果物料理と果物食品加工

ビタミン・ミネラルに果物の仄かな香りに目覚める フルーツソムリエ

400m山上義兄宅で大島さくら若葉摘み他 

2010-04-27 21:51:10 | 先祖を訪ねて
 
ワイフの亡姉のご主人(86歳)宅に甥が接ぎ木した大島さくらの若葉摘みを行事にしている。

お互いにお会い出来、遠慮なく話し合える事を楽しみにしている。

平家の落武者の里で8件が岡崎家であって、兄の家が本家となっている。

ワイフの兄が戦友でそばで銃弾に倒れ、軍服を形見に落ち帰るがご縁で姉と結婚。

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一人住まいで、お土産に手作り昼食を持って行く習慣!
今夏のメインの品は鯛の塩釜焼、非常に喜ばれる。

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例年可愛い甥が桜樹の登って切ってくれる。彼が桜の接ぎ木の名人。

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庭に咲く花々:
赤色の見事な千両

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白色の千両

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赤色の見事なつつじ

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黄色のつつじ

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名の知らないきれいな花

 

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直ぐ裏山の頂上に10基の風力発電所が出来た。
余所から来る者にとっては見事な壮観な風景だが、地域の住民にとっては、超低周波音が出るそうで厄介な問題があるそうだ!

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車で数分の処、帰りにそばを通る事にする。
帰りに甥や兄から見事なお土産を頂く。

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義兄や甥に消えて無くなるまで手を振って見送られながら感謝一杯で平家の里を下りる。 

大自然の森と海に育まれている豊かな紀州

2010-03-18 10:10:09 | 先祖を訪ねて
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海水とお母さんのお腹であかちゃんが育む羊水の養分が同じであると聞く、しかも一切の生物は海で誕生したとも云う。 
 その海水にはミネラル(無機質)の含有量が豊富であることはご存知のとおりです。
物理学者でもない小生が体験、読書それに必要に応じて専門家に拝聴した、雑学者(自称)が此処に述べる事をお許しを頂
きたい。
  三重県熊野市鬼が城風景

