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生かせ いのち 加持祈祷

2011-07-22 12:12:31 | 高野山
 

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  加持祈祷
     河合 了宣 (岐阜県岐阜市円明院 住職)
 「真言宗や密教の教えはとてもと難しく、加持祈祷を主とする宗教ですね」と言われますが、決して難しい宗教ではありません。発菩提心ー自分自身が仏となるためによい行いをして、仏に祈って仏の功徳頂くだけです。真言宗の教えは、皆さまが毎日仏さまに手を合わせ、幸せであるように祈っている姿そのものなのです。

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お大師さまの教えに「加持といっぱ如来の大悲と衆生の信心を表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水によく仏日を感ずるを持と名づく」という言葉があります。簡単にいいますと、私たちは常に仏さまから功徳や慈悲を頂いていますが、それをどのように受け止めるかは皆さまの日頃の行いや信心の深さです。ということでしょう。つまり、困った時の神頼みではなく、日頃の信心が必要だということです。
 加持には、護摩祈祷や星祈祷、そしてお墓の開眼供養作法などあり、お経だけお唱えするのではなくて、手に印を結び陀羅尼を唱えるのです。これが真言宗では秘密仏教であり、難しいといわれる所以かもしれません。
 刑務所で集合教誨をしているとき、ある受刑者が「私たちが持っている念珠はお店で買ったものです。これをこのままつかってよいのでしょうか、それともそれともお寺さんで気を入れてもらった方がよいのでしょうか」と質問してきました。私は「それは皆様の念珠に対する心です。一度使えばそれで気が入ったという人もいます。お寺さんに預けて御祈祷してもらう人もいます。加持祈祷を受けることによって、皆さまの念珠に対する気持ちや信心が深くなっていきます。」と話しました。すると「私のもお願いします」と多くの受刑者から念珠の祈祷を申し込んできました。
 今、受刑者の言葉「気」をそのまま使いましたが、正しくは「お性を入れる」とか「お性根を入れる」といいます。お大師さまは仏性の教えを大事にされ、この地球上に存在するするすべてに仏性があるとお教えになっておられます。目にすることが出来ない大自然にも、もちろん仏性があります。ですから火に祈ったり、水に風に山に祈ったりするのです。私たちの心にも仏性があります。この仏性を自覚するために善行を施したり加持祈祷をして祈るのです。このことが「発菩提心」なのです。
 私がとても感じ入ったことは、この集合教誨を多くの受刑者が念珠を持って受けていることでした。お経に「以我功徳力如来加持力 及以法界力普供養而住」という三力があります。お加持請けた受刑者の念珠ではなく、仏の念珠なのです。
 真言宗寺院では、加持祈祷でのお守りやお札の開眼をして多くの壇信徒の皆様にお受けしていますが、妊婦さんの腹帯や商売で使う実印、自動車の交通安全などご祈祷していただく人も多くおられます。高野山真言宗も、全国のお体の悪いお年寄りの皆さま方に加持祈祷させていただいた寝巻き等をお授かりしております。すべてのものに仏性を感じ、加持祈祷によって仏にすがる人たちはみな行者なのです。

 
     

       参与770001-4228(本多碩峯)

  



修行僧の手記   『利他の心』

2011-07-17 19:12:13 | 高野山
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修行僧の手記          『利他の心』

愛媛宗務支所下 龍岡寺住職  渡部悠弘

 修行の道場での厳しく制限された生活。その中でも、ごく限られた我々修行僧の”楽しみ”のようなものがある。一つは週に一度日曜日に設けられた、生活用品などの買い出しに山内のお店に出かけられる「外出時間」である。息詰まる修行生活の「ひと時のオアシス」とでも言えるだろう。しかし日常的に修行生活中に組み込まれながら、意図せずに私達の心を癒していたもの・・・・それは食自(じきじ・食事)の時だったのではないだろうか。精進ではあるが、カレーの時などは仲間たちのテンションが目に見えて上がっていたように感じたものだった。大きな法会の時のお供え物のお菓子のお下がりなど、普段ならさして嬉しくもないものかも知れない。しかし、このいろんな面において制限された環境におかれると、人の嗜好性や味覚までも変えてしまうほどの影響があるかもしれない。

