果物料理と果物食品加工

ビタミン・ミネラルに果物の仄かな香りに目覚める フルーツソムリエ

南方熊楠に学ぶ

2012-10-09 16:47:48 | 高野山
 
南方熊楠に学ぶ

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南方熊楠
 一般には植物学者と有名ですが、実は彼は空海密教の絶大な信者であった。空海密教の真理『五大要素』宇宙の空間で地・水・火・風・空が実存する唯一の地球にのみ一切の生物が育み、球形の地球のどの地点をとっても同じ環境がありません。

その異なった環境に叶った生物が存在するということ、即ち環境に即した異なる個性を持った生物が存在していることです。
 このような大宇宙の壮大そのものに、個性ある生物にどんな小さなモノにも不思議な現象がある個性を持たない不思議なモノや現象をわれわれ日本人は儒教の到来と共に日本人の地域社会の平安と道徳的指針の恩恵に敬う対象が神であり、個性を持った一切の生物即ち『山川草木悉皆成仏』本来実在の仏とが習合(神と仏が依存しあう考え)思想が奈良時代からはじまり弘法大師空海・最澄の時代に民衆にいっそうひろまり、神社に神宮寺を建てたり、寺院に鎮守神を祀ることが広まった。
 熊楠は郷里の紀伊田辺の雨量が多い原生林で太陽の光が届かない土壌にも、その場所の環境に適合した生物があるとの考えから発見した粘菌とは真に驚くべき素晴らしい生物であった。それは太陽を見ない多湿度の環境に育み、酸素を吸って炭酸ガスを排出しその環境に育くむ、他の
原生林の植物の成長に欠かせない生あるモノを排出し、粘菌が時間とともに太陽を求めアミーバーのように成長しながら木を登り太陽光に触れると炭酸ガスを吸って酸素を排出する。実にすばらしい生物ではないか。
熊楠が後世自然環境保全や、明治初頭廃仏毀釈から立ち直った日本仏教界に国際的な精神文化の紹介を担う契機として海外にいる熊楠の薦めでもあり、日本から土宜法竜(真言宗高野山派)・釈宗演(臨済宗円覚寺派管長)芦津実全(天台宗)八淵蟠竜(浄土真宗本願寺派)の四人の僧侶が仏教界を代表して参加した。
 南方熊楠と空海
 紀州が育み、一般には世界的な博物学者南方熊楠(一八六七~一九四一)、と知られていますが、熊楠が植物学に興味を抱く原点には空海密教に信奉した第一人者であったことです。
 「南方熊楠全集」を拝読しますと観察力の素晴らしさに心をうたれます。
米英遊学中の人物、生物、民族等への博物学を超えた観察力、高野山の後、官長になられた友人・土宣竜法師との往復書簡内容からも読み取れます。「大蔵経」を前後三回も読破されたとも言われるがごとく、土宣竜法師も南方熊楠の面白おかしい書簡内容の中に仏教論を感じ取ったに違いない。
 特に有名な粘菌の発見、紀伊田辺の神島の自然環境保存運動や維新政府の神社合祀への精力的な反対運動などはその原点が空海思想の密教の教えに帰一している。
 大宇宙の五大要素
 この大宇宙は五大要素(地・水・火・風・空)から成立っているが私達が生存している地球にのみ五大要素が育んでいる。それ故、地球に一切の生物が生かされている。私達人間もその生物の一つでありまして、人の心即ち識の要素を加え六大要素(地・水・火・風・空・識)といいます。
 我が地球に生存する生物はその環境に適応する生物として育んでいる。
 熊楠は紀州の多湿で太陽のあたらない原生林特有な環境にのみ育む生物・粘菌を発見する。太陽もさえぎる密林の中で酸素を吸い炭酸ガスを排出し、時間を経過するとともにアミバー状に成長し太陽に触れると炭酸ガスを吸って酸素を排出する。という素晴らしい生物を発見する。
 それが粘菌です!

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粘菌


『食』

2012-10-09 15:17:15 | 高野山
 

『食』 

 

仏教では肉体と精神即ち「身心一如」といい、その身体を養う食を大切にします。

 

 大宇宙の中で「地・水・火・風・空」の五大要素、即ち大地・水・太陽・風(空気)・空(虚空)が宿っているのは、この地球だけです。この五大要素によって生きとし生けるモノ一切が育んでいます。 私たち人間を含む生きとし生けるモノ一切の「食」は、と、問われますとそれは五大要素であると答えます。

 

この生きとし生けるモノ一切の中で「識(心)」を以ているのが唯一、人間なのです。

 

この要素を六大要素といいます。   

 

 人間の「食」の原点がこんなところにあります。

 

 植物と動物

 

 私たち人間の食料には一般に植物と動物が御座います。ところで植物は無限に近くありますが、動物は獲れば減っていくと考えます。動物食は有害であるということも一概には言えないと思います。

