果物料理と果物食品加工

ビタミン・ミネラルに果物の仄かな香りに目覚める フルーツソムリエ

生かせ いのち  ー供 養ー

2011-05-31 21:45:38 | 高野山
 

 

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供 養     星島光雅 (岐阜県岐阜市円明院 住職)
 
お仏壇やお墓に、線香やろうそく、お花をお供えしますが、その一つひとつお供えする意味があり、心を込めて供養しなければなりません。それらの供養に六種供養あるいは六波羅蜜(ろくはらみつ)という教えがあるからです。
 灯明をあげることは仏の知恵をいただく「智慧波羅蜜(ちえはらみつ)」、お花をお供えすることは耐え忍ぶ「忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)」、線香を手向けることはやりぬく心「精進波羅蜜(しょうじんはらみつ)」、お仏飯を食べていただくことは心の安定「禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)」、お水を飲んでいただくことはすべての人々に奉仕する「布施波羅蜜(ふせはらみつ)」、塗香を塗り身を引き締めることは戒律を守る「持戒波羅蜜(じかいはらみつ)」といい、お参りのときに、念珠や輪袈裟を用いるのも、持戒波羅蜜だと思います。

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 お大師さまは、これらすべての供養に菩提心ーーー仏の心を起こしましょう、と教えになっておられます。形や形式にとらわれず、あなた方の心でする供養が一番尊いのです。
 ある夜、檀家さんの家にお勤めに行きました。インターフォン越しにお嫁さんが、「あれ、今日でした?忘れていました。お母さんはまだ仕事から帰ってきておりませんが、どうぞお勤めしてください」と言われ、仏間に通されました。
 衣に着替えながらお仏壇を見ますと、花瓶にはお花が供えてありました。今日はお寺さんがみえるから、仏壇を掃除してお供え物と花を添えておかねば、という経験がおありかと思いますが、私はお仏壇の花を見て、ここの家族は毎日ご主人のご供養をしておられるのだと心温かくなりました。決して立派な花でありませんが、ご主人が亡くなられてから七年間、月命日に供えてある花はすべて奥さまが、プランターで作られた小さな花でした。愛情のこもった花です。
 たとえば、道端に一輪のたんぽぽがさいていました。摘み取って捨てたなら、その花はゴミです。摘み取って家の中に飾ったなら、心の癒しさまにお供えしたら、そのたんぽぽは仏となのです。
 この家族はお母さんから孫さんまで、全員私の後ろに座ります。経本と、三歳のお孫さんまで手には念珠を持っています。お布施は奥さまが息子さんに渡され、息子さんの手から私にいただきます。お母さんは、お父さんへの感謝や仏さまを大事にする行いを、身をもって息子さんやお嫁さん、そしてお孫さんに教えているのです。二人のお孫さんは、まだ左右も分からない小さな花ですが、この家庭に育てられることによって、将来はきっと多くの人から手を合わさられるような、立派な大きな花を咲かせることでしょう。
 仏さまに、食べなくてもおいしいものを食べさせてあげたい、見えなくても美しい花を見せてあげたい、見えないものへする供養は美しい、見えないものへする供養は、この心こそ仏の心です。

 

              参与770001-4228(本多碩峯)






まんだら ー 曼陀羅ー

2011-05-29 14:54:47 | 日記・エッセイ・コラム
 

 

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郷里に建立 碩峯

 観音さんはどこに

 といえば、浅草にあるというが

 それは本当の観音さんではない。
    向こうにあるのは
 お互いの観音さんの影法師である。
自分の姿が映っているのですよ。
    外には何もない。
あるのは自分である。
私達は外にばかり気をとられていると、
掌中の珠を失ってしまう。

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如実知自心

真実のわが心を知る
          「大日経」
            碩峯書

まんだらのこころ

▼多数決は正しいのか
 ある村でお堂を建立して、そこにお地蔵さんか観音さんのいずれかを祀ることになりました。で、どちらのほとけさまを選べばよいか・・・・・・?

