農業生産法人 株式会社金山パイロットファームの代表取締役 大西 誠氏とは小学校(神志山小学校)・中学校(御浜中学校)を同窓生として戦中、戦後の国の大きな変革期にも関わらず、非常に楽しく、思い出の多い素晴らしい人生の一ページであります。
72年前の1937年(昭和12年)小生2歳で家族と共に長崎県西彼杵郡時津村から三重県南牟婁郡神志山村に移住したのだ。
小生が小学校生の時代、大西 誠氏の尊父大西徳次郎が村長で、村人の生活困窮者へ自宅の農産品を先ず自身が届けたり、戦後の最初の衆議院議員選挙に保守系の議員候補からお金を持って票集めの依頼を受けるも、「自分はそんなモノを一切を受け取れない。受け取らなくても、一生懸命応援させて頂きます」と答えて、その保守系の候補者が当選された。 等々、美談が残っています。
小生の亡父が長崎の柑橘指導所長からの農林省の要請で神志山村に設立された三重県立の初代柑橘指導所長に赴任した。
72年前に、三重県南牟婁郡の柑橘産業を心に描いた方々の中心が上記の大西徳次郎氏で多くの仲間があった。
小生の亡父本多舜二は戦時中の柑橘栽培に困難な時代、戦後の軍人公職追放時代に大西徳次郎村長のご尽力が有ったからこそ、楽しい、素晴らしい思い出を頂いた事に感謝一杯です。
父の公職追放後、住む家も無くなるところ、官舎を特別の計らいで無料で住まわせて頂く特別な配慮も当時の大西徳次郎村長でした。
終戦の当時を思い出すと、戦後間もなく、紀伊半島の僻地に話には聞くも、村人が初めて見る進駐軍(米軍)の乗ったジープがやってきた。柑橘指導所の門の前に何時の間にか大勢の村人や子供が集まり、その内にジープが指導所の中へ入って行く、子供心に父の仕事場へ入って行く姿を見て、何か優越感をさえ覚えた。
正門に出てくる憧れのジープをみんな待っていた。
するとジープが正門に向かってやって来た。後ろの座席に進駐軍の間に父が元気なく座っている。一瞬に・・・感じる子供心・・・・・走り去って行くジープ。
すると、指導所の事務長が自転車に乗って急ぎ足に走ってくるなり、タカちゃん!
すぐ家に帰って! 大きな叫び声!
つづく