果物料理と果物食品加工

ビタミン・ミネラルに果物の仄かな香りに目覚める フルーツソムリエ

慈しみのこころ

2011-05-02 20:13:12 | インポート

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慈しみのこころ

 日本大災害の発生から一ヵ月経過した四月十一日、震災物故者追悼法会を厳修させて頂いた日の深夜、所属している高野山真言宗宗務支所下寺院の青年僧十人と共に徳恩寺さま(鹿野融定住職)に集結し、一路、被災地ボランティアの前線基地となる宮城県大崎市にある弘法寺さまを目指し出発しました。
 翌十二日、弘法寺さまにおいて、金剛峯寺社会課の五味参事、高野山真言宗の東京・相模・長野各宗務支所下寺院の大徳さまと合流し総勢三十余名となった一団は、五味参事先導の下、宮城県石巻市の避難場所において、支援活動にあたりました。

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   台湾から届いている義損飯を倉庫に搬入する班、津波によって家屋などに侵入した泥を掻き出す班も二班に分かれて活動しました。
 翌十三日には岩手県遠野市に移動し「遠野まごころネット」のボランティアの方々二十数名と合流し、義損飯を倉庫に搬入。その後、それぞれの宗務支所単位に分かれての炊き出し。加えて救援物資の配布と作業は続きます。

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 私の班は、十二日には石巻市住吉中学校の避難所(避難者約四百名)で、十三日には福島県相馬市旧相馬女子高等学校の避難所(避難者約六百名)に、おいて、焼きそばとワカメの酢の物の炊き出しを行わせて頂きました。
 私は、両日とも酢の物を担当し、体育館を避難場所とされていた石巻では、体育館の入口で配布。一方、学校の教室が避難場所とされていた相馬においては、各教室に直接大きな寸胴鍋を持参し、配布することとなりました。
 ふと気づくと廊下の端から六歳くらいの小さな女の子の姿、その子は私の傍まで走り寄り、「あの酢のものとってもおいしかったよ!ありがとう!」と言ってきたのです。その子は配布の終わった教室から、礼を言うために出てきてくれたのです。その子の感謝を伝えようとする健気な様子は、私たちの心を大きく揺さぶり感動を与えました。どうにも涙が止まらなくなり、涙を目に浮かべながらの作業となりました。
 帰路のトラックの中、配布作業」を共にしていた鹿野融完師と「あの子の笑顔を見るために、我々は炊き出しをしたんだね。」と、少女の「ささやかな感謝の言葉」と少女のもつ「慈しみの心」に触れさせて頂いたことに心から感謝しました。
 被災地は未だ混迷している状態であり、「何も出来ない自分が被災地に行って、迷惑ではないか」と躊躇される方が、多くいらっしゃることだと思います。
 しかし、私たちはお大師さまの教えを享受する一人の人間として「お大師さまであったら、今いかなる行動をされるか」と深くお考え、この現実に起こっている状況に向き合って、一人ひとりが出来る行動を起こしていって頂きたいと強く思っています。
 自分の目でしっかり見て考え、お大師さまのお考えになる「慈悲の心」を広く差し伸べて参りましょう。
                                    合掌
             神奈川支所下遍照寺住職  紫 義彰

            
参与770001-4228(本多碩峯)

山椒糀とイワシ糀を使った機能的で美味しい醤油の手造り

2010-07-31 20:33:26 | インポート
 
山椒糀とイワシ糀を使った機能的で美味しい醤油の手造り
果物の料理に取り組む過程で亡父が戦後子供心にツルベ井戸のそばで、鰤(ぶり)やカツオ、ハマチをさばき、時期によって柚子や橙酢を使ってポン酢を造り、食べせて頂いた経験が、果物を使った調味料にも興味をい抱くようになる。
 
 ご縁があって果物糀が出来る事を立証、それならと、山菜(蕗の薹・山椒・桜の若葉・ヨモギ等)、根菜(人参・大根・牛蒡等)、魚(イワシ・サバ・秋刀魚等)が出来る事を見事立証する。
 
 今回は山椒糀と鰯(いわし)糀を使った醤油の手作りに挑戦!本日で一カ月になる。

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最初の一週間は毎日発酵の気泡が出て、掻き混ぜる。二週間目から二日に一回となる。

美味しい風味があり、美味しい機能的な醤油が出来る事間違いなし。

 

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発酵して気泡が出ている。

 

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掻き混ぜた後の状態。

一ヶ月後7月31日の状況:

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完全に発酵期が終わり、熟成期に入りました。糀は完全に沈殿している。

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美味しい風味が漂いますが、完成に半年から一カ年が待ち遠しい!