 この問題も、われわれ人間が決めることの出来ないものです。
 こう云われますと、どういうふうに決めればよいのでしょうう?何かいい智慧がありますでしょうか?
 必ずある人は多数決で決めればいいといいます。
 しかし、それは本質的に間違ったやり方です。
 多数決というのはこの場合は地蔵さんと観音さんの人気投票ならいいのですが、その場合はほとけさまに対する尊崇の念がありません。
 日本人は多数決は最も民主的でいいものと信じられていますが、多数決というものは本質的にいかがわしいものです。たとえば古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、多数決によって死刑になったとか、多数の人間が間違った判断をしたのです。ナチス・ドイツの出現も、ヒットラーは合法的に政権を獲得したといわれています。別段、クーデターを起こしたわけでもなく、暴力革命によって政権を獲得したのでもありません。多数の民衆の支持を得て政権の座に着多数の民衆の支持を得て政権の座に着いたのです。多数の人間が間違った判断をしたことになります。
 今日の日本の政治を観ていましても多数決だとか何々属とか云いまして多数をバックに政争が起こったりしておりますが、国民はその争点、或いは人間にとって何が真実なのかを見極める必要もありましょう。政治家として最も必要とする理念の持ち主であることが大切です。
 地蔵さんがいいか、観音さんがいいか、多数決で決めて、その人間の判断が間違っていない保障がどこにありましょうか?こんな問題に多数決を適用してはいけないのです。

 ▼神社のお祭りの御みこし

 それではどうしますか?「上半身は地蔵さん、下半身は観音さんにしますか・・・。それとも前半身が地蔵さん、後ろ半身は観音さん・・・そんな像をつくりますか・・・」と、こんな
会話が現実に起こりそうです。
 実際笑っていられい真剣な腹立ちさがおこりますね。
 お寺や神社の修復などのときに現実にこのような問題が起こっている。
 最終的に多数決で決定するという前提で議論がなされることなど見かけられると思います。
 多数決というのも、所詮は多数の人間の判断(それは本質的に「妄想」といってよい)に権威を与えるものです。端的にいえば、「妄想」を権威化するものです。そして、地蔵菩薩と観音菩薩の「合成仏」なるものをつくり上げてしまう。こうなったら正に人間の「妄想」です。
 こんなことをしたら唐時代の僧侶かまくもうそうなから――「莫妄想」(妄想する莫れ)――と叱られます。
 それではどんなやりかたがよいのでしょうか? 井深大と並ぶソニー株式会社のファウンダー(創業者)盛田昭夫氏。
 終戦の翌年、焦土の上に前身企業である東京通信工業を設立して以来、盛田は井深とともに半世紀にわたってソニーを慈しみ育て、国内外のあらゆる意味でのトップ・ビジネスへと導いてきた方です。私は1966年頃、スウェーデン国商社ガデリウスに勤務時、当時、世界的に優良品質のルーマ・ランパン社のモリブデン、タングステン・ワイヤーを担当し、ソニー株式会社がマイクロテレビの開発に取り組んでいました。盛田氏に何度かお目にかかりカソードヒーター用に採用して頂きました。その後、盛田さんは研究者として、更に経営者としても勝れた才能を発揮されたことはあまりにも有名です。盛田さんは「アメリカの経営手法はボート経営、日本の経営は御みこし経営」といわれていました。
 ボートの競技を見ますと目的であるゴールを見つめているのはコックス唯一人、他の漕ぎ手はマルっきり反対方向を向いて一心不乱に漕いでいる。これに対して祭りの御みこしは小さな御みこしを体力のある大勢の男が、お宮さんに通ずる路を担いで通るのですが、よく観察すると誰一人目標に向かって担いでいるとは思われない。ある者は左の方向に、ある者は右の方向に、ある者はお宮とは反対方向に力を入れて担いでいる。御みこしは波のうねりの如く練り歩く。それでも時間にはゴール地点のお宮の鳥居をくぐる。
 盛田昭夫氏はボート競技は時間を争うことは勿論ご承知の上、経営工学とでも云いましょうか、これに対して、経営は一度の勝負を試みるのでない。御みこしは担ぎ手が一人一人役目を荷い、正に曼荼羅(まんだら)です。以前に紹介しましたサーカー競技がこの御みこしに共通した心を持っていると考えます。全員がルールの中で犯してはならない行為を認識実行し、残りの無限の行為を駆使し、観客も一喜一憂する。実はここに大切なことが含まれている サッカーボールの動きの軌跡が御みこしの練り歩く軌跡に等しい。

