果物料理と果物食品加工

ビタミン・ミネラルに果物の仄かな香りに目覚める フルーツソムリエ

人間みな宇宙産業の人財である   

2011-12-25 12:41:20 | 日記・エッセイ・コラム

 

人間みな宇宙産業の人財である

 

 

 

 

 この記事は平成11年7月1日発行「観音たより」(発行人:本多碩峯)より掲載

 

「利益を上げられないのは罪悪だ」というのは、松下電器産業の創業者、故松下幸之助氏の持論だった。これは単に「もうけろ」と言っているわけではない。ヒト、モノ、カネの大切な経営資源を社会から預かって、赤字を出すような経営者は、社会に損害を与えている。企業を「公器」ととらえて、それを生かせない経営者は、経営資源を社会に返せという厳しい倫理観が背景にある。

 

 松下幸之助は昭和七年経営の悩みを相談に天理教を訪れ大勢の信者が勤労奉仕に明るく働く姿を見て衝撃を受ける。自分の会社の社員は暗い顔をして働いているのに、彼らはなんであんな明るい顔をして喜喜として働いているんだろう、と。そこで幸之助は気が付いた「儲けるとは信者と書く」と。社員とは信者であり、ここに社員の明るく働く原点があると考えた。

  それが松下流の「会社主義」が生まれ、先ず最初に、昭和十二年高野山に支那事変で死んだ社員の為にお墓を建立して今日の繁栄の基礎を作った。 

 明治に近代化西欧化へまっしぐらに進んで今日に至った。

 

 その中に明治の思想家、岡倉天心人物像に触れる機会があった。

明治維新の流れと異なり日本の仏教美術を通して日本文化を重んじ、インドや中国を旅行しアジアの連帯の重要性を提唱し大東亜共栄圏の思想を願った。後米国ボストンに渡り天心はボストン美術館の東洋部長として日本の美術作品収集に当たった。

  近代化や西欧化にひた走った明治期の日本で天心は孤立してしまった。けれども時流の大勢に流されないスケールの大きな生き方の非常に魅力的な人 物」と今日評価されている。私達は経験したあの「大東亜共栄圏」とは非なるものである。 

若し自心を知るは即ち仏心を知るなり。

 

仏心を知るは即ち衆生の心を知るなり。

 

三心平等なりと知るは即ち大覚(だいかく)と名づく。

 

大覚を得んと欲(おも)はば、当 に諸仏自証の教えを学す応じ。      性霊集「空海全集第六巻」より

 

 企業の倫理観や国家の近代化に伝統文化を重んじる自心が他人や他国を尊重する仏心に通ずる事になる。 

 米国の経営学者ピーター・ドラッカーと日本報道記者との会話の中で「孫は今、十五歳。コンピューターが好きでね。朝から晩までそればかり。我々の世代は車に熱中したが、今はコンピューターなんだね。

 日本の十五歳はどうしている? やはり、受験勉強だろうか」と淡々と語ったとか、今日、米国人が日本の将来を案じているからかもしれない。 

 現在、日本の産業は全体で約三割の雇用と設備と債務の過剰を抱えていると言う。 

今こそ人の幸せを創造する活力を育むチャンス(有餘涅)であると確信するのであります。                       合掌

 

創造こそ我が人生

2011-10-18 17:42:58 | 日記・エッセイ・コラム
 
創造こそ我が人生           

                   本多碩峯(果物食品加工アドバイザー)76歳
                   この記事は平成13年9月1日発行の「観音たより」より転載

 

創造こそわが人生

 

 わが宇宙に地・水・火・風・空が育まれ、一切の生命があらわれ、そして進化して六大「地・水・火・風・空・識」が育まれて、人間がいろいろなことをして今日に至っております。この事は実は非常に大きな創造力を発現して来ていることを前号で申し上げましたが、昨今、日産自動車のカルコス・ゴーン社長の改革、小泉首相の改革という言葉が新鮮なものとして私たちの心に刻まれています。この改革も創造力そのものであります。何物にも妨げるものの無い本当の自由が存在して本当の創造力が生まれます。そうあることを祈念する。

 

 ある記者がカルコス・ゴーン社長は『今一番困っていることは何ですか』と問いかけたところ『それは言葉です。日本語です。日本語はたいへん難しいので、仲々覚えられません』と笑いながらの返答であった。彼は、コミュニケーションを最も大事だと思っている。心と心が通じ合えば、どんな難しい大きな問題でも解決できるのだと言っています。 

  

 創造力はアナログ思考

 

 今や人間の生活の根源を司る「衣・食・住」の科学の進歩に驚きすら感じます。日本人の平均寿命が世界一になったとか。これらの事を手放しで喜べないことも事実であり

 

ます。これらの原因はマイクロコンピューターの飛躍的な開発も一つであります。業界は益々高度な投資が行われる事でしょう。

 

 ところで、誤解してはならない重要な事は、これらのコンピューターの発達によって、このコンピューターが新技術を発見するとか、次ぎから次ぎへ新しいアイディアが生ま

 

れるとか、理論の世界で次々と新学説が見出されるなどとは期待できないわけであります。

 

 出来ない理由の一番大きいのは、図形認識力、パターン認識が人間の知能に比べお話にならない位コンピューターは貧弱であるということです。

 

 私たちが科学史、技術史を振り返って人間の頭脳活動というものの決定的重要性を認めないわけにゆきません。史実による偉大な着想というようなものが生まれるときには、諺、比喩、あるいはアナロジー(類推)という言葉で呼ばれている思考が重大な役割を果たしております。