  食物の字義はタベルモノであり、人を良くするモノであります。誰でも空腹を感じると何か食べられるものを口にしたくなる。
 このタベラレルモノが食物でもある。この食物を要求するのは本能によるもので。本能とは動物が生きて行くに必要な能力で、大自然は動食物を育み、創生し、それらを生かせて行けるように設計されています。それが本能と呼ばれる摩訶不思議な能力で、理屈なしにその目的を達成するようにしています。
 

 そこで、動物の食物ですが、唯、食べられるものといいましたが、実際は、そのものには動物が生きて行くのに必須で特殊な物質を包含しているものであるという条件がついています。すなわち、食べられるものなら何でもいいと云いきることは出来ないのであり、一般動物の食べていいものは、この条件に叶っている天然物そのままなのです。

  このようにいいますと、食物というものは面倒なもののように聞こえますが、動物の食べているものは実際には簡単で面倒なものではない。が、私たち人間は、そのような簡単なものでなく、至極面倒なものなのであります。それは人間だけに見られる文化的生活によるもので、人間だけに、食物以外に食品なるものがある。
 

 そこで、われわれの生活の保証、即ち人間の「生きて行く」という最大の条件に、三つが考えられます。

 

 その第一は生態の維持、生体を生存させるに役立つ物質。

 

 第二にその生体のもつ生命を継続させるエネルギーを供給してくれる物質。

 第三に以上の物質を生体内で充分利用し得るようにする物質。  
 というような、三種の働きをする物質が必要なのです。

これらの働きをする物質を栄養物質といいます。

  私たちの食物には、生きて行くに必要な物(質)を包含していなければならないのであります。生きているということは、無生物界にはなく、生物界に限定されていることです。人間が生きて行く前に、生物が生きていなければならないことです。それらの物質が、私たちが住んでいるこの地球上の何処でつくられているのかということでありはしないでしょうか。
  その答えはは至極簡単、それらのすべては、燦燦と降り注ぐ白日の下、緑色に、輝いている植物の葉の細胞内において水、炭酸ガス、窒素、燐、硫黄等の無機化合物からいとも不思議に迅速に合成されているのだこの合成された物質には、いずれも太陽からこの地球に降り注ぐエネルギーが包含されていて、生物の生活のエネルギーの供給源をなすのです。
  太陽は毎日東から昇り、西に沈み、昼はわれわれ地上のすべての物質を照らし且つ暖を与えてくれるばかりか生活のエネルギーをも与えてくれる、太陽なしには生物は生息し得ないのであります。
 

 人類の食生活

 

 食という文字を「人を良くする」と書きますが、一般動物が本能的生活をしているのに、唯いつ、人類のみは、そうではない。 文化とは人類のみ見られるもので、そのことは本来あるべき自然(じねん・人間も宇宙に実存する生きとし生けるモノの一員とする仏教的考え)から離れ、本来の自然を変更し、人間から見る自然(ネイチャー・西洋的考え)に歪ませた。

 

 人類の食生活も、その基本は本能にあります。この本能は意思によって欲情となり、食欲として現出し暴威を振るうのです。

  欲望は精神的現象で、食欲は食の本能そのものでなく、本能を助けるために発生したものですが、人類のように大脳皮質の発達した動物においては、欲情の勢力は絶対性を持ち、本能を従属するようになり、どうかすれば、欲情生活は大自然の掟(おきて)に悖(もと)ることとなって、生命現象を危険の淵に導く。
 

 禅宗では精進料理、密教では自然(じねん)への感謝の料理を通しての生活。

 

 食生活の享楽(きょうらく)

  私たちの人生は享楽を伴っています。
 享楽とは人生を楽しむことですが、動物界にあっても独り人類にのみ見出されるものであって、人生の基礎、生命を保証する食生活においても享楽は、その大部を占めているように考えられる欲情である。
 

 人類の食物の定義は、栄養物質の全てを包含していて、その栄養を保証するものであるばかりでなく、必ずその享楽面を満足させてくれるものでなければならないものとされている。

 

「こんなものなど食えるか」とはここから出る言葉である。

 

 このようにわれわれの食べものは、一般動物のように簡単なものでなく、必ず諸種の食品を材料として作られ、且つこれらを享楽し得る工夫された調理がされなくてはいけない。

 

 一般の動物には食品なるものはない。

 

人類の生活には食品なるものを考えなくてはならない。

 

 食物と生命体の関係

 

 植物は、自己の生活に必要な有機物質を無機物から合成するばかりでなく、同時に動物の栄養を保証する物質を作ってくれる。

  これは生物として動植物共に生体を構成する基本物質は同じである、と聞く。
 

そこで動物には右記のような無機質から有機質を合成する能力を与えられていないが、前述の原理によって動物は植物体から、その基本物質を消化によって作り出し、植物さえあれば動物の生活は可能だそうです。

 

享楽:快楽を味う。

  ここで、動物生育のために本来の方法は植物食であるといえるのです。しかし、動物の中にはこの植物体を動物体を媒介として摂取する、いわゆる動物食の動物がある。この両者を兼ねそえた混食、あるいは雑食動物も存在する。
 