 ▼役割分担の思想

 どちらも一人一人がしかもその観客までも役割分担をしている。正に曼荼羅です。
  空海密教の曼荼羅の中心は大日如来ですが、大宇宙という虚空の中にすべてが役目を持って生かしあいしている絶対的実在でありますように、サッカー競技や御みこしもみんな、それぞれ自分の役割を持っているのです。
 企業でも社長には社長の役割、守衛には守衛の役割があります。その役割においては上下はありません。それが「まんだらのこころ」です。
 観音さまとお地蔵さまとお釈迦さまいずれが偉いか?
 空海密教でも観音さまと地蔵さまと或いはお釈迦さまと大日如来といずれが偉いか?
 ピラミッド型組織を前提にすればお釈迦さまが一段上であるかもしれないし、大日如来が一段上であるかもしれませんが、「まんだら」の―精神からすれば、どのほとけさまにもお任せしてしまうのです。もしかすると任された地蔵さんと観音さんが「君が行ってくれたら、いや、あなたが行ってあげたら?」譲り合うのでしょうか、それともジャンケンで決めるの
でしょうかね。それなら村人達がジャンケンをして決めたらよいのです。その心が争いのない決め方だと思います。昔から純情な子供達の楽しい遊びの中にジャンケンがありました。勝ち負け関係なくお寺の鐘が鳴るとわが家路に帰って行きました。

 ▼ほとけも人間も、

   すべての生き物が同格平等

 実はこの仏さまにお任せする方法は真言密教にあります。
       ――投華得仏(とうげとくぶつ)――
 といって、古くから使われてきた方法です。
 真言密教では入門の儀式に「結縁灌頂」(けちえんかんちょう)が行われてきました。「灌頂」といいますのは、頭頂に水を灌ぐ儀式です。これは昔インドの王様が即位したとき、四海の水でもって灌頂の儀式をやったことにちなんだものです。
 真言密教では、まず信者になる者に結縁灌頂の儀式を受けさせます。”結縁”とありますように仏さまと縁を結ばせるのですね。
 しかし、ほとけさまと縁を結ぶといっても、仏教には数多くのほとけさまが存在しています。信者はどのほとけさまと縁を結んでいいのかわかりません。そこで、縁を結ぶほとけさまを決めるかためとうに、「投華得仏」(げとくぶつ)がおこなわれます。
 実はここが非常に重要なのです。
――どのほとけさまであってもよい――のです。何故ならどのほとけさまも同位同格だからです。一番偉いほっとけさま存在いたしません。
 空海密教では、大日如来が一番偉いのではないか・・・。と言われる方がおられますが、大日如来は他の諸仏諸尊と次元の違った仏であって、大日如来はが他の諸仏より「偉い」わけではありません。それに、「まんだら」の思想においては、ほとけさまと人間は同格です。ほとけさまと人間ばかりでなく、あらゆる生き物が同格です。ほとけさま・人間・動物・植物、すべてが同格です。
 キリスト教においては、神と人間の間には断絶があります。神は人間より無限優位に立つ存在であり、人間は神の前に唯ひれ伏すばかりです。
 しかし仏教においては、ほとけと人間に断絶はありません。キリスト教においては、人間は万物の霊長として他の動物を支配する立場にあります。人間は文句なしに「偉い」のです。他の動物より優れ存在として神に造って頂いたのです。
 その意味で、キリスト教の考えた方はピラミット的です。
 仏教は違います。仏教においては、人間と他の動物、植物とは、みんな同じ存在です。人間のほうが「偉い」といった考えがありません。
   ――出会いの偶然性――
 を尊びます。偶然に出会ったその出会いを喜びたいが為です。 お地蔵さんか観音さんか、私達村人が決めるのではなく、お地蔵さんと観音さんに委ねます。そうすると、そこに偶然性があります。御みこし、サッカーでもその進行に偶然性があるからすばらしいのです。これが「まんだら」の考え方です。

 ▼ほとけさまに出会えてよかった!

 投華得仏(とうげとくぶつ)の儀式は、具体的には、結縁灌頂を受ける信者が目隠しされて、曼荼羅の前に立たされます。
 曼荼羅というにのは密教寺院にある仏さまがいっぱい描かれた図です。ここでは簡単な説明にします。
  曼荼羅とは、
  ――ほとけさまの集合体――
と考えて下さい。曼荼羅を床に敷き、目隠しきみしされた信者が華(櫁)を曼荼羅に投げます。その華は曼荼羅に描かれたいずれかのほとけさまの上に落ちます。お地蔵さんの上に華が落ちた人はお地蔵さんを阿弥陀さんに華が落ちた人は阿弥陀さんを観音さんに落ちた人はそのほとけさんをいつも大切に念じ続けるのです。これが「投華得仏」(とうげとくぶつ)です。
 何事も偶然の出会いだと認識すれば、その偶然の出会いを大切にし、確信するまで高めてゆく努力がなされます。つまりいつもゼロからのスタートです。
 「投華得仏」(とうげとくぶつ)で出会ったほとけさまの方から選んでくださったのだとと認識して「そのほとけさまと出会ってよかった!このほとけさまこそ、私の仏さまだ!」といえるようにしっかり拝むのです。
       終わり