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二00八年五月五日(月)
 本日は、人生初の「托鉢に行く」へ行く。
 私達はこの托鉢でどんな事を感じとることが出来るのだろう。半人前にも満たさない私達のお経で、一体誰に何を施すことが出来るのだろう。甚だ疑問は残るものの、今自分自身で出来る事を精一杯やるしかない。そのお宅の幸せを祈り、至心にお唱えするしかないのだ。お大師さまのお誓いされた、世を救い人々の利益(りやく)を施す「済世利民(さいせりみん)」の一端を担うなどとは憚れることだが、少なくともその第一歩であることには間違いない。文字通り、これが私達の僧侶人生のスタートなのだ!!

 専修学院の毎年の恒例行事「托鉢行」は高野山の麓の町、「九度山」で行われる。毎年のことなので、地域の皆さんは慣れたものである。我々修行中の僧侶の受け入れ態勢は万全、土壌は整っているという訳だ。恥ずかしながら、ドキマギとしているのは他でもない、我々の方だけということだ。まだ般若心経ですら覚えたての新米の修行僧。そんな私達の拙い読経に対しても、手を合わせて深々と頭を下げられ、ご浄財を差し出す方々。多くの人の「心」そのものを与かったようなものである。私達新米のお坊さんにとって初めての利他行・・・・誰かのための行を積むこと。でも、考えてみると私のこれからの人生はそうした、誰かのために何かを施そうとする、利他の人生になるのではないだろうか?

 あの時、私のお坊さんの人生で「托鉢行」を行うのは、これで最後なのかもしれない。そう考えながらお経を唱えていた。しかし現在、我が愛媛青年教師会で、この度の東日本大震災の被災地への義援金を托鉢にて募る活動を展開中。私は自分が生活する地域全体を各戸一軒一軒托鉢させていただいているのだ。お宅の玄関先でお経をお唱えする度に、あの九度山での托鉢の記憶が蘇る。修行時代にたった一日だけ行った托鉢行。あの時はただ必死で、多くは汗と共に流れ落ちたように思う。だが今、あの時とは明らかに違う考えが胸の内から湧き上がっている。檀家さん以外の人々や宗派が違い、信仰が違う人々。お寺やお坊さんに対して、考え方も見方も違う若い世代の方々。あたたかいお心もあれば、冷たい視線も感じる中での托鉢の読経。

 自坊の本堂で檀家さん達を集めた法会の中での読経とはまるで違う感触。こんな中でただ一心に目の前のお宅の為を思いひたすらにお唱えする。そしてその果てにお受けする、これまた誰かの為を思い差し出された「利他の心」。    

 私達が出来る事など、実はほんの些細なものでしかない。しかしこの多くの人々の小さいながらもぎっしりと詰まって重い、誰かの為を思った「心」を繋ぐ役目を担わせていただいていることに感謝しながら、私は今日も托鉢の読経をお唱えする。                      合掌

       参与770001-4228(本多碩峯)