 

 つまり一見漠然とした情報処理としての、図形認識力が中心になっているのです。

 

 私自身、造船所時代の防衛庁水中兵器の半導体回路を応用した近代兵器としての開発に従事した経験、初期の電子ばかりの開発の経験からその開発・研究過程で、最初にディテイル(詳細)から入るのでなく、まず推測、推論という形をとるのですが、これが比喩、形容的即ち人間知能によるパターン認識です。

 

 日本文化の俳句、短歌、川柳等がアナロジーであり人間知能のパターン認識を象徴するそのものです。

 

 この事がコンピューターに無い人間だけが育んでいる最も尊い創造性であります。

 

 昨今の社会秩序の欠如を反省するに私たちの先人が生み出し育んできた俳句や短歌や書道や茶道、華道、精神面では柔道等、 優れた思考が生かされない環境が創り出していると考えるのです。

 

柔道などはオリンピック種目に採用されて以来、本来の「道」の精神の習得が重んじられない現状をさびしく思う一人です。

 

 特に剣道の「剣禅一致・剣禅一如」が正にそうであります。不動明王の左手にクサリ、右手に剣をもった姿、決して生身の身体を縛るものでなく、生身の身体を傷をつける剣でありません。誰でも持った煩悩を縛り、剣で刺す姿が不動明王です。そのような精神的パターン認識が剣道の醍醐味だと思います。

 

 この様な人間の優れた感情状態の表現が大切です。たとえば「春風が頬をなぜる」というような言葉を一つをとってみても、これを文字通りに解釈しますと、大変おかしいことがわかります。風が頬っぺをなぜるというようなことはどう考えても精神分裂症的な発想です。

 

 しかし、よく考えますと、表現として、形容として、比喩としてこれは大変な意味があるのです。古来、人に対して強い説得力をもたれてきた人々は、さかんにこの比喩を使っています。仏教界の僧侶をはじめ、カトリックの神父さんでも、能力の高い政治家、能力の高い企業経営者も、およそ人々に説得性の高い話をしなければならない条件下にある人々は必ずといっていいほど比喩を使っていることを再認識しましょう。今日の生活の周辺が携帯電話、パソコン、家電等のデジタルの恩恵に授かるあまり、日常生活に比喩的発想やアナログ思考を幾らでも利用できる事を忘れている。一九五五年代に数学者の岡 潔先生(当和歌山県橋本市出身)が普段の脳の訓練にテレビの漫画が最も優れていると語っていた事を思い出す。遊びの世界にも重大な創造的発想に関連をもった原理が含まれているのかもしれない。

 

 

  お釈迦さまの創造

 

 お釈迦さまは、今から二千五百七十年前、インドのヒマラヤの南麓ガピラ城に一国の皇太子としてお生まれになりました。

 

 この世の中に人間としてお生まれになると、すぐさま六歩半お歩きになって「天上天下唯我独尊」とお叫びになったと伝えられる。

 

 人間が生まれてすぐこんな言葉を叫ぶはずが無い。先ほど学びましたように比喩として重要な意味があるのです。

 

 六歩歩くということは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道輪廻の迷いの世界を半歩踏み出されて、人間苦から脱皮していることを物語っているのです。

 

誤った考えとして「天にも地にも我れ独り尊し」を自分ほど、えらい者はいないんだ。自分こそ世の中を統括する指導者であると。これは誤りです。

 

 実は天上天下とは自分の上、自分の下、すなわち全宇宙ということです。全宇宙のいのちと恵みを一身に受けて、只今ひとりの人間として生まれさせていただいた嬉しさ、素晴らしさ、尊さをお叫びになったのです。

 

 人間として生まれてこそ、世のために働ける。よくぞ人間に生まれて来たものだと、天地宇宙の生命に感謝のお言葉を放ったのです。

 

 これは何もお釈迦さま独りのことを言ったのではない。この世の中に一人ひとり、人間としての身体と生命を持って生まれてくる私たち人間すべて、お釈迦さまと同じ唯我独尊の尊い人間であり、仏の子であることを表しています。

 

 

  初心に帰る

 

 関西で最も早くマイクロコンピューターのシステム機器の製作会社を創立上場準、備段階に入って倒産、微力ながら希望と夢に築いてきた無くしたくない、名誉、ヒト・モノ・カネの一切を失い、その上、人様に迷惑を残して、半年後に懺悔と感謝の四国八十八ヶ所徒歩巡拝に出発する。

 

 十一番札所焼山寺の遍路庵で宿とした時、翌朝、眼下に見える朝日を礼拝しながら走馬灯の如く幼少の頃を涙して思いにふけり、感謝と懺悔の中に四国遍路の素晴らしさに感動、「天上天下唯我独尊」と帰りくる山彦に耳を澄まして心に頂き山を下りる。

 

   合掌    

Sannrinn_01_4_5

                  参与770001-4228(本多碩峯)

 

 


まんだら ー 曼陀羅ー

2011-05-29 14:54:47 | 日記・エッセイ・コラム
 

 

Amida17

郷里に建立 碩峯

 観音さんはどこに

 といえば、浅草にあるというが

 それは本当の観音さんではない。
    向こうにあるのは
 お互いの観音さんの影法師である。
自分の姿が映っているのですよ。
    外には何もない。
あるのは自分である。
私達は外にばかり気をとられていると、
掌中の珠を失ってしまう。

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如実知自心

真実のわが心を知る
          「大日経」
            碩峯書

まんだらのこころ

▼多数決は正しいのか
 ある村でお堂を建立して、そこにお地蔵さんか観音さんのいずれかを祀ることになりました。で、どちらのほとけさまを選べばよいか・・・・・・?