平成11年元旦号「観音たより」 発行・編集人本多碩峯







いかせ  いのち(生命)

2011-05-28 17:10:03 | 日記・エッセイ・コラム
 

たちばな(橘)の
  宇宙に満ちて観世音
   われら子孫の栄え泰産

生かせ
    生命(いのち)

 「生かせいのち」とはお大師様の教えを現在の言葉で端的にあらわした言葉です。
 この宇宙曼陀羅の「地」「水」「火」「風」「空」は宇宙観をあらわしています。空海密教では悠久無限の大宇宙はこの五大要素からできていると考えられています。
 太陽の周囲を主に太陽の重力の影響を受けて公転し、自らは発光しない天体、即ち惑星の中の地球にのみ、この五大要素が実存しています。
 であるがゆえに、地球にのみ一切の生物が育んでいると言われています。無数に存在する生物の一員である、われわれ人間も育んでいるのです。

 輝けいのち

 紀州が生んだ南方熊楠といえば空海密教の信奉者、彼の植物学、民俗学の原点が空海密教にあることはあまり知られていないが、熊楠といえば空海密教を実証した大変重要な人であり、『いのちを輝かせた』一人であります。 
 彼が発見した粘菌のいのちが熊楠を輝かせたのです。
 粘菌は変形菌といってキノコの一種だそうですが、和歌山県紀州の温暖な原生林の湿地帯に生殖している生物だそうです。苔の生えるような場所に生存し、酸素を吸って炭酸ガスを排出する。原生林の生殖のメカニズムは太陽の光合成と相まって、炭酸ガスを吸って酸素を排出しているのです。
 このように粘菌は原生林の成長に大変な役目を果たしているのです。実は粘菌はそれだけで終えるのでありません。粘菌自体は日々アミーバー状に太陽を求めて成長し、太陽にふれると炭酸ガスを吸って酸素を排出するというメカニズムを持っていることを発見するのです。
 そのメカニズムを発見した瞬間の熊楠の喜びは私たちの想像もできない感動と喜びであっただろうと考えます。
 この私たちも含む一切の生物が生存する地球の役目は実は粘菌のような小さく人間に忘れ去られているような小さないのちの集合体であるということです。
 私たち人間は如何に身勝手な動物であるかということですね。
 私たちが食する米・野菜・果物・魚・肉これらすべていのちを持っています。
 人間は、これらの食料、必要なものを害する生物を外敵、害虫、毒なものと排除しなければ生きてゆけない現実をどう考えれば良いのか。
 非常に難しい問題であります。
 仏教では十善戒という戒律を設けて戒めています、
  不殺生とは、あらゆるものの命をなくすことをしてはいけない。
  不偸盗とは、他人の物、公の物を盗んではいけない。
  不邪淫とは、正しい愛情生活をしなければいけない。
  不妄語とは、嘘、いつわりを言ってはいけない。
  不綺語とは、心にもないことを言って人を迷わしてはいけない。
  不悪口とは、人の短所を言って自分の長所を言ってはいけない。
  不両舌とは、あちこちで信用を失うことを言ってはいけない。
  不慳貧とは、けちけちしてはいけない。
  不瞋恚とは、そねみの心を持ってはいけない。
  不邪見とは、正しい考えで生きなければいけない。
 ここで素直に
『不殺生とは、あらゆるものの命をなくすことをしてはいけない』
の項は、私たち人間は誓い、実行できない事です。
 ここで私は再思考する。
 空海密教の六大要素(地・水・火・風・空・識)は大宇宙の惑星、地球にのみ一切の生物が育んでいる摩訶不思議で実存する根源を大日如来という。
 すなわち神仏をも大日如来に抱かれていると考えられます。六大の「大」は世界の構成原理の意。地・水・火・風・空の五大に識大を加えたもので、五大は物質的原理、識大は精神的原理と考えることができるから、六大で物質・精神を合わせたこの世界の総体を指すことになる。この六大が世界の本質・本体にほかならない。
 空海密教では六大が成す総体に優劣は無い。故に「いのち」にも優劣が無い。
 この大宇宙に独立不変のものはひとつもなく凡ての現象は、人間をも含めて、相互依存の関係にあって絶えず移ろいゆくに、人間はそれでも現象に執着するので苦悩する。その執着を離れるとは、宇宙の大生命を認め合い、地球に存在する一切の生物は環境に適応したそれどれ異なる個性を持っている。
 明日はわが身、老いたるもの、病んでいるもの、精神的肉体的に傷害を持ったもの、経済的困窮しているもの、・・・・・
お互いに理解し合う心が大切です。特に経済的困窮を除き人間のみならず一切の生物のいのちそのものであります。

