め退き、ゆとりの時間を使って本書の編集作業を行いました。これを読むと、当時の人達が弘法大師空海につぃてどう思っていたかがわかります。お大師さまの懐の深さと、人びとから敬愛されていた姿がほのぼのと浮かび上がってきます。
本多碩峯 参与 770001-42288
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