 この問題も、われわれ人間が決めることの出来ないものです。
 こう云われますと、どういうふうに決めればよいのでしょうう?何かいい智慧がありますでしょうか?
 必ずある人は多数決で決めればいいといいます。
 しかし、それは本質的に間違ったやり方です。
 多数決というのはこの場合は地蔵さんと観音さんの人気投票ならいいのですが、その場合はほとけさまに対する尊崇の念がありません。
 日本人は多数決は最も民主的でいいものと信じられていますが、多数決というものは本質的にいかがわしいものです。たとえば古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、多数決によって死刑になったとか、多数の人間が間違った判断をしたのです。ナチス・ドイツの出現も、ヒットラーは合法的に政権を獲得したといわれています。別段、クーデターを起こしたわけでもなく、暴力革命によって政権を獲得したのでもありません。多数の民衆の支持を得て政権の座に着多数の民衆の支持を得て政権の座に着いたのです。多数の人間が間違った判断をしたことになります。
 今日の日本の政治を観ていましても多数決だとか何々属とか云いまして多数をバックに政争が起こったりしておりますが、国民はその争点、或いは人間にとって何が真実なのかを見極める必要もありましょう。政治家として最も必要とする理念の持ち主であることが大切です。
 地蔵さんがいいか、観音さんがいいか、多数決で決めて、その人間の判断が間違っていない保障がどこにありましょうか?こんな問題に多数決を適用してはいけないのです。

 ▼神社のお祭りの御みこし

 それではどうしますか?「上半身は地蔵さん、下半身は観音さんにしますか・・・。それとも前半身が地蔵さん、後ろ半身は観音さん・・・そんな像をつくりますか・・・」と、こんな
会話が現実に起こりそうです。
 実際笑っていられい真剣な腹立ちさがおこりますね。
 お寺や神社の修復などのときに現実にこのような問題が起こっている。
 最終的に多数決で決定するという前提で議論がなされることなど見かけられると思います。
 多数決というのも、所詮は多数の人間の判断(それは本質的に「妄想」といってよい)に権威を与えるものです。端的にいえば、「妄想」を権威化するものです。そして、地蔵菩薩と観音菩薩の「合成仏」なるものをつくり上げてしまう。こうなったら正に人間の「妄想」です。
 こんなことをしたら唐時代の僧侶かまくもうそうなから――「莫妄想」(妄想する莫れ)――と叱られます。
 それではどんなやりかたがよいのでしょうか? 井深大と並ぶソニー株式会社のファウンダー(創業者)盛田昭夫氏。
 終戦の翌年、焦土の上に前身企業である東京通信工業を設立して以来、盛田は井深とともに半世紀にわたってソニーを慈しみ育て、国内外のあらゆる意味でのトップ・ビジネスへと導いてきた方です。私は1966年頃、スウェーデン国商社ガデリウスに勤務時、当時、世界的に優良品質のルーマ・ランパン社のモリブデン、タングステン・ワイヤーを担当し、ソニー株式会社がマイクロテレビの開発に取り組んでいました。盛田氏に何度かお目にかかりカソードヒーター用に採用して頂きました。その後、盛田さんは研究者として、更に経営者としても勝れた才能を発揮されたことはあまりにも有名です。盛田さんは「アメリカの経営手法はボート経営、日本の経営は御みこし経営」といわれていました。
 ボートの競技を見ますと目的であるゴールを見つめているのはコックス唯一人、他の漕ぎ手はマルっきり反対方向を向いて一心不乱に漕いでいる。これに対して祭りの御みこしは小さな御みこしを体力のある大勢の男が、お宮さんに通ずる路を担いで通るのですが、よく観察すると誰一人目標に向かって担いでいるとは思われない。ある者は左の方向に、ある者は右の方向に、ある者はお宮とは反対方向に力を入れて担いでいる。御みこしは波のうねりの如く練り歩く。それでも時間にはゴール地点のお宮の鳥居をくぐる。
 盛田昭夫氏はボート競技は時間を争うことは勿論ご承知の上、経営工学とでも云いましょうか、これに対して、経営は一度の勝負を試みるのでない。御みこしは担ぎ手が一人一人役目を荷い、正に曼荼羅(まんだら)です。以前に紹介しましたサーカー競技がこの御みこしに共通した心を持っていると考えます。全員がルールの中で犯してはならない行為を認識実行し、残りの無限の行為を駆使し、観客も一喜一憂する。実はここに大切なことが含まれている サッカーボールの動きの軌跡が御みこしの練り歩く軌跡に等しい。