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山椒糀

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鰯(いわし)糀


ピーナツ豆腐の作り方

2010-07-14 16:13:31 | インポート
 
ピーナツ豆腐の作り方

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材料:3~4人分
1. 生ピーナツ・・・・・・・・・150g
2. ぬるま湯・・・・・・・・・・450ml
3. 芋クズ・・・・・・・・・・・150g
4. 水・・・・・・・・・・・・・150ml
5. 塩・・・・・・・・・・・・・小さじ1/2
6. おろし生姜・・・・・・・・・少々
7. 練りワサビ・・・・・・・・・少々
<甘醤油ダレ>
8. 酒・・・・・・・・・・・・・小2
9. みりん・・・・・・・・・・・小2
10. 砂糖・・・・・・・・・・・ 小2
11. 醤油・・・・・・・・・・・ 大1.5
12. 出汁・・・・・・・・・・・ 大1.5
<みそダレ>。
13.白味噌・・・・・・・・・・・大2
14.作り置き甘酢・・・・・・・・小2~3
準備:
☆生ピーナツはぬるま湯に漬ける。
☆芋クズと水をよく混ぜ合わせる。
☆<甘醤油ダレ>を小鍋に入れー煮立て冷ましておく。
☆<みそダレ>の材料を混ぜ合わせる。
作り方:
1. ピーナツをつけ汁ごとミキサーにかけ、しっかり撹拌し、固く絞った布でこす。
2. 鍋に芋クズを混ぜ合わせた水、塩をよく混ぜ合わせる 
3. 木べらで混ぜながら中火にかけ、トロミがついてくれば弱火にし10分位しっかり練りながら混ぜ合わせる。
4. 水を通した流しカン(プリンカップでもいいです。)に流しいれ、冷水を入れたボウルまたは鍋に流しカンごとつけ、何回か冷水を変えながら、粗熱が取れれば、水から上げて、型の上面をキッチンペーパーで軽くおさえて、水気をとる。ラップを掛けて、冷蔵庫で冷やす。
☆流しカンに、和布巾を敷いて、布巾の模様をつけたり、茶布絞りにしてもいいですね。
5.流しカンから取り
出し、食べやすい大きさに切り、お好みの味で頂きます。
☆ここでおろし生姜+甘醤油ダレ又は醤油・練りワサビ+甘醤油ダレ・醤油・味噌ダレのお好みのものを!




父の命日に徳川家の執事だあった祖父の遺品を和歌山城に

2010-04-11 06:55:38 | インポート
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 祖父が徳川家の執事として、紀州藩徳川家が経済的に厳しくなって江戸城(皇居)周辺の紀州家の屋敷を手放す必要になり、祖父母が東京に移住、小生が祖父母に誘われ共に生活、徳川家と御縁を頂く、戦後、貴族院制度が無くなり、初の参議院選挙に立候補、祖父が事務局長として、初めて選挙に携わる。

そんな訳で徳川家から頂いた中から、徳川頼倫候が五度も時代に使ったドイツ製玩具(木馬)が展示されている和歌山城を訪れる。子供時代に自分も使った懐かしい玩具で、感銘深い!
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(木馬)

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小中学校時代を過ごす熊野市へ行く (その五)

2009-08-10 22:31:16 | インポート
事務長の叫びに何か異様さを感じながら自転車の後を追って我が家へ!
母が迎へ、事務長が話しかける!
「本多所長が進駐軍に捕えられ、津市へ行きました。」
気の弱い母が泣きそうな顔で、事務長に聞き入っていた。
「何故?」
「何時帰りますか?」 と精一杯の言葉だった。
父は陸軍の軍人で柑橘技術者であった。
戦時の末期は食糧難で父の役目は食糧増産であって、柑橘の試験場であったが、田圃(たんぼ)で稲作もしていた。
 在郷軍人会会長や、当時、満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所と云って、現在の中国東北部一帯に拡がる未墾の沃野に青少年を送出し、将来大規模経営の農業者を育成し豊かな農村を築きあげ、日満一体、民族協和の実をあげることにあった。
 ここの臨時教官をも兼務してしていた事が軍人公職追放になった。
父は三が日程で進駐軍のジープで帰って来ました。
最初と違ってジープに近寄る人もなく、送り届けて帰って行きました。
 家庭の一室に家族が集められ、
「お父さんが試験場をやめる事になった。今日から仕事が無くなったが子供達の協力も頂きお父さんは頑張る!・・・。」
 ある日突然の変化! 父は何時も子供達に言った。
「戦争でお父さんを亡くした家庭の事を考えなさい!我が家は本当に幸せなんだと。」
 
