果物料理と果物食品加工

ビタミン・ミネラルに果物の仄かな香りに目覚める フルーツソムリエ

いのり ― 生かせいのち ―

2012-06-11 17:22:36 | 高野山 座主
 

Koyasan_sinpo
 

いのりー生かせいのち

 

高野山真言宗管長

 総本山金剛峯寺座主 松長有慶

 三、現世の御利益(その2

  知識人はややもすれば、現世利益の信仰を軽蔑したり、椰揄したりしがちです。知識人といわれる方々は、どちらかといえば合理的なものしか認めようとしません。

  福島の原発事故以来、パワー・スポットという言葉は放射能の残存値の高い地域を指すようになりました。でもそれまでは、何かご利益のありそうな気配のする土地という意味を持った流行語でした。

  このパワー・スポットブームは、大勢の人びとが集まるから、自分も後れじとそこに出かけて癒されたいという虫のよい願望でもあります。自分は努力せずに、他からパワーだけを頂戴して、ご利益を得たいというパワー・スポット現象は、心が貧しくなるプワー・スポットだと椰揄する漫画(久米田康治『さよなら絶望先生』)も現れました。

  確かに流行のパワー・スポットブームは神仏に対する真剣な祈りというよりも、あまり努力をせずに濡れ手に粟をつかむように、自分だけ幸福になりたいと願う現代の若者の遊びの一種ともいえましょう。

  お大師さまにある時、地方のある高官から、自分の治める国が栄え、人々が幸せに暮らせるようにお祈りしていただきたいという依頼があったようです。それに対してお大師さまがどのように返事されたか、その内容を知ることができます(『定本弘法大師全集』第七巻 二四八-二五一頁)。

  それを要約すれば「よろしい。お引きうけしましょう。だが頼みっぱなしでは駄目ですよ。来月の二日から八日までの一週間、私は息災の法を修します。その間あなたは勿論あなたの治める国の役人もみんな精進潔斎して、国内の殺生を一切禁止して諸仏に対して一心に祈ってください。あなたの祈りの心と私の祈りが一つになった時に初めてあなたの願いが叶えられるでしょう。そうでなければ、いたずらにお金を使ってご祈祷しても、なんら御利益を得られませんよ。」と書かれてあります。

  その他にもお大師さまが同じような考えを述べられ文章や手紙がいくつか残されています。

  祈りというものは、いくらお金を積んでも、お坊さんに頼みっぱなしにして、ご本人は知らぬ顔をしていては駄目で、自分が身を引きしめ、行動を正し、ともに神仏に祈らねば効果はないと、お大師さまが考えておられたとみていいでしょう。

  現世利益のお祈りであっても、祈る人が自分の行動を慎み、必死になって祈り続けるその真摯な心が、やがて大宇宙のエネルギーを動かし、神さまや仏さまの心に届いて、願った結果を招来することは当然のことです。

  何がしかのお賽銭を投げ入れて、形式的に手を合わせたり、拍手を打っただけで、あれもこれもと願い事をするのは、たしかに厚かまし過ぎます。このような祈りは知識人から軽蔑されても、当然のことと言っていいでしょう。

   本多碩峯 参与 77001-0042288-000  

 