 その食物の種類によって、植物食をする動物、動物食をする動物があり、前者を菜食動物、果食動物、後者を肉食動物といい、両者併せる持つものを雑食あるいは混食動物という。

  モノの本によると動物は、その食物の種類によってその肉体とその精神上に相当の影響を与えられるものだそうです。
 

 植物食をする動物は、消化器系は発達充実し、頭部に比し腹部が腹部発達(消化器を納める)して大きくなっているので三角形の形をしている。これは、植物食の消化には、その組織をなす細胞を包むセルローズの膜は直接消化することが出来ないので、咀嚼(しょしゃく)によって細胞を損傷させるか、さらにそれを溶解させるため細菌の援助を必要とするため、反芻(はんすう)し、盲腸などあり、さらに小腸などがある。

  しかし、食物は移動することのない植物であるからそれを食する動物の姿は餌をさがすための気骨の折れることがないので、緑草を食べる獣類の姿は至極平和で楽しく見られる。性質も気長で且つ温厚である。
 

 それに反し動物食を食する動物の行動は精悍(せいかん)そのものである。

体型は

 逆三角形で、頭胸部に比し腹部は狹くへっこみ、頭が入るところには抜け通
 

反芻: 牛などが、一度のみこんだ食物を胃から再び口中に戻してかむこと。

 

咀嚼: 食物をかみ砕くこと。

 このことが出来るといわれています。動物食は消化が良好であるためで、咀嚼することもなく丸呑みしても何ら問題なく短時間で消化されるそうです。
 

 しかし、動物食を食べる動物はその食物の動物を捕獲するのに相当の努力ばかりか常に流血を伴い獰猛(どうもう)である。混食動物は、この両者の特徴を併せ備えたものといえましょう。われわれ人間はこれに属するもので、消化器管も両者の中間にあることは、食生活上または食物について特に注意すべき点です。

 

 人類の肉食と動物食の違い

 

 動物の動物食を例にとって見ると、肉食獣といっても、その食物は肉だけを食べるのでない。猫がネズミを捕って食するのを見てわかるように、先ず腹部を食い破り、内臓を喰う、血をすすり、そのあとで肉を更に骨までかじるのであるという。これを肉食獣と呼ぶのは、全く的外れの呼び稱で、犬が肉食獣であるからと牛肉ばかり与えていたところ、何時までも大きく成長しないばかりか、脚腰も立たぬ哀れな子犬として死なせたという話があるそうです。

 

即ち肉には子犬を健全に育てるために必要な全てが包含されていないからです。

  肉好きな人間さんも肉だけには充分な栄養が包含されていないことを知ることです。
  又、植物性食品として穀類、豆類、芋類、果樹類、それらは皆植物体の栄養素として特殊な部分をなすもので、食品はどの食品をとっても単独で栄養的に欠落し、普遍的でないのであります。
 

 従って私たち人間の食物は栄養的に享楽的に料理に工夫が必要となる、これを再認識する事が非常に大切なことであります。

 

 美食と粗食

 

 人類の歴史で私たちの先人が残された文化を通して知り得ることは美術・建築・工芸・陶芸・食品、各文化において現在の技術を以ってしても先人に劣りはしないだろうか。

 足利時代に、わが日本料理道が非常に発達した。鳥では雉(きじ)、魚では鯉(こい)などを料理の絶品と言われ、野菜類では粗物(そぶつ)と唱えられたことが書物に残されているようです。戦後に美食といわれるのは、ぎんめし、といわれましたが今日でも玄米より白米が美味しいことには変わりがありません。
 

 ぎんめしの白米飯に、美味な肉類を食する食事。口当たりがよく、大変美味しいが、栄養学的に見ますと酸性食品である上に大変栄養的に欠落しているのであります。

  これに反して、粗物といわれる野菜を主とする食物はには、肉類にあるような優秀なたんぱく質こそ含まれていないかもしれないが、ある程度のたんぱく質もあり、前に述べた美食に不足している無機質や、ビタミンを豊富に含有しています。食物として優秀さがございます。動物食で、内臓を食べ、骨を噛(かじる)と同様な価値があるのであります。
 

 食物の献立はこのような点からも嗜好の面からも難しい問題があります。

  広大無辺な大宇宙で五大要素が唯一私たちの地球だけが神より供与され、人間だけが本能以外に神より工夫の智慧を供与されていることを認知し、平和なシンボルを中心としての私たち人類の食品一切が生きとしいけるモノであります。私たちは殺生なしに食する事が出来ません。天地に許し難い行為をさけ平和な感謝の生活を実践しよう。
 

法を食べる僧

2012-10-09 15:06:24 | 高野山
 
 

「法を食べる僧」

 

東寺の食堂

 

「食」人を良くする堂

 

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東寺 食堂(じきどう)

 
北大門を入ると、すぐ「食堂」がある。食堂と書いてジキドウと読み、本来は僧侶が集まって一緒に食事をとったところという説がある。しかしその真意は定かでない。
 

東寺の僧侶は、このように食堂を解釈する。

 