 ▼役割分担の思想

 どちらも一人一人がしかもその観客までも役割分担をしている。正に曼荼羅です。
  空海密教の曼荼羅の中心は大日如来ですが、大宇宙という虚空の中にすべてが役目を持って生かしあいしている絶対的実在でありますように、サッカー競技や御みこしもみんな、それぞれ自分の役割を持っているのです。
 企業でも社長には社長の役割、守衛には守衛の役割があります。その役割においては上下はありません。それが「まんだらのこころ」です。
 観音さまとお地蔵さまとお釈迦さまいずれが偉いか?
 空海密教でも観音さまと地蔵さまと或いはお釈迦さまと大日如来といずれが偉いか?
 ピラミッド型組織を前提にすればお釈迦さまが一段上であるかもしれないし、大日如来が一段上であるかもしれませんが、「まんだら」の―精神からすれば、どのほとけさまにもお任せしてしまうのです。もしかすると任された地蔵さんと観音さんが「君が行ってくれたら、いや、あなたが行ってあげたら?」譲り合うのでしょうか、それともジャンケンで決めるの
でしょうかね。それなら村人達がジャンケンをして決めたらよいのです。その心が争いのない決め方だと思います。昔から純情な子供達の楽しい遊びの中にジャンケンがありました。勝ち負け関係なくお寺の鐘が鳴るとわが家路に帰って行きました。

 ▼ほとけも人間も、

   すべての生き物が同格平等

 実はこの仏さまにお任せする方法は真言密教にあります。
       ――投華得仏(とうげとくぶつ)――
 といって、古くから使われてきた方法です。
 真言密教では入門の儀式に「結縁灌頂」(けちえんかんちょう)が行われてきました。「灌頂」といいますのは、頭頂に水を灌ぐ儀式です。これは昔インドの王様が即位したとき、四海の水でもって灌頂の儀式をやったことにちなんだものです。
 真言密教では、まず信者になる者に結縁灌頂の儀式を受けさせます。”結縁”とありますように仏さまと縁を結ばせるのですね。
 しかし、ほとけさまと縁を結ぶといっても、仏教には数多くのほとけさまが存在しています。信者はどのほとけさまと縁を結んでいいのかわかりません。そこで、縁を結ぶほとけさまを決めるかためとうに、「投華得仏」(げとくぶつ)がおこなわれます。
 実はここが非常に重要なのです。
――どのほとけさまであってもよい――のです。何故ならどのほとけさまも同位同格だからです。一番偉いほっとけさま存在いたしません。
 空海密教では、大日如来が一番偉いのではないか・・・。と言われる方がおられますが、大日如来は他の諸仏諸尊と次元の違った仏であって、大日如来はが他の諸仏より「偉い」わけではありません。それに、「まんだら」の思想においては、ほとけさまと人間は同格です。ほとけさまと人間ばかりでなく、あらゆる生き物が同格です。ほとけさま・人間・動物・植物、すべてが同格です。
 キリスト教においては、神と人間の間には断絶があります。神は人間より無限優位に立つ存在であり、人間は神の前に唯ひれ伏すばかりです。
 しかし仏教においては、ほとけと人間に断絶はありません。キリスト教においては、人間は万物の霊長として他の動物を支配する立場にあります。人間は文句なしに「偉い」のです。他の動物より優れ存在として神に造って頂いたのです。
 その意味で、キリスト教の考えた方はピラミット的です。
 仏教は違います。仏教においては、人間と他の動物、植物とは、みんな同じ存在です。人間のほうが「偉い」といった考えがありません。
   ――出会いの偶然性――
 を尊びます。偶然に出会ったその出会いを喜びたいが為です。 お地蔵さんか観音さんか、私達村人が決めるのではなく、お地蔵さんと観音さんに委ねます。そうすると、そこに偶然性があります。御みこし、サッカーでもその進行に偶然性があるからすばらしいのです。これが「まんだら」の考え方です。

 ▼ほとけさまに出会えてよかった!

 投華得仏(とうげとくぶつ)の儀式は、具体的には、結縁灌頂を受ける信者が目隠しされて、曼荼羅の前に立たされます。
 曼荼羅というにのは密教寺院にある仏さまがいっぱい描かれた図です。ここでは簡単な説明にします。
  曼荼羅とは、
  ――ほとけさまの集合体――
と考えて下さい。曼荼羅を床に敷き、目隠しきみしされた信者が華(櫁)を曼荼羅に投げます。その華は曼荼羅に描かれたいずれかのほとけさまの上に落ちます。お地蔵さんの上に華が落ちた人はお地蔵さんを阿弥陀さんに華が落ちた人は阿弥陀さんを観音さんに落ちた人はそのほとけさんをいつも大切に念じ続けるのです。これが「投華得仏」(とうげとくぶつ)です。
 何事も偶然の出会いだと認識すれば、その偶然の出会いを大切にし、確信するまで高めてゆく努力がなされます。つまりいつもゼロからのスタートです。
 「投華得仏」(とうげとくぶつ)で出会ったほとけさまの方から選んでくださったのだとと認識して「そのほとけさまと出会ってよかった!このほとけさまこそ、私の仏さまだ!」といえるようにしっかり拝むのです。
       終わり

平成11年元旦号「観音たより」 発行・編集人本多碩峯







いかせ  いのち(生命)

2011-05-28 17:10:03 | 日記・エッセイ・コラム
 

たちばな(橘)の
  宇宙に満ちて観世音
   われら子孫の栄え泰産

生かせ
    生命(いのち)

 「生かせいのち」とはお大師様の教えを現在の言葉で端的にあらわした言葉です。
 この宇宙曼陀羅の「地」「水」「火」「風」「空」は宇宙観をあらわしています。空海密教では悠久無限の大宇宙はこの五大要素からできていると考えられています。
 太陽の周囲を主に太陽の重力の影響を受けて公転し、自らは発光しない天体、即ち惑星の中の地球にのみ、この五大要素が実存しています。
 であるがゆえに、地球にのみ一切の生物が育んでいると言われています。無数に存在する生物の一員である、われわれ人間も育んでいるのです。