お盆の行事ー切子灯籠

2011-07-17 11:42:06 | 高野山
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 お盆は、旧暦でいうと七月、新暦になぞらえ八月に行われます。
 旧暦の七月の月に入るとお盆の行事がはじまり、この月の一日は、地獄の口明けまたは釜蓋朔日(かまぶたついたち)といい、地獄の蓋が明けられる日であるといわれています。
 地方寺院Eではこの日を境に高々と施餓鬼旗(せがきばた)が立てられ、施餓鬼棚(せがきだな)が設けられて供養がはじまります。この旗が高ければ高いほど良いとされ、里帰りするとご先祖さまが目印とされるからです。
 金剛峯寺唐戸前にも七月三十一日夕刻より八月末日までの期間、純白の和紙などの長い足をつけた切子灯籠が掲げられお盆の訪れを知らせます。
 切子灯籠は盆灯籠ともいわれ、ご先祖様の魂を導く際の目印として掲げられます。その形の由来は、その昔お釈迦さまが盂蘭盆会(うらぼんえ)に出てきた蛇を追い払うために用意させた灯火に向かって飛び込んでくる夏虫がいのちを落とすことのないようにと灯火を薄布で覆わせたという故事によるものであるともいわれています。
 お盆の行事の由来については、『仏説盂蘭盆経』に次のように説かれております。
 お釈迦さまの弟子なかでも神通第一といわれる日蓮尊者という優れた方がおられました。ある時、自分の父母の死後の行方を尋ねると、なんと母は餓鬼道におちていました。
 母の姿は骨となり皮となり日蓮が悲しんで神通力を使い飯を与えようとすると、口に入れる前に火となって食べることが出来なかったといいます。日蓮が釈尊の尋ねると、「七月十五日の安吾の終わりの自恣(じし・修行僧が互いに罪を懺悔する行事)の時に衆僧に百味のご馳走をするのがよい。そうすることによって、現在の父母も七世の父母も、三途の苦しみから救われる」と教えられ、このことから盂蘭盆会が始まったとされております。
 盂蘭盆とは盆語の音写で、倒懸(とうげん)の苦しみ、つまり逆さに吊るされる苦しみという意味で、この法会を行うことによって、この盂蘭盆という言葉が簡略され「お盆」と呼ばれるようになりました。
 高野山内の寺院においてのお盆は、八月十一日から十三日とすることが一般的で、「仏迎え」には、奥之院御廟前にお参りをし各寺院より持ち来る提灯に奥之院の聖火をいただき、各院所縁の墓参をいたします。墓参より精霊は提灯の灯りに宿り寺院に帰って切子灯籠と盆棚の灯籠と移されます。聖火はお大師さまが永遠に生きているシンボルであり、先祖のそのものであるという信仰のもと、迎えられた精霊は三日間、霊供膳や供茶、読経によって供養を重ねられ十三日奥之院へ送られています。
 この日の夕刻、奥之院では、十万本ともいわれるローソクが参詣者によって手向けられ”たましいの灯火(ともしび)”がゆらめきます。
 切子灯籠がそよ風にぞっとたなびく山上、不断経・盂蘭盆などという、物忌み月に入ったという意味での法会が執り行われるこの頃、この世の営みを終えた人たちの乾いた魂をうるおす、夏の祈りに身を捧げてみてはいかがでしょうか。


参与770001-4228(本多碩峯)

今の日本にこそ必要な教え

2011-07-11 17:10:19 | 高野山

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日本にこそ必要三つ教え

松長有慶(総本山金剛峯寺第四十三世座主・高野山真言宗管長)
 

 このたびの東日本大震災によって、我々は生き方を考え直さなくてはいけないことに気づかされたのではないでしょうか。そのためには、今一度東洋の思想を見直し、日本人の精神構造を変えなくてはならない、そんな認識の時を迎えたと思います。

 

 

 今、日本人に必要とされていることは、いずれもお大師さまの思想の中にあります。

 

 一つ、人は人間や自然と物とのつながりを持つということでです。戦後の民主教育の中で、”自我の確立”が盛んに行われたことで、日本人は自分さえよければよいという自己中心的な価値観を賛美するようになり、いつの頃からか人や自然とのつながりを断つようになってしまいました。

 

 もともと、日本人は物にも命があると、針供養をしたり、人形を供養して流したり、物にも心があることを思想や文化として持っていました。

しかし、それも東洋思想や日本の伝統文化を無視し、合理主義的な生き方を賛美してきた近世の風潮にかき消され、行き先も見失い、どうにもならなくなってしました。

 今こそ私たちは大自然に生かされているのだという事を意識し、人も動物もそして植物もそして物も同じように命を持っているという考え方を思い返さなくてはなりません。

 