僧の食事ってものは、仏法を食べることなんやね。ご飯を食べることとは違うんですよ。あそこに、鍋や釜がありますか。食事をするというと、すぐ、ごはんを食べると想像するけど、僧の食事は仏法なんですよ。千手観音像の前で僧たちが一緒に食事をとるなんて、僕には想像つかんことやけど、ね。僧たちがね、仏さんの前で食べるんじゃろうか。仏像祀っとる前で、仏さんの前で僧がすることは、読経する事でしょう。千手観音を本尊として聖僧文殊を主尊として、それが僧の身を養い、命を保つことなんや。この、身を養い、命を保つという解釈が、食事にたとえられてると違うのかな。

 

命を養い、身を保つものを食(ジキ)というわけでしょう。その食に触れることによって、命を養い、身を保っているんですよ。ごはんだって食べることなんか人間人間できないですよ。口ちん中入れて、体の中をすぎているだけでね。触れてただけでね。それを我がものにできますか。その食のご縁によって命を養い、身を保っているわけやから。僕は、そうとしか、よう解釈せんけどね。

 

食堂は1930年(昭和5年)に火災にあい、現在の建物は焼け残った木材を利用して再建されたものである。その火災で、「千手観音像」は大破し、3メートルを越える日本最大の「四天王像」4体は焼けごげてしまった。千手観音像、四天王像、聖僧文殊像は、ともに800年代に作られたものといわれ、千手観音像は修復され宝物館に安置されている。炭化が激しい四天王像4体は、長いこと金堂の片隅に人々の目に触れることなく、ひっそりとたたずんでいた。

 

しかし、創建1200年を迎える節目にと、1994年(平成6年)から特殊な樹脂により固める作業が続けられている。

 

聖僧文殊像は、食堂が焼失する以前に移されていたため焼失を免れ、現在はやはり宝物館に安置されている。この聖僧文殊像は「3人よれば文殊の知恵」といわれるように知恵の仏として有名であり、一般に菩薩の形をしているが老僧の姿をしているため聖僧文殊像といわれている。

 

そもそも大乗仏教の寺の食堂には、主尊として聖僧文殊像が安置されている場合が多いといわれる。「東寺文庫」弘法さんの玉手箱より

 

仏教では、私たちの食事を神聖な儀式としてとらえ、又仏さまへの食事のお供えを毎朝先ず、はじめの大切な行事です。私のような修行僧にとって、1年365日の毎朝のお供えは最も大切であり、一切の幸せを祝福、祈願する行事であります。「食」とは人を良くすると解釈できる考え,僧侶にとって食堂は「仏法を食する堂」であると学びたい。

 


江戸のスカイツリー

2012-06-21 18:56:31 | 高野山
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  庶民文化が開花した江戸時代後期に登場し、「江戸に国芳あり」と称えられた天才浮世絵師 歌川国芳(※1うたがわくによし)の「東都三ツ股の図」が話題を表します。

  国芳こそ、飢饉(ききん)や地震など閉塞(へいそく)した時代を、反骨精神と奇抜なアイデアで縦横無尽に駆け抜け江戸の庶民に勇気と笑いを与えた浮世絵師といわれます。

  絵の中、煙がたなびく隅田川ののどかな風景に目を落とすと川向こうに、評判の「東京スカイツリー」を思わせる建造物を見ることが出来ます。二十一世紀の日本とどこか奇妙に符号する時代背景をもち、まるで未来のスカイツリー建設を予見していたようにも映ります。

  この絵に描かれた奇想とも思われるツリーの真相は井戸を掘削する施設「井戸掘り櫓」が最有力祝されるようです。

   一方、現代のツリーは昭和を代表する東京タワーにかわっての電波塔です。

  この塔は、日本の寺院建築のうち五重の塔の構造を参考に建設されたといわれます。

  お大師さまは 『性霊集』巻九「東寺の塔を造り奉る材木を曳き運ぶ勧進の表」において、塔は仏さまのすべての功徳が乗るところ、福徳は無尽であると建立の功徳について述べられております。

  また、『畔字義(うんじぎ)』 で「三種世間(※2さんじゅせけん))はみなこれ仏体なり」とし、全てのものに仏さまのみ教えが備わっていることを教えてくだきっております。

  天高く奪えたつ平成の電波塔「東京スカイツリー」が多くの仏智福徳を導くシンボルとなることを強く願っております。

   「東京スカイツリー特集」本号四・五面掲載

   ※1 歌川国芳(一七九七~一八六一)画想の豊かさ、斬新なデザインカ、奇想天外なアイデア、確かなデッサンカを持ち、浮世絵の枠にとどまらない広汎な魅力を持つ作品を多数生み出した絵師