 輝けいのち

 紀州が生んだ南方熊楠といえば空海密教の信奉者、彼の植物学、民俗学の原点が空海密教にあることはあまり知られていないが、熊楠といえば空海密教を実証した大変重要な人であり、『いのちを輝かせた』一人であります。 
 彼が発見した粘菌のいのちが熊楠を輝かせたのです。
 粘菌は変形菌といってキノコの一種だそうですが、和歌山県紀州の温暖な原生林の湿地帯に生殖している生物だそうです。苔の生えるような場所に生存し、酸素を吸って炭酸ガスを排出する。原生林の生殖のメカニズムは太陽の光合成と相まって、炭酸ガスを吸って酸素を排出しているのです。
 このように粘菌は原生林の成長に大変な役目を果たしているのです。実は粘菌はそれだけで終えるのでありません。粘菌自体は日々アミーバー状に太陽を求めて成長し、太陽にふれると炭酸ガスを吸って酸素を排出するというメカニズムを持っていることを発見するのです。
 そのメカニズムを発見した瞬間の熊楠の喜びは私たちの想像もできない感動と喜びであっただろうと考えます。
 この私たちも含む一切の生物が生存する地球の役目は実は粘菌のような小さく人間に忘れ去られているような小さないのちの集合体であるということです。
 私たち人間は如何に身勝手な動物であるかということですね。
 私たちが食する米・野菜・果物・魚・肉これらすべていのちを持っています。
 人間は、これらの食料、必要なものを害する生物を外敵、害虫、毒なものと排除しなければ生きてゆけない現実をどう考えれば良いのか。
 非常に難しい問題であります。
 仏教では十善戒という戒律を設けて戒めています、
  不殺生とは、あらゆるものの命をなくすことをしてはいけない。
  不偸盗とは、他人の物、公の物を盗んではいけない。
  不邪淫とは、正しい愛情生活をしなければいけない。
  不妄語とは、嘘、いつわりを言ってはいけない。
  不綺語とは、心にもないことを言って人を迷わしてはいけない。
  不悪口とは、人の短所を言って自分の長所を言ってはいけない。
  不両舌とは、あちこちで信用を失うことを言ってはいけない。
  不慳貧とは、けちけちしてはいけない。
  不瞋恚とは、そねみの心を持ってはいけない。
  不邪見とは、正しい考えで生きなければいけない。
 ここで素直に
『不殺生とは、あらゆるものの命をなくすことをしてはいけない』
の項は、私たち人間は誓い、実行できない事です。
 ここで私は再思考する。
 空海密教の六大要素(地・水・火・風・空・識)は大宇宙の惑星、地球にのみ一切の生物が育んでいる摩訶不思議で実存する根源を大日如来という。
 すなわち神仏をも大日如来に抱かれていると考えられます。六大の「大」は世界の構成原理の意。地・水・火・風・空の五大に識大を加えたもので、五大は物質的原理、識大は精神的原理と考えることができるから、六大で物質・精神を合わせたこの世界の総体を指すことになる。この六大が世界の本質・本体にほかならない。
 空海密教では六大が成す総体に優劣は無い。故に「いのち」にも優劣が無い。
 この大宇宙に独立不変のものはひとつもなく凡ての現象は、人間をも含めて、相互依存の関係にあって絶えず移ろいゆくに、人間はそれでも現象に執着するので苦悩する。その執着を離れるとは、宇宙の大生命を認め合い、地球に存在する一切の生物は環境に適応したそれどれ異なる個性を持っている。
 明日はわが身、老いたるもの、病んでいるもの、精神的肉体的に傷害を持ったもの、経済的困窮しているもの、・・・・・
お互いに理解し合う心が大切です。特に経済的困窮を除き人間のみならず一切の生物のいのちそのものであります。

 いのち輝かす友人

 西家保夫(五十八歳)さんは中学時代に事故で両腕くを無くして、突然訪れる大変な苦悩、高校中退後、病院、宗教、精神修養等々温かい両親と共に通い続ける。その間、大好きな電子工作を義手に夢を託しその結果、自身の腕のために義手を考案工夫、電子回路の複雑な配線、半田付け切断はその道具ニッパ、ペンチ、半田コテの見事な手さばきに工作の美観は勿論の事、当時の低品質なゲルマニウム半導体を使った最先端の研究開発に企業内で携わる。今は脚光を浴びてるLED表示素子も応用面で品質が保証されず、その特性試験が素子メーカーの或る部長の博士号取得の論文に貢献する西家さんの凄い功績が燦然と輝く。
 それだけで終わらない。父を亡くし、年老いた母親を他人の介護を求めず、停年を少し前に退職、苦労をかけた最愛の母親の介護に専念、二年前に九十二歳の素晴らしい人生を全うする。死後の慌しい中で供養祭を見事にやり遂げる。
 ご本人の西家さんも六十に届く身でありながら、昨年はアマチュア無線(JO3AMV)の資格を取得、アンテナポール、アンテナ等は彼の自作品、しかもローテーターまで自作、今では彼自身が障害者に優しい広い自宅(奈良県宇陀郡室生村)で人生を謳歌している。
 しかし、それだけでない。彼は種智院大学(弘法大師創設の「綜藝種智院」) で仏教の勉学に専念されている事であります。
 尊いいのちを輝かせている数少ない素晴らしい方です。
両親に先断たれ障害者として一人身で生活する不自由さに負けてしまう事の多い昨今ですが、大宇宙の法身大日如来の説法に『如実知自心』の言葉どおり、彼は在家出家者として日々亡き両親への供養を通じ、自分自身に目覚めた結果として今日の幸せがあります。