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小生が1960年に大学を卒業、就職した当時の飯野重工舞鶴造船所(戦前:海軍工廠、現:日立造船)に就職、防衛庁向け、兵器の電子化の開発業務に配属、磁気機雷では地球の地質学(開発過程で計測上学ぶ)、その後、半導体、電子材料(モリブデン・タングステン・シリコン等々)を取扱う。
今回は「水」についてお話したい。
学生時代は山岳部に在籍、就職後はヨット、社会生活ではボーイスカウト、1988年四国八十八ヶ所徒歩巡拝以来1991年から2006年迄は400ccバイクで紀伊半島神社仏閣巡回ツーリング(ワイフとタンデムツーリングと洒落込む)その間、趣味のアウトドアークッキング等で、「水」とは深い繋がりを頂き、今日もそうである。
山歩きが主であった時代に先輩たちから教わった非常に大切な事があります。
山の縦走や四国徒歩巡拝等で道中飲み「水」が必要に迫まれた時に山中で水のせせらぎの音を聞き、喜び勇んでその「水」を飲んではいけない。
先ず、「水」を
1. 観察する事。
2. 虫や小魚が泳いでいるか。
3. 水が澄み切って、川底に藻や苔が生えているか
水が澄み切って、川底に藻や苔が生えていない、しかも、虫や小魚が泳いでいない「水」は決して飲んではいけない。
小魚や虫が生殖できない物質が含んでいる事の証ですから、綺麗な「水」は必ずしも「真水」でありません。
2で少し濁っていても、小魚が泳いでいる事が非常に安全な証拠である。
昔から、「弘法の水」と言う湧き水がございますが、戦前は(土地開発前)は全く安全なしかも綺麗な「真水」でした。
 現在の湧き水の安全性を各市町村で検査をされて公表されていますが、
一般に黴菌(大腸菌等)の有無だけを分析公表していると聞きますが、私たちが必要とする「水」は黴菌が無いことは勿論ですが「真水」です。
 この「真水」が地球のミネラルを豊富に含有しています。
一方雨水と地中の湧き水とは大きな違いがございます。
雨水は主として海水が蒸発して出来る蒸留水と見なされますが、大気中には不純物がございますから「雨水には不純物」が含んでいる上に、海水のミネラルが殆ど含まれていないことが大きな問題です。
 今日、農産物の一般的な水耕栽培で「雨水」を使用しているのが多いですが、植物に必要なミネラルが十分含んでいません。
 非常に大切なことです。「美味しい、甘い」という事と「医学的に健康的に良い」と言う事とが一致しない事が分かってきました。
 例えば、近年、野菜を出来るだけ多く食べましょう!と言われて、「灰汁の無いほうれん草」等と水耕栽培された野菜がサラダ用と販売されていますが、「雨水」栽培で育った物が多い。
 野菜の灰汁は一般にポリフェノールと云われ、健康に生存するに必要な成分であります。
 野菜や果物はその品種に応じて夫々異なったミネラルを含有しています。
人間様と同じように色、形、言葉、食べ物、好き嫌い、が異なるように、食物の必要なミネラルも品種によって異なります。
 最近では農産物の生産地を判定するのに従来は食物のDNAを測定していたが、ミネラルを分析することによって同品種でも生産地を判定できると発表されています。
 この事は紀州でも「真水」でも、場所によってミネラルが異なる事を意味します。
紀州各地域のミネラルの分布図が描けることですね。
 弘法大師空海は実家の姓が佐伯といわれていますが、長野や新潟には佐伯家が多いです。小生が大学の山岳部で北アルプスを歩きましたが、佐伯という姓の方には山小屋経営者が多かった。南極大陸第一次越冬隊にその山岳家の佐伯さんが入っていました。
 空海の実家の職業は山師(鉱山・鉱脈の探す)であったとか。
伊都郡かつらぎ町に戦前官幣退社であった「丹生都比売神社」がございますが、高野山即ち空海とは非常に縁の深い関係と云われてきています。
大辞林 第二版(三省堂)によると、丹生とは丹(に)を産する所の意。地名として各地に存在する。
「ま金ふく―のま朱(そお)の/万葉 3560」
丹とは
(1)硫黄と水銀との化合した赤土。また、その色。辰砂。
(2)鉛に硫黄と硝石を加えて焼いて作ったもの。鉛の酸化物。黄色をおびた赤色で絵の具や薬用とする。鉛丹(えんたん)。
(3)薬のこと。特に不老不死の薬。
この訳文を見て、空海の唐の国に渡る以前の空白の時代を推測された書物を読みましても、一千年有にを超え、世界に聳える高野山の創建に空海の隠された技術が活かされている。
 小生の推測ですが、現在の根来寺の根来塗り、その原点の高野塗りにも応用されているのではないでしょうか。
昔から「弘法の水」と命名されて現在も湧き続けている名水を何となく理解できます。
 世界遺産熊野古道筋には所々に「名水」がございますが、昔ながらの「名水」を保存する対策があって、新たな「名水」の利用方法が生まれなければならない。大自然は無条件の無限物でなく、有限の中に無限物として尊いモノであります。 
紀州のあらゆる産物が紀州の水によって育まれていると言って過言でありません。
 小生はこの紀州水に育み、食物として育まれたミネラルを料理に食品加工に活かすべく日々営んでいます。






郷里の生家へ久しぶりに帰る

2010-02-15 14:21:43 | 先祖を訪ねて
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小学生時代に手作りの竹スキーで学校へ行き、竹スキー競技をした記憶が蘇る。
果物糀に取り組んで種々な果物の糀を検証していますが、田舎に柚子が生っている事を知り帰って来ました。
生家の襖絵が郷里のお寺雨錫寺(高野山真言宗・民族無形文化財「御田舞」)の襖絵と同じ絵師によって、同時期に書かれています。
これにはこの様な話があります。「昔、絵師が本来寺の仕事で本多で宿を貰っていたそうです。
 当時、本多に綺麗な娘があって、独身の絵師が恋心を描いて、その目的で、襖絵を描かせて下さい!寺の襖絵が完成してからと・・・。
 そのような訳で、寺の襖絵より我が生家の襖絵が綺麗です。・・・
 今も、寺の襖絵は御座います

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ワシントン・ポトマック河岸に植えられた桜苗木を育てた 熊谷八十三閣下