 いのち輝かす友人

 西家保夫(五十八歳)さんは中学時代に事故で両腕くを無くして、突然訪れる大変な苦悩、高校中退後、病院、宗教、精神修養等々温かい両親と共に通い続ける。その間、大好きな電子工作を義手に夢を託しその結果、自身の腕のために義手を考案工夫、電子回路の複雑な配線、半田付け切断はその道具ニッパ、ペンチ、半田コテの見事な手さばきに工作の美観は勿論の事、当時の低品質なゲルマニウム半導体を使った最先端の研究開発に企業内で携わる。今は脚光を浴びてるLED表示素子も応用面で品質が保証されず、その特性試験が素子メーカーの或る部長の博士号取得の論文に貢献する西家さんの凄い功績が燦然と輝く。
 それだけで終わらない。父を亡くし、年老いた母親を他人の介護を求めず、停年を少し前に退職、苦労をかけた最愛の母親の介護に専念、二年前に九十二歳の素晴らしい人生を全うする。死後の慌しい中で供養祭を見事にやり遂げる。
 ご本人の西家さんも六十に届く身でありながら、昨年はアマチュア無線(JO3AMV)の資格を取得、アンテナポール、アンテナ等は彼の自作品、しかもローテーターまで自作、今では彼自身が障害者に優しい広い自宅(奈良県宇陀郡室生村)で人生を謳歌している。
 しかし、それだけでない。彼は種智院大学(弘法大師創設の「綜藝種智院」) で仏教の勉学に専念されている事であります。
 尊いいのちを輝かせている数少ない素晴らしい方です。
両親に先断たれ障害者として一人身で生活する不自由さに負けてしまう事の多い昨今ですが、大宇宙の法身大日如来の説法に『如実知自心』の言葉どおり、彼は在家出家者として日々亡き両親への供養を通じ、自分自身に目覚めた結果として今日の幸せがあります。

 境内の櫻に学ぶ

 当山は昔から桜の名所として有名でしたが櫻が全滅、三十一年前、当在所の篤志家、落合久雄氏が二百本植樹されたのが今日の見事な境内の櫻です。
 「櫻切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」の諺がありますが、私は櫻が何故全滅したのか不思議に思いながら境内の昔からの茶の木が可笑しい、何百年も経っている筈が新芽である。二年たった頃にその謎が解けた。無造作に櫻の木の下刈りをしていたので大切な茶の木をも毎年刈り取られていたのです。
 今では春になりますと茶摘をし、おいしい新茶が出来、ご本尊様にお供えいたします。 それでは桜の木が何故、全滅したのか?桜の枝を剪定したのでもなく、それも理由が判明致しました。 
 櫻の樹木の下刈りは在所から五十人からの大勢の奉仕によって行われますが、その心が境内を守る、樹木のいのちを大切にする手入れの下刈りでなかったように思うのです。
 何故、櫻の樹木が全滅したのか?
 良く観察してみますと、境内には蔓(カズラ)が多いのです。櫻以外の雑木にも多く絡まっているのですが、枯れかけた桜、枯れた櫻にも蔓が見事にまつわりついているのです。
 他の樹木に比べ枯れ方が酷い。
 本来、櫻自身はは免疫性(私の表現)が大きく枝に菌が付いたり、病原菌が付きますとそれをキャッチして櫻に菌が侵食しないように枝の根元で自ら皮膜を作り侵食された病原菌の枝を枯らし落としてしまう。素晴らしい生命力だ。ところが、蔓に絡まれた桜はその素晴らしいはずの生命力が実は災いするのです。
 外敵の蔓をいち早くキャッチし、・・・自ら櫻自身を枯らせてしまう結果となるこんなむなしい無常な事があろうか。
その蔓はどうなのか?
 その蔓も桜の樹木の枯れと同時に枯れはじめる。すると蔓の根っこがそれを感知すると新しい蔓の芽を出し、新鮮な桜の樹木をめがけ蔓(つる)を伸ばす。
 一般に桜の樹木以外は蔓に桜より強い。したがって庭木でない当山の自然林に近い境内では手入れが最も大切です。
 生きがいは助け合い 空海密教に六大要素(地・水・火・風・空・識)という言葉があります。前項での五大要素に人の識、即ち心が育んでいることを意味します。
 大宇宙で唯一つ、この地球にのみ、五大要素が育み、故に一切の生物が実存し、異なる環境に則した生物が実存する。
 この識は人の心・いのちが、人にのみ育んで助け合う心、唯一人の誇るべき要素であります。
 境内の手入れ、桜の樹木の手入れ、花の手入れの心が子供や老人や障害者への助け合いの癒しの心に通ずる。
 手入れされた生物を観察する人の心まで癒される。 どんな素晴らしい庭師でも広い境内を一人で手入れが出来ない。多くの心ある人々の応援があって、素晴らしさが保た
れる。社会や企業の何事にも通じる。
 輝く命です。   合掌

平成15年7月号「観音たより」 発行・編集人 本多碩峯







仏教小話  旦那、温うございます!

