果物料理と果物食品加工

ビタミン・ミネラルに果物の仄かな香りに目覚める フルーツソムリエ

『食』

2012-10-09 15:17:15 | 高野山
 

『食』 

 

仏教では肉体と精神即ち「身心一如」といい、その身体を養う食を大切にします。

 

 大宇宙の中で「地・水・火・風・空」の五大要素、即ち大地・水・太陽・風(空気)・空(虚空)が宿っているのは、この地球だけです。この五大要素によって生きとし生けるモノ一切が育んでいます。 私たち人間を含む生きとし生けるモノ一切の「食」は、と、問われますとそれは五大要素であると答えます。

 

この生きとし生けるモノ一切の中で「識(心)」を以ているのが唯一、人間なのです。

 

この要素を六大要素といいます。   

 

 人間の「食」の原点がこんなところにあります。

 

 植物と動物

 

 私たち人間の食料には一般に植物と動物が御座います。ところで植物は無限に近くありますが、動物は獲れば減っていくと考えます。動物食は有害であるということも一概には言えないと思います。

  食物の字義はタベルモノであり、人を良くするモノであります。誰でも空腹を感じると何か食べられるものを口にしたくなる。
 このタベラレルモノが食物でもある。この食物を要求するのは本能によるもので。本能とは動物が生きて行くに必要な能力で、大自然は動食物を育み、創生し、それらを生かせて行けるように設計されています。それが本能と呼ばれる摩訶不思議な能力で、理屈なしにその目的を達成するようにしています。
 

 そこで、動物の食物ですが、唯、食べられるものといいましたが、実際は、そのものには動物が生きて行くのに必須で特殊な物質を包含しているものであるという条件がついています。すなわち、食べられるものなら何でもいいと云いきることは出来ないのであり、一般動物の食べていいものは、この条件に叶っている天然物そのままなのです。

  このようにいいますと、食物というものは面倒なもののように聞こえますが、動物の食べているものは実際には簡単で面倒なものではない。が、私たち人間は、そのような簡単なものでなく、至極面倒なものなのであります。それは人間だけに見られる文化的生活によるもので、人間だけに、食物以外に食品なるものがある。
 

 そこで、われわれの生活の保証、即ち人間の「生きて行く」という最大の条件に、三つが考えられます。

 

 その第一は生態の維持、生体を生存させるに役立つ物質。

 

 第二にその生体のもつ生命を継続させるエネルギーを供給してくれる物質。

 第三に以上の物質を生体内で充分利用し得るようにする物質。  
 というような、三種の働きをする物質が必要なのです。

これらの働きをする物質を栄養物質といいます。

  私たちの食物には、生きて行くに必要な物(質)を包含していなければならないのであります。生きているということは、無生物界にはなく、生物界に限定されていることです。人間が生きて行く前に、生物が生きていなければならないことです。それらの物質が、私たちが住んでいるこの地球上の何処でつくられているのかということでありはしないでしょうか。
  その答えはは至極簡単、それらのすべては、燦燦と降り注ぐ白日の下、緑色に、輝いている植物の葉の細胞内において水、炭酸ガス、窒素、燐、硫黄等の無機化合物からいとも不思議に迅速に合成されているのだこの合成された物質には、いずれも太陽からこの地球に降り注ぐエネルギーが包含されていて、生物の生活のエネルギーの供給源をなすのです。
  太陽は毎日東から昇り、西に沈み、昼はわれわれ地上のすべての物質を照らし且つ暖を与えてくれるばかりか生活のエネルギーをも与えてくれる、太陽なしには生物は生息し得ないのであります。
 

 人類の食生活

 

 食という文字を「人を良くする」と書きますが、一般動物が本能的生活をしているのに、唯いつ、人類のみは、そうではない。 文化とは人類のみ見られるもので、そのことは本来あるべき自然(じねん・人間も宇宙に実存する生きとし生けるモノの一員とする仏教的考え)から離れ、本来の自然を変更し、人間から見る自然(ネイチャー・西洋的考え)に歪ませた。

 

 人類の食生活も、その基本は本能にあります。この本能は意思によって欲情となり、食欲として現出し暴威を振るうのです。

  欲望は精神的現象で、食欲は食の本能そのものでなく、本能を助けるために発生したものですが、人類のように大脳皮質の発達した動物においては、欲情の勢力は絶対性を持ち、本能を従属するようになり、どうかすれば、欲情生活は大自然の掟(おきて)に悖(もと)ることとなって、生命現象を危険の淵に導く。
 

 禅宗では精進料理、密教では自然(じねん)への感謝の料理を通しての生活。

 

 食生活の享楽(きょうらく)

  私たちの人生は享楽を伴っています。
 享楽とは人生を楽しむことですが、動物界にあっても独り人類にのみ見出されるものであって、人生の基礎、生命を保証する食生活においても享楽は、その大部を占めているように考えられる欲情である。
 

 人類の食物の定義は、栄養物質の全てを包含していて、その栄養を保証するものであるばかりでなく、必ずその享楽面を満足させてくれるものでなければならないものとされている。

 

「こんなものなど食えるか」とはここから出る言葉である。

 

 このようにわれわれの食べものは、一般動物のように簡単なものでなく、必ず諸種の食品を材料として作られ、且つこれらを享楽し得る工夫された調理がされなくてはいけない。

 

 一般の動物には食品なるものはない。

 