いのり―生かせ いのち―

2012-05-16 21:07:25 | 高野山 座主
 

Koyasan_sinpo
いのりー生かせいのちー

高野山真言宗管長
総本山金剛峯寺座主
松長 有慶

三、現世の御利益(その1)
 お寺や神社にお参りすると、ずらりと御祈祷札が並べられているところがあります。そこには家内安全、商売繁盛、息災延命、病気平癒から始まって、受験合格、良縁成就など数十項目の祈願内容がそれぞれ印刷され、その下に各自の名前と年齢が書き込めるようになっています。
 日本人の日常生活上の身近な願望の数々が、これらの御祈祷札の中に込められているとみていいでしょう。だがこうした庶民のささやかな日常生活の願いを神仏の前で祈る行為を現世利益といって軽視する方がいます。
 確かに神社やお寺にお参りして、そこぼくのお賽銭を投げ入れて手を合わせて拝む、そのついでに御祈願も頼むという手軽な信心の方もいないわけではありません。
 けれども神社やお寺の本堂の前で、熱心に祈り続けている人もよく見かけます。時には素足になってお百度を踏んで何事かを祈っておられる方もおられます。このような方に出会った時には、その真撃な祈りの姿にこちらの方が胸打たれます。その必死に祈る姿を、一概に現世利益だといって頭から否定していい訳がありません。
 第二次世界大戦が終わって、日本が焼け野原から復興し始めた頃、雨後の竹の子と喩えられたように、沢山の新興宗教が続々と名乗りをあげました。そしてそれぞれの宗教が病気治しをはじめ数々の現世利益を掲げて布教に努めました。日本人全体が衣食住のいずれも極端に飢えていた時代でしたので、これらの宗教のほとんどは急激に教線を拡大しました。  一方、昭和二十年代から三十年代にかけては、西洋文化を無条件に礼賛し、合理主義的な思考が幅を利かせ、科学技術万能の趨勢(すうせい)が時代を風靡しておりました。この時期に日本の知識階級の人々からは、お大師さまの教え、真言密教も、あまたの新興宗教とそれほど区別されず、呪術的だ、前近代的の思想だと、漠然と軽視されるような風潮がありました。
 私たち真言宗の若者たちは悶々としながら、何とかこのような時代の趨勢を立て直したいと思いましたが、有効な手段は見つかりませんでした。私と同じく真言宗の僧侶で、学問を志していた友人の一人は、アメリカに留学し、アメリカ人の宗教、とくにカルトの研究を調査して、アメリカ人の宗教もまた当時日本で常識のように思われていた近代的、合理的、理性的な宗教とは限らないという報告を、私に寄せてくれました。
 またイエスの病気治しの事績の研究をしているプロテスタントのクリスチャンの友人と語りあい、キリスト教が現世利益にはまったくかかわらない、もっぱら心の問題だけを説く宗教だとする、敗戦直後の日本人の一般的な常識がどれほどいい加減なものであったかを知りました。
 このようにして、病気治しをはじめとする現世利益が、世界のほとんどの宗教の中でも、かなり重要な部門を占めるということに気づいたのです。                   (つづく)

     本多碩峯 参与 77001-0042288-000




いのり一生かせいのち   二、見えないもの(その3)

2012-05-01 15:07:27 | 高野山 座主
 

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いのり一生かせいのち一

二、見えないもの(その3

 高野山真言宗管長

 総本山金剛峯寺座主 松長 有慶

  昨年三月十一日、東日本の太平洋岸を襲った大地震と大津波、それに伴う福島の原発の爆発事故などにより、二万人近くの人命が失われました。テレビの映像を通じて、その悲惨な状況を知った私たちは、一人でも多くの人の命が助かって欲しいと、我を忘れて祈りました。

  数日たち被害の状況が明らかになると、これらの災害によって犠牲となられた膨大な数にのぼる方々の御霊安かれと今日まで祈り続けてきました。

  日頃、神仏に対して無関心な人たちも、この一年ほどの間は各種の会合の冒頭で取り上げられた、黙祷という儀礼に従った経儀をお持ちの方も少なくないはずです。

 「無自覚でも、人間は宗教的な行為を行っている。慰霊の場で、天に向かい死者に祈りをささげる、という行為は神仏ではなく人間を聖なるものととらえる人間崇拝が顕著になっている一つの表れだ」という三木英大阪国際大教授の意見(読売新聞、平成二十四年一月七日) に、私は違和感を持ちますが、現代の日本人の宗教観の一面を表わしているともいえます。

  慰霊の行事は亡くなった方の穏やかな成仏を祈るのが本来の目的であって、神仏の代わりに人間を尊崇しようとする儀礼ではありません。でもこうした考えは、三木教授だけではなく、現代社会に生きる一般の方々の宗教に対する共通の認識とみるべきでしょう。

  今回の東日本大震災を通じて、なんらかの宗教を信じる人も、無神論者を棟模する人にとっても、「祈り」という行為をどのように受け取るべきか、問題になっていることは確かです。

  大震災の後、現地にボランティアとして入り、被害者の心のケアに当たってこられたある宗教者が、被害を受けてこころの傷を負っている人びとに向かい合い、宗教者としてのペースで癒しに導くよりも、ただひたすらに聞き役に徹し、その方々の悩み苦しみを自分を超えた存在に渡していくことが必要だと語っておられます。