2011-05-27 14:51:10 | 日記・エッセイ・コラム
 

仏教小話

旦那、温うございます!

寛政の頃、京都に因縁乞食というのがいた。彼はどんなことがあっても、怒らず、愚痴をこぼさず、ただ「因縁でございます」とだけ言った。ある日にし六条新町の近江屋主人が酒に酔って夜更けに帰ってきた。主人は何気なく軒下に小便をたれた。丁度そこに因縁乞食が菰(まこも)をかぶって寝ていた。
 彼は頭の上からぬくい小便をかけられたので、ひょいと起きて座り、「だんな、温うございます」と少しも割びれず、静かに言った。近江屋はびっくりしてひどく恐縮したが、乞食は「はい、因縁でございます」と重ねて言った。近江屋は「小便をかけた代わりに、もしお前がわしより先に死んだら、盛大な葬式をしてやるから」と言った。
 乞食はいつも暗いうちに起きて、西本願寺本堂の階段の下にひざまづいて勤行が終るまで一人で合掌して念仏していたと言う。しばらく経って西六条の路頭で乞食が死んでいるというので、近江屋がかけつけてみると、果たして因縁乞食であった。彼は菰(まこも)の上に和やかな顔で微笑を浮かべて死んでいた。
 近江屋は約束通りその夜七条の焼場で火葬にした。翌朝、店のものが骨を拾いにゆくのを忘れていたところ、焼場の者が走って来て、大変なことである、早く来てくれと言うので、行ってみると、灰は美しい紫色になっていて、白骨はすべて水晶のようにすき透っているではないか。白骨があまりに美しいので、近江屋は勿論、このことを知った周囲の人々は、厚く供養して、水晶のようなお骨を、皆持ちかえって内仏におまつりしたという。この因縁乞食は白隠級の悟りの境涯に遊んでいた人であるまいか。

(作者不詳)







仏教小話 

2011-05-27 11:49:58 | 日記・エッセイ・コラム
 

仏教小話

「あゝそうか!」

 寺の門前の商人の娘が、未婚なのに男児を産んだ。父親が怒りこれは一体この子は誰の子じゃとせっかんした。娘は白状して「白隠和尚さんの児だ」と言った。
父親は烈火のごとく怒って赤ん坊を抱いて寺に駆け込んで、「こら、狸坊主、貴さまの児じゃ、大きくせい」と生んだばかりの赤ん坊を突き出した。和尚はさっと両手をのばしただ「あゝそうか」と言ってそれを抱き取った。それから、世間のうわさが生仏のような和尚は門前の娘に児を産ませ、引き取って育てるそうな、と和尚は毎日、泣く赤ん坊の乳をもらいに門前に立つや寺は悪評の上、火が消えたように参詣者は無くなり寂しくなる。

 和尚はそんなことに一向に愚痴をこぼさず、児の為に乳を貰って村を歩き回って、罪もない児を育てるのに一生懸命だった。半年ほどばかり月日は流れて行った。

 ある夜、例の如く寝る前の乳をもらいに白隠が門前に出た。
月冴えた夜だった。焼け付くように泣くわが児の鳴き声を聞くにたまらなくなった娘は父親に「あの児は和尚さんの子でありません。お父さんは何時も和尚さんを仏さまのように敬っておられるので和尚さんの児といえば私の不貞を許してくださるかと思ったのです」と、本当の若い相手の名前を挙げてた。父親は驚き眼色なしである。
 早速お寺へ走って泣きながらお侘びをして、どうかその児を戻して下さいというと、白隠和尚は「あゝそうか」とだけ言って少しも怒ったようす無く赤ん坊を手渡したという。

作者不詳






生かせ いのち

2011-05-16 17:03:26 | 高野山
 

Shinpo04

  曼荼羅の教え

 今、家庭内暴力や子供への虐待、殺人、いじめ、そして自殺というような悲惨なニュースが報道されています。家庭が悪い、学校が悪い、教育が悪いなどと各界の人たちがコメントをしておられますが、果たして原因はどこにあるのでしょうか。これらの問題を解決し、なくすことはとても難しいことです。