 境内の櫻に学ぶ

 当山は昔から桜の名所として有名でしたが櫻が全滅、三十一年前、当在所の篤志家、落合久雄氏が二百本植樹されたのが今日の見事な境内の櫻です。
 「櫻切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」の諺がありますが、私は櫻が何故全滅したのか不思議に思いながら境内の昔からの茶の木が可笑しい、何百年も経っている筈が新芽である。二年たった頃にその謎が解けた。無造作に櫻の木の下刈りをしていたので大切な茶の木をも毎年刈り取られていたのです。
 今では春になりますと茶摘をし、おいしい新茶が出来、ご本尊様にお供えいたします。 それでは桜の木が何故、全滅したのか?桜の枝を剪定したのでもなく、それも理由が判明致しました。 
 櫻の樹木の下刈りは在所から五十人からの大勢の奉仕によって行われますが、その心が境内を守る、樹木のいのちを大切にする手入れの下刈りでなかったように思うのです。
 何故、櫻の樹木が全滅したのか?
 良く観察してみますと、境内には蔓(カズラ)が多いのです。櫻以外の雑木にも多く絡まっているのですが、枯れかけた桜、枯れた櫻にも蔓が見事にまつわりついているのです。
 他の樹木に比べ枯れ方が酷い。
 本来、櫻自身はは免疫性(私の表現)が大きく枝に菌が付いたり、病原菌が付きますとそれをキャッチして櫻に菌が侵食しないように枝の根元で自ら皮膜を作り侵食された病原菌の枝を枯らし落としてしまう。素晴らしい生命力だ。ところが、蔓に絡まれた桜はその素晴らしいはずの生命力が実は災いするのです。
 外敵の蔓をいち早くキャッチし、・・・自ら櫻自身を枯らせてしまう結果となるこんなむなしい無常な事があろうか。
その蔓はどうなのか?
 その蔓も桜の樹木の枯れと同時に枯れはじめる。すると蔓の根っこがそれを感知すると新しい蔓の芽を出し、新鮮な桜の樹木をめがけ蔓(つる)を伸ばす。
 一般に桜の樹木以外は蔓に桜より強い。したがって庭木でない当山の自然林に近い境内では手入れが最も大切です。
 生きがいは助け合い 空海密教に六大要素(地・水・火・風・空・識)という言葉があります。前項での五大要素に人の識、即ち心が育んでいることを意味します。
 大宇宙で唯一つ、この地球にのみ、五大要素が育み、故に一切の生物が実存し、異なる環境に則した生物が実存する。
 この識は人の心・いのちが、人にのみ育んで助け合う心、唯一人の誇るべき要素であります。
 境内の手入れ、桜の樹木の手入れ、花の手入れの心が子供や老人や障害者への助け合いの癒しの心に通ずる。
 手入れされた生物を観察する人の心まで癒される。 どんな素晴らしい庭師でも広い境内を一人で手入れが出来ない。多くの心ある人々の応援があって、素晴らしさが保た
れる。社会や企業の何事にも通じる。
 輝く命です。   合掌

平成15年7月号「観音たより」 発行・編集人 本多碩峯







仏教小話  旦那、温うございます!

2011-05-27 14:51:10 | 日記・エッセイ・コラム
 

仏教小話

旦那、温うございます!

寛政の頃、京都に因縁乞食というのがいた。彼はどんなことがあっても、怒らず、愚痴をこぼさず、ただ「因縁でございます」とだけ言った。ある日にし六条新町の近江屋主人が酒に酔って夜更けに帰ってきた。主人は何気なく軒下に小便をたれた。丁度そこに因縁乞食が菰(まこも)をかぶって寝ていた。
 彼は頭の上からぬくい小便をかけられたので、ひょいと起きて座り、「だんな、温うございます」と少しも割びれず、静かに言った。近江屋はびっくりしてひどく恐縮したが、乞食は「はい、因縁でございます」と重ねて言った。近江屋は「小便をかけた代わりに、もしお前がわしより先に死んだら、盛大な葬式をしてやるから」と言った。
 乞食はいつも暗いうちに起きて、西本願寺本堂の階段の下にひざまづいて勤行が終るまで一人で合掌して念仏していたと言う。しばらく経って西六条の路頭で乞食が死んでいるというので、近江屋がかけつけてみると、果たして因縁乞食であった。彼は菰(まこも)の上に和やかな顔で微笑を浮かべて死んでいた。
 近江屋は約束通りその夜七条の焼場で火葬にした。翌朝、店のものが骨を拾いにゆくのを忘れていたところ、焼場の者が走って来て、大変なことである、早く来てくれと言うので、行ってみると、灰は美しい紫色になっていて、白骨はすべて水晶のようにすき透っているではないか。白骨があまりに美しいので、近江屋は勿論、このことを知った周囲の人々は、厚く供養して、水晶のようなお骨を、皆持ちかえって内仏におまつりしたという。この因縁乞食は白隠級の悟りの境涯に遊んでいた人であるまいか。

(作者不詳)