   ※2 三種世間

  有情世間(人間のすんでいる社会)、器世間(人間の住む環境社会)、智正覚世間(仏の住んでおられる安楽国土) のこと

本多碩峯 参与 77001-0042288-000 


生かせ いのち  お大師さまの お師匠さま

2012-06-11 20:33:00 | 高野山
 

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お大師さまの お師匠さま

  天野 高雄

  高野山は平成二十七年に開創千二百年記念法会を行います。お大師さまが唐から法を持ち帰られ、高野山をお開きになってから千二百年になります。

  毎日、南無大師遍照金剛と拝ませていただき、今何を伝えなくてはいけないかということをよく考えます。あまりに偉大で当たり前になりすぎたお大師さまのご遺徳を、どのようにお話しすればよいかと思い、今一度、開創ということを考えてみました。お山を開かれたときの情熱、またどのような決意を持って中国へ渡られ、最大のお師匠さまである恵果和尚(けいかかしょう)に出会われ戻ってこられた部分を、もう一度若い僧侶の立場で見つめなおしたいと思い、いろいろな資料に目を通させていただきました。

  恵果和尚は中国の方で、当時真言宗の法を持っておられた最大の僧でした。お大師さまは、この法が今の日本には必要だからぜひ現地へ行って学びたいという指針を立てられ、遣唐使船に乗り込みます。遣唐使船での航海は本当に命がけでしたが、お大師さまは決意を秘めて、苦労のもと赤岸鎮に着きました。そして二千四百キロ歩いて西安に到着します。

  会えるかどうかわからない恵果和尚のもとを訪ね門を叩くと、和尚は一目でお大師さまのすばらしさを見抜かれて灌頂の壇へ案内します。それから誠心誠意を尽くされて何カ月もかかってすべての大法を授けました。そして、早く帰って東の国へこの法を広めるよう伝えると、精根尽き果てて永眠されました。

 一番弟子となったお大師さまは残ってすべてのことをやっていかなければなりません。いろいろな悩みを持ちながら、恵果和尚が亡くなられた夜に瞑想にふけります。そしてこのとき、うかつにもうとうとしてしまいました。その夢枕に恵果和尚が現れます。「あなたと私は永遠に繋がれた鎖を持ってここまで来ました。何度も出会い、離れてはまた出会いを繰り返し、今最高の出会いがあるのです。この別れをそんなに悲しまなくてもよろしい。私は今あなたの師匠です。しかし、今度は私が東の国に先に戻って、生まれ変わってあなたの弟子となります」と言って姿を消しました。

  そのときお大師さまは心を決めて最後の船に乗ります。その後しばらくして遣唐使の廃止が決まりますから、その船に乗っていなければ今の我々の貴いみ教えはなかったのです。

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  そして気付かなければならないのは、師匠が弟子に向かって「あなたの弟子になる」と言うことです。これは親子においても、教師と生徒においても言えることではないかと思います。生んでやった、してやったという次元ではありません。

 今日の前にいる子や孫は自分の父母だったかもしれない、師匠だったかもしれない、そう思って誠心誠意子どもたちを尊敬して接したならば、教育の状態も少し良くなるのではないでしょうか。学校の先生たちが、この子の生徒、この子の子になるという気持ちで思いを注がれたら、きっと良くなると思うのです。

 ▽筆者は岡山県倉敷市 高蔵寺の住職です。

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宗祖ご誕生の日   青葉萌ゆる高野山へ

2012-06-01 18:33:43 | 高野山

 


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宗祖ご誕生の日

 

  青葉萌ゆる高野山へ

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善通寺境内の大楠(写真提供:総本山善通寺)

お大師さまは、宝亀五(七七四)年六月十五日、讃岐国多度都善通寺(現在の善通寺市) において、佐伯善通卿と玉依御前の間にお生まれになりました。

 幼名を真魚(まお)とし神童と呼ばれていた幼少のお大師さまの御誕生には様々な伝承神話が存在いたします。

 お大師さま御自身のお言葉の中に「私がちょうど五、六歳でまだ両親のもとにいた時分。美しい蓮華の上に座って、諸々の仏さまたちと言葉を交わす夢をみた。しかし、そのことは父母に全く語ることがなかったし、ましてや他人に語ることはなかった。」とあり、父母は「私たちのこの子は御仏の御弟子だったに相違ない。なぜならば夢の中で遠い天竺国(インド) から立派な聖人が来られ、私たちの懐に入られたのを見たのです。貴方は、たしかに御仏の申し子です。ですから大きくなったら立派な聖人となって御仏の御恩にお報いしなければなりません」と話されたとあります。

 また、幼少のお大師さまは、いつも泥土で仏像を作り屋敷の近くに木片を集めては小さなお堂を造って、その中に仏像を安置し礼拝供養の真似事をして遊ばれたともあります。

 父である佐伯氏の御殿跡に建立される善通寺境内には、御誕生の頃から繁茂していたと伝えられる高さ約三〇メートル、幹周り約十一メートル、視界をおおうほどに茂った「くすの木」が堂々たる倖まいをみせております。

 お大師さまは自らを仮名乞児(かめいこつじ)という仏道求道者に扮し、儒教・道教・仏教思想を対比して仏教の優位性を論じ、仏門に入ることを述べた ※1『三教指帰(さんごうしき)』巻下の六道輪廻を論ずる段において、「木へんに豫樟日(よしょうひ)を蔽(かく)す」と郷里の「くすの木」について、太陽の光を遮るほどに繁る木と表現されております。