 私たちは一人ひとり性格や個性、考え方が違うし、容姿や体力も違います。同じ行動をしたなら、粉れもなく優劣が発生し、疎外の無視、いわゆるいじめが起きます。それは学校だけの問題ではなく、社会生活でも多々あることです。

 しかし、いくら難しくても解決するための努力が必要です。世界の悲惨な出来事を解決するのは無理かもしれませんが、家庭でなら出来るはずです。

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河合 了宣 住職

家族がそれぞれの個性や性格を分り合い、みんなで長所を伸ばし欠点を補い合う、そしてすべてを愛情で包み込む真言密教の曼陀羅の教えを行うことによって解決できるのです。曼陀羅の教えとは、仏を中心として人々が尊敬し合い、助け合い、感謝し合う、その行いが毎日続くという教えなのです。

 お彼岸に、壇信徒さんにお勤めに行きました。お仏壇にはきれいな花やお菓子、果物などが供えてあり、ろうそくはすでに火が灯されてありました。そのろうそくは大本山永平寺と大きく印刷されてあり、「永平寺にお参りに行かれたのすか」と訪ねました。奥さまは「いいえ、大学生の孫娘が福井に遊びに行ったお土産を私に買ってきてくれ、『おばあちゃん、仏さまにお土産買ってきたからね』と言って、このろうそくを渡してくれたのです」と、うれしそうに話してくれました。

 高野山でも、参詣の方がお仏壇やお墓にお供えするために高野槇を買い求められる光景はよく見られます。しかし、旅行に行って、仏さまへのお土産を買うことに気が付く大学生がどれだけいるでしょうか。

 彼女が幼い時から、おじいさんやおばあさんが仏さまやご先祖さまを常に大切にしている姿を見ていたら、素直な気持ちで仏さまへのお土産を買ってこられたのでしょう。彼女のお父さんもお土産を買ってきたとき。は、「お土産を仏さまにお供えしてあるから、あとからいただいてください」と言われるそうです。

 仏を中心とし、先祖を供養し、家族みんながお互いに感謝し合い助け合い心で生活すれば、必ず優しく楽しい家庭をがつくられ、そこにはまさに小さな曼陀羅世界ができるのです。そのような家族が一つひとつ増えていけば、それは大きな曼陀羅世界となるに違いありません。幸せな家庭を築くことは、家庭のみならず、すべての人たちが慈悲によって包み込む仏の世界、曼陀羅の教えを実践することなのです。そして素晴らしい人間になっていただくことがお大師さまの願いなのです。

 家に仏がない方は、あなたの心の中に仏を宿してください。そして、あなたを中心に曼陀羅の教えを家族で話し合い、助け合い、楽しい日々の生活を行ってください。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー筆者は岐阜県岐阜市円明院住職です。

           参与770001-4228(本多碩峯)

 

      


五観の偈(三)

2011-05-04 22:04:45 | 高野山
 

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五観の偈(三)          星島 光雅
 食の心の重要性を説いた五観の偈の第四項目と、最後の第五項目につぃてお話します。
 第四項目では、「四には正しく良薬を事として形苦を済はんことを取れ」と唱えます。意味は、食べ物は体を養い命を保つための良薬としていたくだりであり、肉親の苦境を救わんためにいただくのである、ということです。ここで仏教の食に対する考え方が述べられています。すなわち、食と薬、という意味で捉えています。お寺で精進料理を召し上がられることがあるかと思います。お寺で出す食事を薬膳ともいいますが、実はここからきているのです。
 最近、日本人に多い病気に成人病あるいは成人疾患といわれるものがあります。たとえば高血圧症、糖尿病、痛風などです。なかには遺伝的なものもありますが、一番の原因は食文化の変化による食べ過ぎ、飲み過ぎだといわれています。食も必要以上にとると、薬が毒になってしまうということです。
 一昔前の食事に対する戒めに「腹八分目」という言葉がありました。まさに五観の偈の第四項目からきた言葉です。仏道修行中、修行僧は最低限度の食事しかとりません。
睡魔や性欲的な行の妨げになることを抑えるためでもありますが、今日飽食の時代であって、自分の健康を守るためにもこの第四項目の教えを大切にしたいものです。
 次に第五項目目では「五には道業を成ぜんが為なり、世報は意に非ず」と唱えます。意味は、食べ物を受けるのはただひたすら仏道を成就せしめんがためであり、出家者にとって世間の栄達、名誉、地位等にはまったく関係がない、ということです。