2010-01-16 14:16:55 | 先祖を訪ねて

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徳島新聞に子弟の黒上泰治氏が掲載された「風車」から
先ごろ九十五歳の老衰のために湘南南茅ヶ崎の自邸で亡くなった元農林省園芸試験場長・熊谷八十三翁は、明治生まれのひたむきな子弟愛と、曇りなき精廉さとに生きぬいた典型的な人物であった。
 熊谷翁の生前の仕事の一つに今でもアメリカ・ワシントン市のポトマック河畔にらんまんの春を飾っている桜苗木の育成事業がある。
明治四十年ごろアメリカ大統領タフト夫妻が日本を訪問した際、東京市は記念としてその希望に沿いサクラの苗木二千本を商人から買い入れて送ったが、付着している病害虫のため全部上陸港で焼却せられ、せっかくの希望を果たすことができなかった。
 当時、果樹の優良優良苗木の育成主任だった熊谷翁は、尾崎行雄東京市長の懇請を受け入れ、サクラの専門学者である三好学博士の指導で、染井吉野を主とし、八重桜、匂い桜、黄桜など十品種を、サクラの名所荒川堤からつぎ穂をとって山桜の実生台木につぎ、病害虫におかされていない六千本の苗木を見事に育成してワシントン、ニューヨークの両市に夫々三千本を寄贈する事に成功した。
 このサクラは数年ののち満開ごとに多くの観衆を呼び、市の花やかな行事の一つとして現在でも全米の人気を集めている。
 熊谷翁の最も大きい関心は、年々全国各府県から園芸の実際技術を習得するため試験場に入場する見習生の健全な育成にそそがれていた。それらの見習生は、各府県の農学校のトップクラスの卒業生のうちから毎年十数人ずつ厳選して許可されていたが、学校の性質上語学に弱いものが多かった。熊谷翁は場内の小山の上に建てられた官舎から休日を除いて毎朝七時には講義室に姿を現し、アメリカの果樹栽培に関する原典をテキストとして懇切な講義を行ったが、これはその後場長の職を退いたのちもある期間引き続いて止めなかった。実習時間には見習生と共に畑に入って接ぎ木の技術を競い、夜間は自宅に彼らを招いて生活の知恵をさずけ、悩みを解きほぐしてやった。見習生の修了者で組織せられ、各府県で園芸指導の重要な位置にある何千人かの桜会会員から、真実の親の様に敬愛されていたのはゆえなしとしない。
 翁の在職中、休暇などで帰省する見習生から、郷里の名産である陶器、漆器など数々のものが手土産にとして贈られる事が多かった。翁はそれらの土産物のうち保存がきくものは全部一定の場所に収納しておき、歳末や年頭に場員や見習生を自宅に招待して会食して出席者に分け与えることを常としていた。一切に筋を通し、わずかなものも私しない心の現れがこのような形を取ってしょりせられたものであろう。
 晩年の翁ははだしく耳が遠くなり、たまにたずねて行く弟子たちも翁と対話に声をからしたという。しかし、清く美しい翁の精神は、多くの子弟の胸裏に深く継承されて、その実生活のゆるぎなき指針となっている。 合掌
亡父と尊師熊谷八十三先生との書簡
先生愛用の楊枝の材料クロモジを亡父が贈っていたのですが、実は亡父は先生から教えられたのですね。 亡父もクロモジの枝から楊枝を作っていましたね。

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亡父は最後の奉職・和歌山県果樹園芸試験場紀北分場長時代、小生は高校2年
亡父が終戦時軍人公職追放で職を無くし、大学進学を残念し、好きな電気工学の道を進むべく、県立和歌山工業高校へ進学するも、父から大学に行きなさいと許可を得て進学受験の準備に入る頃。

この試験場は「生産日本一を誇る柿・桃」の試験場。

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恩師熊谷八十三先生からの賀状

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何時も簡単な文章ですが、非常に愛を感じます。

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富士山の絵ハガキ

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恩師熊谷八十三先生の愛弟子達。

前列向って左端が亡父舜二

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恩師熊谷八十三先生からの書簡

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郷里の生家

2009-12-09 21:17:45 | 先祖を訪ねて
 
郷里には無形文化財「御田舞」の杉の原。
米国に住む実弟の息子の婚姻届に必要な戸籍謄本を清水行政局に行く。
出発が遅く、里帰りは後日にして、国道から写真を撮る。
生家は築200年の茅葺の屋根にブリキか被せ、凛と建つ。、
 