 樹齢千三百年を超えるといわれ往古から変わらぬ倖まいは、お大師さまの幼い日からの歳月を彷彿とさせます。

 お大師さま御誕生の日、高野山では→宗祖誕生会・青葉まつり」が一山をあげて盛大に行われます。

 青葉萌ゆる高野山へのご参詣を心よりお待ち申し上げます。

1 「三教指帰」…お大師さまが二十四歳の時(延暦十六年) に四六併催体の漢文で著作完成された三巻(上・中・下) にわたる「出家の宣言書」。

 ※2 「木へんに豫樟」…木へんに豫も樟も共に「くすの木」のこと

 本多碩峯 参与 77001-0042288-000  

 

 


 

 


開創通信   第一号

2012-05-22 18:48:07 | 高野山
 

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開創通信 第一号

高野山開創千二百年記念大法会

 
  

①中門再建進捗

 

 高野山開創に当たってお大師さまがまず仏塔建立を計画された壇上伽藍。その正面に設えられた高大な工事用素屋根内の現場で、十八本の白く輝くヒノキの柱群(高さ四・八㍍)が姿を見せています。伽藍への正門となる中門は、江戸時代後期のものが焼失して以来の再建となります。あと一千日余りに迫った千二百年記念大法会に向けてのメイン事業で、作業に当たる堂宮大工さんたちの士気もますます高まっています。

 

 この柱群は、前面に六本の柱列がずらりと並ぶ中門の下層に当たる部分です。鎌倉期の建長五(一二五三)年に完成して江戸中期まで伽藍を飾った第五期の中門がモデルです。今後、下層の上に組物、さらに上層、組物、屋根と順次造営が進められ、平成二十六年末には東西二十六㍍、南北十五㍍、高さ十六㍍の豪壮な入母屋造りの中門がその全貌を現します。

 

 

 

 

 

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現場を担う高野山建築協会長で尾上組社長の尾上恵治さんは「鎌倉期の仕事を受け継ぎ、三百年後まで伝える、そのつなぎ役としてのク冥利″をこの仕事中に何度も感じさせていただいています。自然石の礎石に重さ一トン近い柱すべてを一分の狂いなく建てられたことにも感動しております」と。開創法会事務局の近藤本淳局長も「百七十二年ぶりに我々真言僧侶の悲願が達成されるのは誠に喜ばしいことです」と話されました。

 今後、世界遺産であり、ご開創から千二百年を迎える高野山にとって「新しい顔」の誕生が待たれます。

 

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②「弘法大師の道」

 お大師さまが青年期に歩かれた吉野山から高野山への道を探り、地域振興につなごうというシンポジウムが二月二十六日、奈良県立橿原考古学研究所で開かれました。

お大師さまの著作『性霊集』 (巻九) には「少年ノ日」に吉野から南へ一日、西へ二日ほど山中を歩いて「高野」という「平原ノ幽地」に至ったという記述がみられます。後年、お大師さまが密教の修行と勉学に最適の環境として高野山を開かれたきっかけとなったことは明確であり、この「吉野・高野の道」こそ、高野山開創千二百年の原点と考えます。

 

 約二百人が参加したシンポジウムは「空海を育てた道吉野~高野」をテーマに、総本山金剛峯寺の村上保寿教学部長、金峯山寺の田中利典執行長、同研究所の菅谷文則所長が参加。ルートの復元では、村上部長の試案などに菅谷所長から考古学の視点も加えられ、吉野の比曾寺(現在の世尊寺)辺りを起点に金峯山寺や大天井ケ岳を経て西へ尾根筋をたどり高野山に至るコースが想定されました。

  今後、このシンポジュムの主催団体である「弘法大師 吉野・高野の道プロジェクト」実行委員会(村上委員長、事務局奈良県地域振興部南部振興課)が、沿線地域の再生・活性化に向けた具体的な取り組みなどを協議し、実現を目指します。

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葬儀について    その3

2012-05-08 13:16:51 | 高野山
 

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葬儀について  その3

 -仏教が取り組む葬儀の意味と意義-

  平成お年715日 在家仏教協会 札幌会場定期講演会講演より

  北海道深川市丸山寺住職 高畑 俊孝

 浄土真宗-浄土真宗の葬儀は仏式葬儀としては例外的といえます。最大の違いは死者を供養しないということです。その理由は二つあります。一つは、浄土真宗の門徒として阿弥陀仏を信じ念仏を唱えた者であれば、死と共に阿弥陀仏によって極楽浄土に迎え入れられているので、僧や遺族がお経を唱えで成仏を祈る必要がない理由。もう一つは浄土真宗では礼拝の対象はあくまも阿弥陀仏あって、死者ではないという理由。こうした態度を取るのは、他力本願という宗旨に忠実であろうとするためです。一切衆生は阿弥陀仏のご誓願によつて極楽浄土への往生が決まっているので、我々に出来ることは阿弥陀仏の名を唱える念仏によって感謝することだけだとされます。