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 今までお話をしてきました第一項目から第四項目までは、在家のみなさま方に食に対しての心構えを説いた教えですが、最後に説かれた第五項目は私たち出家者、すなわち僧侶やお寺を一緒にお守りさせていただいている寺族に対しての心構えを説いたものです。
 お寺に住している者は、壇信徒の皆さまより財施、すなわち金品の入ったお布施や野菜、果物、魚等、仏さまにお供えいただいた物をあとで有難く頂戴し、お寺を護持させていただいております。しかし、残念ながら中には、仏さまやお寺の護持のために浄財を志納してくださった布施者の心を忘れ、世間の目を引く栄華な生活をしたり贅沢な高級車に乗っている人がいます。第五項目目は、俗世間的な名誉や地位の為に食することがあってはならないという厳しいお諭しの教えです。私も、いつも心に自戒している言葉です。
 四回にわたり、食育の心として五観の偈についてお話してきましたが、今日本人が忘れているのが、食事の前に合掌をし感謝の心を表すということです。動植物の尊い命をいただき生かされている自分は、またどのような生き方をすればいいのかということを、是非ご家庭で話題にしていただきたいと思います。そして、人に言う前にまず、自ら食事前の美しい姿を実行していただきたいと思います。     
                      南無大師遍照金剛     
                筆者 岐阜県中津川市寶心寺 住職
  参与770001-4228(本多碩峯)
 

慈しみのこころ

2011-05-02 20:13:12 | インポート

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慈しみのこころ

 日本大災害の発生から一ヵ月経過した四月十一日、震災物故者追悼法会を厳修させて頂いた日の深夜、所属している高野山真言宗宗務支所下寺院の青年僧十人と共に徳恩寺さま(鹿野融定住職)に集結し、一路、被災地ボランティアの前線基地となる宮城県大崎市にある弘法寺さまを目指し出発しました。
 翌十二日、弘法寺さまにおいて、金剛峯寺社会課の五味参事、高野山真言宗の東京・相模・長野各宗務支所下寺院の大徳さまと合流し総勢三十余名となった一団は、五味参事先導の下、宮城県石巻市の避難場所において、支援活動にあたりました。

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   台湾から届いている義損飯を倉庫に搬入する班、津波によって家屋などに侵入した泥を掻き出す班も二班に分かれて活動しました。
 翌十三日には岩手県遠野市に移動し「遠野まごころネット」のボランティアの方々二十数名と合流し、義損飯を倉庫に搬入。その後、それぞれの宗務支所単位に分かれての炊き出し。加えて救援物資の配布と作業は続きます。

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 私の班は、十二日には石巻市住吉中学校の避難所(避難者約四百名)で、十三日には福島県相馬市旧相馬女子高等学校の避難所(避難者約六百名)に、おいて、焼きそばとワカメの酢の物の炊き出しを行わせて頂きました。
 私は、両日とも酢の物を担当し、体育館を避難場所とされていた石巻では、体育館の入口で配布。一方、学校の教室が避難場所とされていた相馬においては、各教室に直接大きな寸胴鍋を持参し、配布することとなりました。
 ふと気づくと廊下の端から六歳くらいの小さな女の子の姿、その子は私の傍まで走り寄り、「あの酢のものとってもおいしかったよ!ありがとう!」と言ってきたのです。その子は配布の終わった教室から、礼を言うために出てきてくれたのです。その子の感謝を伝えようとする健気な様子は、私たちの心を大きく揺さぶり感動を与えました。どうにも涙が止まらなくなり、涙を目に浮かべながらの作業となりました。
 帰路のトラックの中、配布作業」を共にしていた鹿野融完師と「あの子の笑顔を見るために、我々は炊き出しをしたんだね。」と、少女の「ささやかな感謝の言葉」と少女のもつ「慈しみの心」に触れさせて頂いたことに心から感謝しました。
 被災地は未だ混迷している状態であり、「何も出来ない自分が被災地に行って、迷惑ではないか」と躊躇される方が、多くいらっしゃることだと思います。
 しかし、私たちはお大師さまの教えを享受する一人の人間として「お大師さまであったら、今いかなる行動をされるか」と深くお考え、この現実に起こっている状況に向き合って、一人ひとりが出来る行動を起こしていって頂きたいと強く思っています。
 自分の目でしっかり見て考え、お大師さまのお考えになる「慈悲の心」を広く差し伸べて参りましょう。
                                    合掌
             神奈川支所下遍照寺住職  紫 義彰

            
参与770001-4228(本多碩峯)