人類の生活には食品なるものを考えなくてはならない。

 

 食物と生命体の関係

 

 植物は、自己の生活に必要な有機物質を無機物から合成するばかりでなく、同時に動物の栄養を保証する物質を作ってくれる。

  これは生物として動植物共に生体を構成する基本物質は同じである、と聞く。
 

そこで動物には右記のような無機質から有機質を合成する能力を与えられていないが、前述の原理によって動物は植物体から、その基本物質を消化によって作り出し、植物さえあれば動物の生活は可能だそうです。

 

享楽:快楽を味う。

  ここで、動物生育のために本来の方法は植物食であるといえるのです。しかし、動物の中にはこの植物体を動物体を媒介として摂取する、いわゆる動物食の動物がある。この両者を兼ねそえた混食、あるいは雑食動物も存在する。
 

 その食物の種類によって、植物食をする動物、動物食をする動物があり、前者を菜食動物、果食動物、後者を肉食動物といい、両者併せる持つものを雑食あるいは混食動物という。

  モノの本によると動物は、その食物の種類によってその肉体とその精神上に相当の影響を与えられるものだそうです。
 

 植物食をする動物は、消化器系は発達充実し、頭部に比し腹部が腹部発達(消化器を納める)して大きくなっているので三角形の形をしている。これは、植物食の消化には、その組織をなす細胞を包むセルローズの膜は直接消化することが出来ないので、咀嚼(しょしゃく)によって細胞を損傷させるか、さらにそれを溶解させるため細菌の援助を必要とするため、反芻(はんすう)し、盲腸などあり、さらに小腸などがある。

  しかし、食物は移動することのない植物であるからそれを食する動物の姿は餌をさがすための気骨の折れることがないので、緑草を食べる獣類の姿は至極平和で楽しく見られる。性質も気長で且つ温厚である。
 

 それに反し動物食を食する動物の行動は精悍(せいかん)そのものである。

体型は

 逆三角形で、頭胸部に比し腹部は狹くへっこみ、頭が入るところには抜け通
 

反芻: 牛などが、一度のみこんだ食物を胃から再び口中に戻してかむこと。

 

咀嚼: 食物をかみ砕くこと。

 このことが出来るといわれています。動物食は消化が良好であるためで、咀嚼することもなく丸呑みしても何ら問題なく短時間で消化されるそうです。
 

 しかし、動物食を食べる動物はその食物の動物を捕獲するのに相当の努力ばかりか常に流血を伴い獰猛(どうもう)である。混食動物は、この両者の特徴を併せ備えたものといえましょう。われわれ人間はこれに属するもので、消化器管も両者の中間にあることは、食生活上または食物について特に注意すべき点です。

 

 人類の肉食と動物食の違い

 

 動物の動物食を例にとって見ると、肉食獣といっても、その食物は肉だけを食べるのでない。猫がネズミを捕って食するのを見てわかるように、先ず腹部を食い破り、内臓を喰う、血をすすり、そのあとで肉を更に骨までかじるのであるという。これを肉食獣と呼ぶのは、全く的外れの呼び稱で、犬が肉食獣であるからと牛肉ばかり与えていたところ、何時までも大きく成長しないばかりか、脚腰も立たぬ哀れな子犬として死なせたという話があるそうです。

 

即ち肉には子犬を健全に育てるために必要な全てが包含されていないからです。

  肉好きな人間さんも肉だけには充分な栄養が包含されていないことを知ることです。
  又、植物性食品として穀類、豆類、芋類、果樹類、それらは皆植物体の栄養素として特殊な部分をなすもので、食品はどの食品をとっても単独で栄養的に欠落し、普遍的でないのであります。
 

 従って私たち人間の食物は栄養的に享楽的に料理に工夫が必要となる、これを再認識する事が非常に大切なことであります。

 

 美食と粗食

 

 人類の歴史で私たちの先人が残された文化を通して知り得ることは美術・建築・工芸・陶芸・食品、各文化において現在の技術を以ってしても先人に劣りはしないだろうか。

 足利時代に、わが日本料理道が非常に発達した。鳥では雉(きじ)、魚では鯉(こい)などを料理の絶品と言われ、野菜類では粗物(そぶつ)と唱えられたことが書物に残されているようです。戦後に美食といわれるのは、ぎんめし、といわれましたが今日でも玄米より白米が美味しいことには変わりがありません。
 

 ぎんめしの白米飯に、美味な肉類を食する食事。口当たりがよく、大変美味しいが、栄養学的に見ますと酸性食品である上に大変栄養的に欠落しているのであります。

  これに反して、粗物といわれる野菜を主とする食物はには、肉類にあるような優秀なたんぱく質こそ含まれていないかもしれないが、ある程度のたんぱく質もあり、前に述べた美食に不足している無機質や、ビタミンを豊富に含有しています。食物として優秀さがございます。動物食で、内臓を食べ、骨を噛(かじる)と同様な価値があるのであります。
 

 食物の献立はこのような点からも嗜好の面からも難しい問題があります。

  広大無辺な大宇宙で五大要素が唯一私たちの地球だけが神より供与され、人間だけが本能以外に神より工夫の智慧を供与されていることを認知し、平和なシンボルを中心としての私たち人類の食品一切が生きとしいけるモノであります。私たちは殺生なしに食する事が出来ません。天地に許し難い行為をさけ平和な感謝の生活を実践しよう。
 

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