 二つ目は、

 どんなものをも受け入れる多元的な価値観をフルに持つことです。これは一元的価値観優先して勝ち組、負け組分けられてしまった今の格差社会にはとても大事なことです。

 お大師さまにはすべてのものを引き受け、温かく育てていこうという思想があり、一千二百年もの間、高野山は負のものを立ち直らせるエネルギーを受け継いできました。

 

 高野山に来ると癒しを感じられるかたが多いのは、ほかにないこのエネルギーがあるからでしょう。分け隔てなく包み込んで癒すお大師さまの教えが町全体に体を漂い、聖と俗の一体感を皮膚感覚で感じられるのです。そこには命のつながりを受け止め、それぞれの中に存在する何かしらの値打ちを認識し、生かし合い、全体が一つに調和できればよいという共生の考え方が根底にあります。

 

 そして、三つ目に、必要とされるのは行動力です。それは、自分自身がしてもらうのでなく、他人のために何かをすることで、それによって人の心に潤いをもたらし、自分の欲望を充足させることができます。我々はなんでも欲しい、癒されたいと思いますが、人に差し上げるほうがはるかに喜びを感じられ、豊かな気持ちになれます。密教ではこれを大欲(たいよく)といいます。これは、自分を満たす慾ではなく、多くの人や自然を豊かにしていこうと願う慾のことで、このような慾を持てと説いています。

  お大師さまの教えはいつの時代も足りないものがなんであるかを私たちに気づかせてくださいます。その教えに触れることによって気づかされ、人とつながりながら一人でも多くのかたを幸せに導いていただきたいと存じます  (談) 

 

 

この記事は発行元 株式会社世界文化社の転載許可を受けています。

 

参与770001-4228(本多碩峯)

 

マスコミを通して、このたびの悲惨な被災者に対する救済が人や動物、植物、命を根本に考えれているのだろうか、松長有慶管長のお話にございますように、日本人には物にも尊い命を感じるとご説明をいただいています。

 お大師さまは一切の生物は「地・水・火・風・空」が実在する処にのみ宿る。これを五大要素といいまして、広大無辺な大自然の中でたった一つの地球にだけが生物が生存する唯一つの地球であります。

 命には前に述べましたように人間及び人間を含む一切の生物があり、その生物がお互いに命を生かし合って生かされています。

 このたびの福島第一原子力発電所の破壊によって、種々な放射能が放出され、人間を含む生物の一切が被曝していることは御承知の如く、一切の生物が生存する条件

「地(大地)・水・火(地熱・太陽)・風(空気)・空(虚空)」が被曝によって一切の生物の生存が不可能になることを教えられているのです。

 

一切の生物の中で心すなわち「識」を持っているのが人間であると、これをお大師さまは六大要素「地・水・火・風・空・識」という。

 

従って、人間は自然(人間を含む)の「いのちの 生かし合い」をお大師さまが一千二百年間、語り続けていることを改めて学びました。          本多碩峯

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


生かせ いのち 「多くのお蔭に日々感謝」

2011-07-05 14:07:11 | 高野山
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多くのお蔭に

 

          日々感謝

                                    河合了宣
 高野山真言宗では「生かせ いのち」をスローガンに、お大師さまの教えを世界中の人たちに説いています。平成二十七年、お大師さまが高野山を開かれて千二百年にあたります。「生かせ いのち」の教えは変わることはありませんが、千二百年開創法会に向けて「大師の みおしえ いまここに」と、新しく高野山よりお大師さまの教えを発信しています。仏によって生かされて、多くの人々のお蔭によって生かされている自分を今見つめ、日々の感謝や報恩行を行えば、必ずお大師さまが寄り添っておられますという教えです。
 檀家さんの処にお参りに行くと、おじいさんがよく戦争の時のはなしをしてくださいます。戦争の賛否はともかくとして、戦友は同じ釜の飯を食べ、苦しい時も辛いときも楽しいときもみんな一緒でした。「今、私が生きているのは戦友みんなのお蔭や」と昔を懐かしんで話してくださいます。皆さまも脈々と続く先祖のお蔭、お父さんお母さんのお蔭、そして多くの人たちのお蔭によって生かされていることを、今までに幾度も実感されたことでしょう。
 私は岐阜県の刑務所で、教誨活動をしています。以前、二人の受刑者と仮出所に向けてのお話したとき、年配の受刑者が言いました。「自分がこうして無事に出所できるのも、私を待っていてくれた妻とこの人のお陰です。」ともう一人の受刑者の方を見ました。「自分が耳は遠いので、刑務官の指示がわからず迷惑ばかりかけました。点呼のときなどは順番が聞こえず、この人が必ず私の番になると体を叩き合図して助けてくれました。とても感謝しています」。