  復興のお手伝いをしながら被災者と語り合い、共に亡き人の冥福を祈りながら、こころの傷を目に見えぬ大自然の懐の中に繋いでいく、これも宗教者の被災者に対する祈りの一つのかたちかも知れません。

  改めて神社、仏閣に参拝し、祈願することがなくても、無自覚に漠然と抱く自己を超えたものとの繋がりの感覚と、先祖、神仏、世間に対して持つおかげ棟の念は平生、自らを無宗教と思っている人々の中にも存在します。

  それは「無自覚の宗教性」というべき心情で、この無自覚の宗教性が今回のような震災の時に一般の人たちの中に眠っていたものがフツと出てくるのではなかろうか(大阪大学稲場圭信准教授『宗教的利他主義』弘文堂、二十三年)と言われるのも、もっともなことです。

本多碩峯 参与 770001-42288

 

 

 

 

いのり ―生かせ いのち―

2012-04-21 13:46:30 | 高野山 座主
 

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いのり-生かせ いのち-

 高野山其膏宗管長

  総本山金剛峯寺座主 松長 有慶

 

 

 

 

二、見えないもの(その2

  私たちの祈りは、仏壇や神棚の前だけであるとは限りません。その前に仏像や神殿がなくても、手を合わせ祈ることがよくあります。

  肉親の住む故郷の地に、地震や火事、大きな災害などが起こったと耳にした時など、普段の仕事が手につかず、テレビの前で思わず合掌して親や兄弟の無事をお祈りすることもありましょう。

  自身が生命の危機に瀕した時、ところかまわず「神さま、仏さま、助けてください」と念ずる時もあります。

  私は第二次世界大戦の末期に、中学の三年生から軍需工場に動員されて働いていました。その頃、アメリカの戦闘機に至近距離から狙われて、命を落としかけたことがあります。バリバリという機銃掃射の音が止み、まだ生きている、助かったと思った時、「南無大師遍照金剛」と必死で御宝号をお唱えしていた自分にハッと気がつきました。その途端に泣き出し、そして笑い出していました。

  助かったと思ったので、気が凄んで涙がドッとあふれたのかもしれません。またお寺に生まれながら、若気のてらいもあり、平生あまり手を合わせたことのなかったのに、あわや自分のいのちが、という時には、お大師さまに助けてくださいと夢中でお祈りしていた自分がとても滑稽になって、笑い出したのかもしれません。若者の至らなさとはこういうものでしょうか。

  人間はもともと弱いものです。どのような人でも、人間の能力を超えた大きな力に襲いかかられた時、沈着冷静にその危機に対処できるでしょうか。どんなに強がりを言っている人でも、つね日頃、自分自身の理性に対して絶対の信頼を寄せている人でも、あわやという時に心の中だけでも祈らない人がいるとは、どうしても考えられません。

  ご本人は神仏の前で手をあわせているのではないので、宗教とは関係ないと思っておられるかも知れません。

  でも先にも申しましたように、人間が祈るという行為をとる時には、仏さまや神さまの前でお祈りする時でも、間接的にその背後に潜む大きな自然の力や、目に見えぬ真実なるものに祈っているのです。

  世の中には、自分の目に見えぬ、耳に聞こえぬものなどもともと存在しない、信じないという人も少なくありません。でも最近のことで言えば、放射能などの化学物質は、人間の目に見えず、耳に聞こえないけれど、確実に存在し、人間や動植物に大きな影響を与えています。

  最近の宇宙物理学では、われわれが現実世界で見たり開いたりできるものは、大宇宙全体のわずか四%に過ぎない。あとの九六%は人間の知覚の及ばぬ暗黒の物質と暗黒のエネルギーだといわれます。たとい私たちの感覚で直接捉えられなくても、大自然の中には人間の想像をはるかに超えた、とてつもなく巨大な力が存在することは間違いありません。

本多碩峯 参与 770001-42288

 

 


いのり―生かせ いのち― 二、見えないもの(その一)

2012-04-04 12:45:48 | 高野山 座主
 

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いのり―生かせ いのち― 

二、見えないもの(その一)

 高野山其膏宗管長

総本山金剛峯寺座主 松長 有慶

 