年内に一度ゆっくり帰る予定。

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小中学校時代を過ごす熊野市へ行く (その四)

2009-07-27 21:03:23 | 先祖を訪ねて

農業生産法人 株式会社金山パイロットファームの代表取締役 大西 誠氏とは小学校(神志山小学校)・中学校(御浜中学校)を同窓生として戦中、戦後の国の大きな変革期にも関わらず、非常に楽しく、思い出の多い素晴らしい人生の一ページであります。

 72年前の1937年(昭和12年)小生2歳で家族と共に長崎県西彼杵郡時津村から三重県南牟婁郡神志山村に移住したのだ。

 

 小生が小学校生の時代、大西 誠氏の尊父大西徳次郎が村長で、村人の生活困窮者へ自宅の農産品を先ず自身が届けたり、戦後の最初の衆議院議員選挙に保守系の議員候補からお金を持って票集めの依頼を受けるも、「自分はそんなモノを一切を受け取れない。受け取らなくても、一生懸命応援させて頂きます」と答えて、その保守系の候補者が当選された。 等々、美談が残っています。

 

 小生の亡父が長崎の柑橘指導所長からの農林省の要請で神志山村に設立された三重県立の初代柑橘指導所長に赴任した。

 72年前に、三重県南牟婁郡の柑橘産業を心に描いた方々の中心が上記の大西徳次郎氏で多くの仲間があった。

 小生の亡父本多舜二は戦時中の柑橘栽培に困難な時代、戦後の軍人公職追放時代に大西徳次郎村長のご尽力が有ったからこそ、楽しい、素晴らしい思い出を頂いた事に感謝一杯です。

 父の公職追放後、住む家も無くなるところ、官舎を特別の計らいで無料で住まわせて頂く特別な配慮も当時の大西徳次郎村長でした。

 

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終戦の当時を思い出すと、戦後間もなく、紀伊半島の僻地に話には聞くも、村人が初めて見る進駐軍(米軍)の乗ったジープがやってきた。柑橘指導所の門の前に何時の間にか大勢の村人や子供が集まり、その内にジープが指導所の中へ入って行く、子供心に父の仕事場へ入って行く姿を見て、何か優越感をさえ覚えた。

正門に出てくる憧れのジープをみんな待っていた。

するとジープが正門に向かってやって来た。後ろの座席に進駐軍の間に父が元気なく座っている。一瞬に・・・感じる子供心・・・・・走り去って行くジープ。                                       

すると、指導所の事務長が自転車に乗って急ぎ足に走ってくるなり、タカちゃん!

すぐ家に帰って!    大きな叫び声!                                        

                                                      つづく

 

 

 

                             

小中学校時代を過ごす熊野市へ行く (その一)

2009-07-18 11:45:27 | 先祖を訪ねて

 

 

昭和12年に現御浜町志原(旧神志山村)に亡父が県立柑橘紀南指導所の初代所長として赴任、戦後昭和24年迄住んだ懐かしく、素晴らしい思い出の地へ馳せ参じた理由があった。

小中時代の同窓生 大西 誠氏が165ヘクタールの広大な柑橘園を所有する「農業生産 法人 金山パイロットファーム」の代表取締役である。

このファームの所有地であった農地に之また、遠大な夢の遠大な憩いの施設「熊野倶楽部」が完成した事による。

逃れられない人類の大敵、食糧難の到来に、人類にとって最も大切な健康を人類自ら創造する一つに、果物を使った料理並びに果物加工食品を紀州熊野から発信する事。

同窓生大西 誠氏、須崎維朗氏、住居だったご近所の方々のお会いする事。

 「熊野倶楽部」のオープニングは7月17日に盛大に行われた事のご連絡あり、ネット上でも確認。

 私はオープニング前の13日に一泊二泊の招待を頂いた。

ヨーロッパのスイスを思わせる広大な光景の数々をご紹介しよう!

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