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 私はお二人に、「今まで過ごした何十年間あなた方は何一つ変わることがなかった。これからはすごいスピードで変化していきます。しかし、生かされている感謝の心や今素直に言葉に表したお蔭さまの心は、変わることなく常に持ち続けて下さい」と餞別の言葉を贈りました。あれからお二人に会うことはありませんが、必ずやお蔭の感謝を持って生活していることと信じております。

 また、ある暑い夏の日に、受刑者約三十人と小さな教室で勉強していたときのことです。私は暑さのため話しているのが辛くなってきました。受刑者のひとも辛そうでした。顔を見ればわかります。もちろんクーラーや扇風機などありません。そのとき、窓から涼しい風が入ってきました。全員が一斉に窓の外を見てとてもいい顔になりました。私は間髪入れず、「今、みなさんが普段気に止めない、また感謝したこともないただの風に有り難いと思ったでしょう。今の気持ちこそ仏の心であり、真言宗の教えなのです」と説明しました。

 真言宗の教えは難しいと言われますが、そうではありません。「有り難い」と、人にでも、また大自然にでも手を合わせて感謝すれば、そのとき人や大自然は仏であり、手を合わす自分自身もまた仏であり、手を合わす自分自身もまた仏となっているのです。それがお大師さまのご誓願である即身成仏であり、必ずお大師さまが寄り添っておられます。

                 著者は岐阜県岐阜市円明院の住職です。

 参与770001-4228(本多碩峯)

 

 


国際森林年  美しい森を次世代へ (その二)

2011-07-04 19:02:39 | 高野山
  

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国際森林年  美しい森を次世代へ (その二)

天皇陛下  悠仁親王のお印

        「コウヤマキ」をお手播き

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 平成二十二年五月二十二日、第六十二回全国植樹祭(和歌山県田辺市)において開催された植樹行事では、天皇皇后両陛下によって、和歌山県内で採取された「コウヤマキ」「オガタマノキ」「クマノミズキ」「「トガサワラ」四種の種子をお手播きいただきました。

 紀伊・高野山周辺に多くみられることから名付けられた「コウヤマキ」は悠仁(ひさひと)親王のお印であり、日本特産の針葉樹で世界三大公園木、世界三大美木といわれるほど美しい樹形です。

 この木は耐水性に優れていることから、風呂や桶などを制作する適材としても好まれまれています。金剛峯寺本坊においては、台所の水槽として古より今日に至っても利用しています。

 ≪お手播き種≫

天皇陛下

「コウヤマキ」 

悠仁親王のお印。

 名前の由来は高野山に多く見られることからといわれ、樹形の美しさから世界三大美樹の一つに挙げられています。

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「オガタマノキ」

常陸宮正仁親王のお印。

 昔から神前に供えるときに使われたそうで、招霊(おぎたま)が転じてオガタマになったといいます。

 花は非常に上品な香りがして、花弁の基部は鮮やかな赤紫色に染まり美しいです。

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皇后陛下

「クマノミズキ」

 名前の由来は、熊野地方のミズキという意味で、初夏、小枝の先に白い多数の小花を咲かせ、樹冠を白く覆います。

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「トガサワラ」

 日本固有種で、紀伊半島の中南部などの限られた地域に分布する樹木です。和名は、外形がトガ(ツガ)に似、材がサワラに似ていることから名付けられた。

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   参与770001-4228(本多碩峯)