 私たちが祈りを捧げる時、普通では仏さまや神さまの前で礼拝します。

 キリスト教徒は、救済者イ登ス・キリストを象徴する十字架とか、聖母マリアさまの前で祈ります。

 仏教では、お釈迦さまの時代には、生きているお釈迦さまに対して、お弟子さんや信者の方々が祈ったわけではありません。お釈迦さまがお亡くなりになってしばらくたって、信者の方々がどうしてもお釈迦さまを慕って祈りたいと望んだ時にも、お釈迦さまの像ではなく、お釈迦さまの足跡、あるいはお釈迦さまのおいでにならない天蓋と座を代わりに拝みました。

 紀元一世紀頃になって、西インドのガンダーラ地方とか、中インドのマツラー地方で仏像が刻まれるようになって、やっと仏さまや菩薩さまのお姿を前にして直接拝むようになったのです。

 日本古来の民族信仰である神さまの宗教でも、もともと神さまの像は刻まれませんでした。日本人は山や川、木や森、また時には石や岩などに神さまがおいでになると、そらを崇拝してきました。

 奈良時代になって日本に中央集権制度が整備されていった時代に、民衆が信仰する山や川、木や森、石や岩など背景にして社が建てられるようになり、神社という礼拝施設が出来ました。それらの神社には御神体として、鏡や剣が祭られることがありますが、仏像をまねて神像が出来たのは、ずっと遅れて平安時代になってからのことです。

 私たちは仏さまや神さまの前で祈ることが通例となっているので、現実に存在する仏さまや神さまに対して祈るように思われがちです。でも仏教ではもともとそれぞれの仏像の背後にある真実なるもの、あるいは神社であれば、その背後に控える、絶大な力をもつ大自然に対して祈ったのです。

 目に見えない宇宙の真理を直接拝むということは、なかなかむつかしいことです。そこで人々は目に見えない真実なものを具体的な形でもって表わした仏像とか、神のやどる依(よ)り代(しろ)を対象に祈りを捧げるようになりました。

 インドでは仏さまや菩薩さまだけではなく、インドの民衆が信仰している在来の神々を、時代とともに仏教の中に取り込んで、新しく数多くの仏、菩薩、明王、諸天などが生み出され、それぞれが宇宙の真理の一部分をそれぞれ分担して受け持つと信じられてきました。

 だから私たちは現実に仏像を前にして礼拝し祈りを捧げるけれども本来はそれぞれの仏像の背後に控えた目に見えない宇宙の真実なるものに対して祈るといってもよいでしょう。この意味で仏教の祈りは、一部の宗教が非難するような単なる偶像崇拝とは違います。

 神さまでは、神殿を通して、その背後にある山や川、雨や嵐といった大自然とか、大自然の偉大な働きに祈りかけているのです。  (つづく)

本多碩峯 参与 770001-42288


いのり―生かせ いのち―     (2)

2012-03-16 16:50:47 | 高野山 座主
 

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いのり-生かせのち-

                                   高野山真言宗管長

総本山金剛峯寺座主

 

 松長 有慶

 

「思いどおりにならない(その2

   私たちが「祈る」という時には、色々の場合があるようです。生命の危機に出会った時に祈るのは、助けてくださいという悲鳴に近い祈りでしょう。それに似ているけれども、それほどの切迫感がないのが、神社や仏さまの前で手を合わせ、家族の平安や商売の繁盛、あるいは志望校の合格などを祈願するといった現実生活上の祈りです。このような祈りが人間にとって最も一般的で、タイプとしては一番多いものと思われます。
 こうした日常的な生活の営みを「さらによくあれかし」と祈ることは、現世利益といって本当の信仰にとっては邪道だという見解もまま見受けられますが、それはかなり極端な考え方で、この点については後で詳しく検討します。
  神さまや仏さまの前で、自分勝手な願いを述べたてて祈るのはいかにもさもしい。神仏に対する祈りは、現状の生活の安定に対しての感謝でなければならない、という意見もあります。
  宗教評論家のひろ・さちやさんは、現世利益を求める祈りを、請求書の祈り、一方、感謝の祈りは、領収書の祈りと名づけておられると聞きましたが、それぞれの祈りの性格を分かりやすく説くという点では納得がいきます。といっても私たちにとっては、どちらがいいかという価値を比べるのではなく、各人の信仰によって選択すべき問題だと思います。
 神仏の前で、現世利益を祈り、あるいは感謝の祈りを捧げるだけではなく、祈りを通じて、自分の心の平安を求める姿勢がより大切だといえます。
 心の安らぎを求めるのは、お坊さんや神主さん、神父さんといった宗教の
専門家だけではなく、一般の信徒にとっても大切な問題です。
 在家信者の場合は本を読んで理解するだけではなく、それぞれの宗教の専門家の的確な指導が欠かせません。
 仏教の場合、僧職にあるお坊さんの心の安らぎを専門の言葉では、涅槃(ねはん)とか解脱(げだつ)、分かりやすい言葉で言えば、悟りといえるでしょう。あまり一般的ではありませんが、仏教の専門的な言葉で、心の安らぎを「安心(あんじん)」といいます。宗教の別、宗教の違いによって、それに至る方法はさまざまです。
 そのほかに、神仏の前で何かの誓いを立てて祈り、その約束を果たすべく努力を重ねる誓願(せいがん)の祈りもあります。 
 さらに自分がなにかの功徳を積んで、その功徳を苦しんでいる人や悩んでいる人には差し上げる祈りもあります。それは仏教では廻向(えこう)といいます。また亡き人をしのんで、その生前の功徳をたたえ、偲ぶ追悼の祈りは一般によく行われます。
 普通、私たちが「祈り」という言葉で表す行動は、ざっと教えてもこのくらいあります。それぞれ性格が違いますので、それぞれについて次から詳しく説明することにします。 
合掌
     本多碩峯 参与 770001-42288  
          