仏教小話 

2011-05-27 11:49:58 | 日記・エッセイ・コラム
 

仏教小話

「あゝそうか!」

 寺の門前の商人の娘が、未婚なのに男児を産んだ。父親が怒りこれは一体この子は誰の子じゃとせっかんした。娘は白状して「白隠和尚さんの児だ」と言った。
父親は烈火のごとく怒って赤ん坊を抱いて寺に駆け込んで、「こら、狸坊主、貴さまの児じゃ、大きくせい」と生んだばかりの赤ん坊を突き出した。和尚はさっと両手をのばしただ「あゝそうか」と言ってそれを抱き取った。それから、世間のうわさが生仏のような和尚は門前の娘に児を産ませ、引き取って育てるそうな、と和尚は毎日、泣く赤ん坊の乳をもらいに門前に立つや寺は悪評の上、火が消えたように参詣者は無くなり寂しくなる。

 和尚はそんなことに一向に愚痴をこぼさず、児の為に乳を貰って村を歩き回って、罪もない児を育てるのに一生懸命だった。半年ほどばかり月日は流れて行った。

 ある夜、例の如く寝る前の乳をもらいに白隠が門前に出た。
月冴えた夜だった。焼け付くように泣くわが児の鳴き声を聞くにたまらなくなった娘は父親に「あの児は和尚さんの子でありません。お父さんは何時も和尚さんを仏さまのように敬っておられるので和尚さんの児といえば私の不貞を許してくださるかと思ったのです」と、本当の若い相手の名前を挙げてた。父親は驚き眼色なしである。
 早速お寺へ走って泣きながらお侘びをして、どうかその児を戻して下さいというと、白隠和尚は「あゝそうか」とだけ言って少しも怒ったようす無く赤ん坊を手渡したという。

作者不詳






大自然に育む森と海に育まれている豊かな紀州

2009-11-15 10:18:55 | 日記・エッセイ・コラム

大自然に育む森と海に育まれている豊かな紀州

海水とお母さんのお腹であかちゃんが育む羊水の養分が同じであると聞く、しかも一切の生物は海で誕生したとも云う。 

 その海水にはミネラル(無機質)の含有量が豊富であることはご存知のとおりです。

物理学者でもない小生が体験、読書それに必要に応じて専門家に拝聴した、雑学者(自称)が此処に述べる事をお許しを頂きたい。

小生が1960年に大学を卒業、就職した当時の飯野重工舞鶴造船所(戦前:海軍工廠、現:日立造船)に就職、防衛庁向け、兵器の電子化の開発業務に配属、磁気機雷では地球の地質学(開発過程で計測上学ぶ)、その後、半導体、電子材料(モリブデン・タングステン・シリコン等々)を取扱う。

今回は「水」についてお話したい。

学生時代は山岳部に在籍、就職後はヨット、社会生活ではボーイスカウト、1988年四国八十八ヶ所徒歩巡拝以来1991年から2006年迄は400ccバイクで紀伊半島神社仏閣巡回ツーリング(ワイフとタンデムツーリングと洒落込む)その間、趣味のアウトドアークッキング等で、「水」とは深い繋がりを頂き、今日もそうである。

山歩きが主であった時代に先輩たちから教わった非常に大切な事があります。

山の縦走や四国徒歩巡拝等で道中飲み「水」が必要に迫まれた時に山中で水のせせらぎの音を聞き、喜び勇んでその「水」を飲んではいけない。

先ず、「水」を

1.観察する事。

2.虫や小魚が泳いでいるか。

3.水が澄み切って、川底に藻や苔が生えているか

水が澄み切って、川底に藻や苔が生えていない、しかも、虫や小魚が泳いでいない「水」は決して飲んではいけない。

小魚や虫が生殖できない物質が含んでいる事の証ですから、綺麗な「水」は必ずしも「真水」でありません。

2で少し濁っていても、小魚が泳いでいる事が非常に安全な証拠である。

昔から、「弘法の水」と言う湧き水がございますが、戦前は(土地開発前)は全く安全なしかも綺麗な「真水」でした。

 現在の湧き水の安全性を各市町村で検査をされて公表されていますが、

一般に黴菌(大腸菌等)の有無だけを分析公表していると聞きますが、私たちが必要とする「水」は黴菌が無いことは勿論ですが「真水」です。

 この「真水」が地球のミネラルを豊富に含有しています。

一方雨水と地中の湧き水とは大きな違いがございます。

雨水は主として海水が蒸発して出来る蒸留水と見なされますが、大気中には不純物がございますから「雨水には不純物」が含んでいる上に、海水のミネラルが殆ど含まれていないことが大きな問題です。

 今日、農産物の一般的な水耕栽培で「雨水」を使用しているのが多いですが、植物に必要なミネラルが十分含んでいません。

 非常に大切なことです。「美味しい、甘い」という事と「医学的に健康的に良い」と言う事とが一致しない事が分かってきました。

 例えば、近年、野菜を出来るだけ多く食べましょう!と言われて、「灰汁の無いほうれん草」等と水耕栽培された野菜がサラダ用と販売されていますが、「雨水」栽培で育った物が多い。

 野菜の灰汁は一般にポリフェノールと云われ、健康に生存するに必要な成分であります。

 野菜や果物はその品種に応じて夫々異なったミネラルを含有しています。

人間様と同じように色、形、言葉、食べ物、好き嫌い、が異なるように、食物の必要なミネラルも品種によって異なります。

 最近では農産物の生産地を判定するのに従来は食物のDNAを測定していたが、ミネラルを分析することによって同品種でも生産地を判定できると発表されています。

 この事は紀州でも「真水」でも、場所によってミネラルが異なる事を意味します。

紀州各地域のミネラルの分布図が描けることですね。

 