読経念仏により往生させようとか、死者に引導を与えようとすることは、自力行なるので、避けられます。また民俗信仰的な行為も排されます。

それでは何の為に葬儀をするかといえば、故人の立場からいえば往生出来たことに感謝を表すためであり、葬儀を主導する導師は、故人に代わつて報謝の読経をするとされ、遺族や会葬者の立場からいえば、死は誰にも避けられない世の無常をに思いを致し、阿弥陀仏の救いの有り難さを再認識することだとされています。

禅 宗-現代葬儀の原型を作ったのは、禅宗の果たした役割が大きいと言えます。鎌倉、室町時代に禅宗の葬儀にて遺影や位牌が用いられるようになりました。他の宗派でも禅宗の葬儀の形を取り入れているものが多くあります。

禅宗の教えの根本は、日常の「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」行く、止まる、座る、寝る、全てが修行であり、その中に悟りがあると説きます。葬儀も例外でなく、「清規(しんぎ)」と呼ばれる修行規定の中に、次第作法が定められています。

禅宗の葬儀の特長は、授戒と引導にあります。
禅宗の葬儀では教理と儀礼が緊密こ結びついています。

僧の葬儀法を在家の人に応用するために没後作僧(ぼつさぞう)(死者に対して出家の儀礼を行うこと)の中で核となるのが受戒です。死者はこの儀礼を受けるより戒律を授かり、正式の仏弟子(出家者)になります。その証として戒名と血脈が与えられます。血脈とは教えが師から弟子へ脈々と伝わるこぞを血の流れにたとえたものです。「引導」は本来人々を仏教の教えに導いて、煩悩による苦しみから救うことを表す言葉です。これが葬儀の中心儀礼になっています。

 没後作僧において戒を授け僧にはしたが、それでは足りない。仏法の心髄を悟ってこそ「仏になる」ことが出来るとし、受戒と引導、言い換えると行と教え、この二面のコンビネーションで成仏へと導くのが禅宗の葬儀です。

日蓮宗-日蓮宗の葬儀の目的は、死者の霊を霊山浄土に導くこととされます。霊山とは霊鷲山の略で「法華経」に、我々の住む現世は実は浄土であり、その中心にそびえるのが霊鷲山で釈迦は今もそこで説法を続けていると言います。これが霊山浄土です。その浄土におもむいて釈迦に拝謁することを霊山往請(りょうぜんおうけい)といいます。
 この霊山往請(りようせんおうけい)の信仰は浄土信仰と本質的に異なる点があります。極楽は西方十万億土つまり現世とは違った世界である。それ故この生身ではいくことは出来ず、肉体を捨てた後阿弥陀の来迎をえていけることが出来る
 これに対して霊山浄土は凡夫には見えないもの、現世に現存しているものであるから、確固たる信心をもてば、今すぐに目にすることができのです。もちろん死後も迷いのもととなる肉を脱ぎ捨てれば、霊山の釈迦に直参できる。法華信者は間違いなく霊山浄土に赴けるというのが、日蓮宗の葬儀なのです。
 日蓮宗の葬儀のポイントは、お題目を唱え、法華経を読誦し、その功徳を生者 死者に分け与えることにあります。お題目が「妙戒」(すぐれた、不可思議な戒)で、それを信じ、保つことが基本であり、そこから葬儀式では唱題がそのまま戒を保ち、戒徳を回向することになります。 つづく

 

 

本多碩峯 参与 77001-0042288-000


先に懺悔  生かせ いのち

2012-05-06 15:15:42 | 高野山
 

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先に懺悔

 

 天野 高雄

  懺悔という言葉がありますが、仏前勤行次第の中には懺悔文と書かれています。西洋の映画などで、教会で懺悔をする人が謝っている場面を見ますが、子どもの頃、奇妙に思って師匠に聞いたことがあります。本当かどうかわかりませんが、仏教は行う前に反省するので「さんげ」、他の宗教では行った後に謝るから「ざんげ」と濁るのだと教えられました。行った後に謝る方が効率がいいではないかと思ったものでした。

 職になってしばらくたったある日の夕方、本堂に一人の少年が飛び込んできました。十三、四歳の見たことのない子で「助けてください」と言って泣き出します。誰かに追われている様子もなく、座らせて背中をボンボンと叩きながら般若心経を唱えていると少しずつ落ち着いてきました。話を聞くと、万引きをしそうになったと言うのです。したのかと聞くとしていないと言う。していないのならいいじゃないかと言うとまた泣き出す。よく聞いてみるとこんな理由でした。 近くのお店で、度胸試しのようなこともあったのでしょう、他愛のない物に手が伸びました。それをポケットに入れようとしたらドキドキしてきた。その瞬間頭に浮かんだのがおばあちゃんの姿だったそうです。その子の家にはおばあちゃんがいて、おじいちゃんが亡くなったあと幼い孫を膝に乗せて毎日おじいちゃんのために一生懸命拝んでいたそうです。子どもにはたくさんの疑問が湧きます。あれは何?これは何?それはどういう意味?思ったことをすぐに口にします。