いのり ―生かせ いのち―

2012-03-02 17:50:54 | 高野山 座主
 

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いのりー生かせ  いのちー

  高野山真言宗管長 
 総本山金剛峯寺座主  松長有慶

一 、思いどおりにならない(その1

 「村の渡しの船頭さんは
  今年六十のお爺さん
 年はとってもお船をこぐ時は 元気いっぱい櫓(ろ)が撓(しな)る」
 という歌がありました。
  その時分、六十歳はまぎれもなくおじいさんでした。いま六十歳の方はまだまだ壮年で、隠居する年ではありません。
  平均寿命が延びたおかげで元気な老人が目につくようですが、一方、体のどこかが不調で、寝たきりになり、あるいは家族と離れて独居し、不自由な生活を余儀なくされておられる方も少なくありません。
  私は若い時に父を亡くしましたが、母は九十三歳まで長生きしました。母は健康でよく働き、あまり人に迷惑をかけるような人ではなったのですが、九十を過ぎてはやはり体のあちこちに故障が出て、よく愚痴をこぼして、体が思うようにならないと「早く死にたい」と口に出して、家族を戸惑わせていました。
  最初にこの言葉を聞いたときには、驚きあわてましたが、何度も聞いて高野山真言宗管長・総本山金剛峯寺座主でいるうちに、ハッと気がつきました。死にたいとうわごとのように言っている言葉は、本当に死にたいと思っているのではなく、早くもとのような体に戻りたいという、母の必死の祈りではなかろうかということです。
  病気になって寝たきりになり、万事が思うに任せぬ体になって、お医者さんも当てにならぬ、家族だってどうしようもないということが、本人に十分わかっているからこそ、このような言葉が繰り返されるのです。 私たちは生きているうちに、思いどおりにならないことが次々に襲いかかってきます。歯をくいしばって何とかその苦難を打開し、先に進みたいと思っていても、どうしようもない事態が度々起こります。
  もちろん現状で考えられる限りの手を打つことは当然のことです。 「人事を尽くして天命を待つ」ということわざが日本にあります。あらゆる努力を傾注して、なおその上で襲ってきた苦難の首尾よい打開を期待するとすれば、神仏に頼らざるを得ないでしょう。
 いやいや私は神や仏を頼りにはしていない。あくまで自分の力を信じているから、と仰る方もおられましょう。とはいえ人間はそれほど強いものではありません。神とか仏という具体的な存在ではなくとも、何かにすがり、祈るのは、もともと弱い人間にとって当然の行為といえます。
 仏教のみならず神道でも、キリスト教、イスラム教でも、あらゆる宗教において「祈る」という行為はいずれも基本となります。
  神も仏も信じていない人でも、日常生活の中で、何気なく「いのる」という言葉はよく使います。
 手紙の終りに御多幸を祈りますとか、お弔いの時に、御冥福を祈ります、という言葉はごく一般的に使われています。
 (つづく)
 本多碩峯 参与 770001-42288