 大西村長さんの計らいで、官舎をそのまま使用させて頂き、野菜や花の種、たばこ販売などの商店を開設するにも官舎を増改築の許しをも頂き、大西村長さんへ感謝の言葉を口にしていた。
 村のお盆にお寺で盆踊りがあれば、自分は小学校六年生頃、自転車に「たばこ」を乗せて「たばこ」売りに出かけ、予定の量を売り尽くし、楽しく、両親に褒められた。
 それが縁で、田植え時期になりますと、お百姓さんを目当てに日曜日などに自転車で売って回った。
 ・・・・・が?
 ある時、学校から帰ると、見た事のないおじさんと母が話している様子が・・・・・。
よく聞いていると、専売公社の方が、許可なく、子供が移動販売の違反をしたと・・。
後日、父が呼び出されたが、 父から「移動販売は違反だから止めましょう!でも、タバコ屋を続けられるから安心しなさいね」と励ます父。
当時、お借りした畑でサツマイモ栽培したり、シジミ貝を採ったり、売れるものは何でもお金にする家族労働、今考えれば、家族全員楽しく何の苦しみも感じず楽しさ一杯。
 
父は賀川豊彦牧師(灘生協・日本生活協同組合生みの親)の思想に信奉し、賀川豊彦の著書「死線を越えて」を購入し子供達に読み聞かせてくれたり、
クリスチャンで長崎医大の永井隆教授の原爆病で病みながら「この子を残して」と云う著書なども購入して読んだりしました。
 
父は生き生き・・・・・と、賀川豊彦牧師は戦後焼け野原となった灘でキリスト教会を建て、無料で食料を炊きだしていました。
日本も復興の兆しに、賀川豊彦氏が農民から新鮮な農産物を購入し消費者の立場になって販売して非常に喜ばれていました。
 牧師の友人が時の首相片山哲で首相は紀州田辺出身で東京大学卒で敬虔なクリスチャン。
賀川豊彦が消費者の立場になって販売しているシステムを全国的に展開する事が素晴らしいと理解し、片山哲首相に申し入れた。
「農民の苦労を理解し、消費者の立場で販売するシステム協同組合法」の制定を懇願され、片山哲が賛同して法制化に取組んだニュースを早く知り、父等も全国の友人の先輩同僚などと連絡を取り、「果物の組合を作るべく準備に入った。それが全国的に組織化された果実連合会である。」
 父は早速、三重県南牟婁郡果実連合会の会長として活躍をしていました。
 
そんなある日、和歌山県JAの前身和歌山県果実連合会の役員メンバーの数人が三重県の我が家に来宅、「是非、郷里の和歌山で働いて頂きたいと要請され、戦後の苦労を脱し新天地で働く決意を快く受託する。」
子供心に経済的に進学できなくても、専門学校で電気を学ぶ事が出来ると子供心に内心喜んだ。
 それが、三重県の熊野を離れ、郷里和歌山へ来た理由であった。
 不思議に片山哲のご縁で、小生自身、片山哲が日本の農業と、中小企業の育成、その時中小企業庁を創設し、初代長官に友人で当時京都大学経済学部教授蜷川虎三氏にお願いし受託して頂く、喜びの御礼に片山哲の家宝を贈った。
 後に蜷川虎三氏が戦後の京都復興で仏教伝統文化が無くなろうとする状況で、伝統文化を守ろうとする人々に懇願され、京都府知事として共産党員で無くも、伝統文化を守る組織が共産党であった。                  
                        三重県の熊野市訪問の思い出の記を終えます。                      
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

柑橘技術者であった「父の回想録」

2009-05-14 22:10:13 | インポート

Shunji02 白藤勝俊書・従姉妹婿

本来マイクロコンピューターシステム技術者であった私が、趣味として40年取組んで来ました果物料理に74歳のプロとして日々精進させて頂いている原点に柑橘技術者であった父を語らずして今日の私がございません。ここに10年前に書き上げた記事「父の回想録」を紹介します。


那智山・青岸渡寺へ

2009-01-13 20:55:33 | インポート

東京からプロ写真家渡辺慎一さん、加藤美和さんをご案内してマイカーで行く。

本来は渡辺さんのご希望で高野山へ行く予定が、積雪で行けず、急遽、那智山へ行ってきました。

 吹雪、雨、風、晴天、虹とその自然の光景が素晴らしい。

何度か参拝に訪れながら、念願の参拝が出来た、「補陀落寺」西暦313年頃極楽へ小さな船で入海水していった僧侶があった。