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  おばあちゃんは、優しく丁寧に全部教えてくれたそうです。 不殺生とはものを殺してはいけないということ、不偸盗とは物を盗ってはいけないということ。「物を盗ったらどうしてだめなの?」と聞くと、おばあちゃんは「物を盗ったらお父さん、お母さんが悲しむ。物を盗ったらばあちゃんが悲しむ。物を盗ったら死んだじいちゃんが悲しむ。物を盗ったらお店の人が悲しむ。物を盗ったらあんたが悲しむ」と言ってくれたそうです。そして少しやんちゃになった頃にそのような事件に巻き込まれるのですが、手を伸ばした瞬間におばあちゃんの「不偸盗、不偸盗。盗んだらみんなが悲しむよ」という言葉が浮かび、手が止まって走って逃げたそうです。

 「やってから謝ればいいのでは」という疑問はその事件で一掃されました。物を盗る、盗らない、返せばいいという問題ではないのです。心に大きな傷ができるのです。不合理なようですが、幼児の頃から「しではいけない」と教えられたことが歯止めになるのだと思います。やってしまって、取り返しがつかないことになってから懺悔をしてもだめなのです。皆さまが毎日お唱えされる仏前勤行のときにそのことを思ってください。「弟子某甲尽未来際」とありますが、某甲とは誰の名前でもありません。皆さま各々のお名前が入るのです。それを踏まえた上でしっかりお勤めをして、このおばあちゃんのように次の世代に伝えていっていただけることをいます。

 

  ▽筆者は岡山県倉敷市   高裁寺の住職です。

   本多碩峯 参与 77001-0042288-000


今、よみがえる『中門』      最終回

2012-04-26 15:21:52 | 高野山
 

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今、よみがえる『中門』  最終回

   ~大いなる御誓願の追想

  高野山開創千二百年記念大法会事務局

  壇上伽藍の根本大塔から奥之院御廟までの間、高野山町石道(こうやさんちょういしみち)の沿道に建てられている町卒塔婆(町石)は、金剛界曼荼羅の三十七尊の仏さまになぞられています。

  しかし、実際には町卒塔婆は三十六基しか存在していません。

 その理由をめぐっては諸説あります。本来、「三十七基目の町卒塔婆」のあるべき位置が、お大師さまのご入定されている「奥之院御廟」にあたるため、これらを同一視するというのが有力な見解です。

 しかし、これとは別に、重要な意味があるように思われます。高野山町石道は「未完成」で、やはり三十七基目の町卒塔婆が建立されてこそ「完成」するのかもしれません。

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 その理由をめぐっては諸説あります。本来、「三十七基目の町卒塔婆」のあるべき位置が、お大師さまのご入定されている「奥之院御廟」にあたるため、これらを同一視するというのが有力な見解です。

 

 しかし、これとは別に、重要な意味があるように思われます。高野山町石道は「未完成」で、やはり三十七基目の町卒塔婆が建立されてこそ「完成」するのかもしれません。

 

 修行とは、霊場や参詣道でしかできないように思われがちですが、本当の修行の場は、日常生活の場にあります。参詣を終えた後、日常生活に戻っても祈り続け、周囲の人々に対して発する優しい言葉、微笑み、そして親切な行動の積み重ねにより、修行が成満へと向かっていくのではないでしょうか。

 そう考えると、「三十七基目の町卒塔婆」は、いつの時代の、いかなる修行者でも、お大師さまと「同行二人」で、「高野山と町石道での修行」と、「日常生活の中での修行」を積み重ねることで、自身の心の中に建立、延いては町石道を「完成」し、修行を「成満」することができるように思われます。

 そして、お大師さまが「衆生救済のために奥之院御廟にご入定、すなわち「永遠の瞑想」をされていることから、高野山と町石道は「永遠の修行道場」であるといえるのではないでしょうか。

 だからこそ、このような修行道場である壇上伽藍には、当然「中門」の存在が欠かせないのです。

 平成二十三年三月十一日に発生した東日本大震災では、多くの大切な命が奪われ、亡くなられた方々には、心よりご冥福をお祈りいたします。また、被災された方々には、衷心よりお見舞い申し上げます。一日も早い復興と、一人でも多くの方が平穏な元の生活に戻れることを切に願って止みません。

 今、私たちは、復興に向けて自身ができる、たとえ小さなことでも行動し、延いては開創法会、そして中門再建を通じて、密厳浄土の実現に向かって精進していくことが求められています。

 日々の一歩一歩を絶え間なく、歩み続けることが、早期復興を促進することに繋がっていくように思われます。そうすることで、千二百年前のお大師さまの「高野山開創へ込められたお心」に触れられるに違いありません。

 開創法会、そして中門再建は、その機会であるべきだと固く信じています。      合掌

                     (TS

本多碩峯 参与 770001-42288