 弘法大師空海は実家の姓が佐伯といわれていますが、長野や新潟には佐伯家が多いです。小生が大学の山岳部で北アルプスを歩きましたが、佐伯という姓の方には山小屋経営者が多かった。南極大陸第一次越冬隊にその山岳家の佐伯さんが入っていました。

 空海の実家の職業は山師(鉱山・鉱脈の探す)であったとか。

伊都郡かつらぎ町に戦前官幣退社であった「丹生都比売神社」がございますが、高野山即ち空海とは非常に縁の深い関係と云われてきています。

大辞林 第二版(三省堂)によると、丹生とは丹()を産する所の意。地名として各地に存在する。
「ま金ふくのま朱(そお)/万葉 3560

丹とは

(1)硫黄と水銀との化合した赤土。また、その色。辰砂。
(2)
鉛に硫黄と硝石を加えて焼いて作ったもの。鉛の酸化物。黄色をおびた赤色で絵の具や薬用とする。鉛丹(えんたん)
(3)
薬のこと。特に不老不死の薬。

この訳文を見て、空海の唐の国に渡る以前の空白の時代を推測された書物を読みましても、一千年有にを超え、世界に聳える高野山の創建に空海の隠された技術が活かされている。

 小生の推測ですが、現在の根来寺の根来塗り、その原点の高野塗りにも応用されているのではないでしょうか。

昔から「弘法の水」と命名されて現在も湧き続けている名水を何となく理解できます。

 世界遺産熊野古道筋には所々に「名水」がございますが、昔ながらの「名水」を保存する対策があって、新たな「名水」の利用方法が生まれなければならない。大自然は無条件の無限物でなく、有限の中に無限物として尊いモノであります。 

紀州のあらゆる産物が紀州の水によって育まれていると言って過言でありません。

 小生はこの紀州水に育み、食物として育まれたミネラルを料理に食品加工に活かすべく日々営んでいます。

 

 








金柑の収穫

2008-04-14 17:47:37 | 日記・エッセイ・コラム

Dlf01_2 毎日くだもの200グラム運動



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5月に咲く花の蕾み




紀州有田も晴天に恵まれ、近所のミカン農家も剪定作業で忙しく働いている。

ご近所の篤農家の上田光男さんに昨年に続き、金柑を頂き、ワイフを連れ、収穫に行く、昨年以上に見事な金柑が見事な豊作。レモンも近くに植えられ、上田さんから採りたてのレモンを頂戴する。                                                   

Img_0478 同じ畑に生っていたレモン

今夜に金柑を加工し、冷凍保存する。製品加工は後日に・・・。

レモンのビタミン・ミネラル成分分析表


ミツバチの飼育

2008-04-05 23:06:07 | 日記・エッセイ・コラム

Dlf01 毎日くだもの200グラム運動

Img_0434 Img_0435

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今度の作業場がミカン畑になるだろう!そのすぐ側に篤農家の国中さんがミツバチを飼育始めた。

みかんの花の蜜を餌に出来る蜂蜜を使った果物料理が色々心のスクリーンに映し出される。非常に楽しみだ!

蜜蜂の飼育に大切なことは箱の中を清潔にすることだそうです。

蜂蜜のビタミン・ミネラル成分表


大自然に育む森と海に育まれている豊かな紀州 前回につづく

2008-03-02 20:51:25 | 日記・エッセイ・コラム

今回はお酒についてお話したい。

 小生の友人の兵庫県選出の参議院議員鴻池祥肇氏からお聞きした話をしたい。

(鴻池家は江戸時代の豪商、三和銀行の創立に関わり、摂津国伊丹村「現 伊丹市鴻池で清酒の製造に手がけられる」)

 鴻池家のご先祖の体験:

ある濁り酒の醸造工場で労使間で争議があったそうで、職人たちが、大きな醸造樽の中にを投げ入れてしまったそうです。経営者が大変困った末に事業を諦めたそうですが、・・・・、大きな樽に登って中を覗くと本来白く濁っている筈のモノが澄み切った液体であったそうで、不思議に思って酌で汲み取って飲んでみたそうです。

すると、驚く無かれ、それはそれは美味しい味のお酒にびっくり仰天したそうです。

 この労使間の争議が今日の清酒と言うお酒を生み出したのです。

 何事も失敗こそ成功の本ですね。

阪神間のお酒造りに必要な水を「宮水」と言っていますが、只地下水のミネラルが豊富であれば良いと言うものでないそうですね。

 地下水は豊富に存在している用に思いますが、実はそうでありません。

 小生が修行僧として預かっていました海南市下津町橘本の福勝寺(重要文化財)で修行時代の体験:

 地域の水道の源泉は有田川と思っていましたら、実は橘本地区は水道の源泉が地下水であることを知ったのです。

 流石は美味しいく、断水の心配が要らないと安心していたら、断水です・・・。

そのときは有田川からの他の地区へのパイプを繋いで給水、断水を免れた経験がございます。

 大自然の恵みは決して無限でありません。

有限の中に無限なのです。私達人間の智慧が非常に大切であります。

 みかんの産地へ行きますと今日でも畑に腐ったみかんが捨てられていますが、非常に断念ですね。 小生は和歌山の果物の加工食品を開発考案いたしていますが、多分、来年は腐らすことなく、保存、料理に活かす方法が可能であると確信しています。

 柿については県職員の頭根英之氏との数年の協力を頂き、基礎研究は完成しております。

県職員 頭根英之氏に衷心より感謝申し上げます。