 

 

 








国際森林年  美しい森を次世代へ

2011-07-03 17:06:47 | 高野山
   

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国際森林年  

        美しい森を次世代へ

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 平成二十三年五月二十二日、新緑の中、天皇皇后両陛下のご臨席を賜り、第六十二回全国植樹祭「(社)国土緑化推進機構と開催県の共催」が和歌山県田辺市新庄総合公園で「緑の神話今そして未来へ 紀州木の国から」をテーマーに盛大に開催されました。

 和歌山県は、日本の山々に樹木の種を播き青山となした神が鎮まると日本書紀に記された「木ノ国」に由来し、太平洋の黒潮がもたらす温和な気候がスギやヒノキなどの良材を生み出します。
 世界においては近年森林の消滅が著しい状況です。過去二十年間に我が国の国土の四倍にのぼる森林が消滅しているといいます。国連は、本年を「国際森林年」と定め、国土の約七割を森林が占める我が国の取り組みとしては、この年を「森林・林業再生元年」と位置づけ、森林の魅力と大切さへ理解を深め、次世代により良い姿で引き継いでいくために林業の再生、森の保全活動に取り組んでおります。
 お大師さまは書物による学問業績も偉大でありましたが、若い頃より大自然の中に、身をおかれてのご修行を度々繰り返されておられます。悠大な山々、広大な大地、静寂の中を流れる清水、小鳥の囀(さえず)り、人力では決して作り出すことの出来ないこれら天然の美は、人間の心の中の花を自ずと開花させ悟りの境地に導くものといわれます。
 
      山鳥時(さんちょうどき)に来って歌って一(ひとた)び奏す。
山猿軽(さんえんかろ)く跳んで伎(き)倫(ともがら)に絶(すぐ)れたり。
春の華、秋の菊、笑(え)んで我に向ふ。
暁月朝風(ぎょうげつちょうふう)、情塵(じょうじん)を洗ふ。
                                        (性霊集巻第一)
 「山中に住める鳥は時々我が辺に来て妙音を喋り、山猿木から木へ軽快に跳び廻ること誠に巧みにして人間より以上に勝れた軽業を演じて呉れる。春の色々の花、秋の野菊らその折々に咲き乱れ恰(あたか)も吾を慰める如くである。暁の月澄みわたり、快き朝風さっと吹きわたれば自ずから煩悩妄情(ぼんじょうもうじょう)も洗い去ったかの如く情浄無垢(じょうじょうむく)の清らかな心を味わうにいたるのである。」
 お大師さまご自身が、下界の都塵では味わうことの出来ない山中の絶景がもたらす恍惚なる境地を述べられた一文です。
 心迷う時、大自然に触れ大宇宙の声を聞く。自然界そのものに備わる仏さまに触れることによって求められる悟りの境地。
 私たちは今あらためて、様々ないのちの働きかけによって生かされていることを深く感謝し、自然環境保全活動に取り組み、自然と共生してまいりましょう。
  「いかせ いのち」の理念を掲げて       

時 処 自 在

 全国植樹祭に私も参加させていただきました。序盤は荒天でしたが、天皇皇后両陛下御臨場の折には明るい日が差し、青空が顔をのぞかせる中、両陛下にとってはかわいいお孫さんである悠仁さまのお印。その高野槇を、遥かに高野山を望むこの地でお手播きされるというのは、両陛下にとっても感慨深い出来事であったのではないでしょうか。我々も両陛下を紀州の山々にお迎えし、この得難い瞬間に立ち会わせていただけたことに、大変感激した次第です。

 森に代表される豊かな自然は、我々が生きる上で、またいのちを守り育んでいく上で欠くことの出来ないものです。この高野山もまた、お大師さまが心から喜ばれ、また大切にされた尊いものを護持し伝えていく重大な責任があるのだということを、今改めて感じます。(T.R)

 

 

 参与770001-4228(本多碩峯)