果物料理と果物食品加工

ビタミン・ミネラルに果物の仄かな香りに目覚める フルーツソムリエ

麹菌は日本の発酵食品の立役者

2012-10-09 19:06:23 | 食・レシピ
 
 

麹菌は日本の発酵食品の立役者

 

 麹を使った発酵食品である甘酒と塩麹。「飲む点滴」、「魔法の調味料」などと呼ばれ、今、脚光を浴びている。

 

日本で古くから清酒や味噌、醤油などに使われてきた麹菌は、ニホンコウジカビといい、学名はアスペルギルス・オリゼーという。麹菌を蒸した米や麦、大豆などに増殖させたものが、「麹(米麹、麦麹、豆麹)」だ。

 

麹を使った発酵食品が腸の健康や美容によいといわれるのは、麹菌の“酵素”生産力が強いから。酵素は、栄養の消化や吸収といった体の働きにかかわる物質。麹菌が作る酵素は、種類も量も、微生物の中でずば抜けて多い。でんぷんやたんぱく質を分解する力は、「“木っ端みじん”にするといってよいほど」(白澤教授)。それでいて、食べても安全ということで、さまざまな発酵食品に使われている。

 

ビオチンや葉酸などビタミンB群を増やす

 

米麹には、ビタミンB1、B2、B6、葉酸、パントテン酸、ビオチン、ナイアシンなど、特にビタミンB群が豊富に含まれている。ビタミンB群は、肌や爪、髪を健やかに保ったり、疲労回復にもかかわるとされ、ドリンク剤などにも配合されている。江戸時代には夏バテ予防の栄養ドリンクとして飲まれていた。

 

麹菌が、B群を増やす力を持つことは知られているものの、その仕組みは、ほとんど研究されてこなかった。

 

それが昨年、麹菌がビオチンをつくるメカニズムが突き止められ、注目されている。研究を手がけた東京大学大学院農学生命科学研究科微生物学研究室の丸山潤一助教は、「麹菌の細胞内のペルオキシソームという小器官で、ビオチンの生合成に関わる酵素が働き、合成されることがわかった」と話す。

 

なお、ビタミンB群は水溶性なので、体内に蓄積できない。美肌効果を狙うなら、毎日少しずつ飲み続けるのがいい。 

 

 

 

 

 


南方熊楠に学ぶ

2012-10-09 16:47:48 | 高野山
 
南方熊楠に学ぶ

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南方熊楠
 一般には植物学者と有名ですが、実は彼は空海密教の絶大な信者であった。空海密教の真理『五大要素』宇宙の空間で地・水・火・風・空が実存する唯一の地球にのみ一切の生物が育み、球形の地球のどの地点をとっても同じ環境がありません。

その異なった環境に叶った生物が存在するということ、即ち環境に即した異なる個性を持った生物が存在していることです。
 このような大宇宙の壮大そのものに、個性ある生物にどんな小さなモノにも不思議な現象がある個性を持たない不思議なモノや現象をわれわれ日本人は儒教の到来と共に日本人の地域社会の平安と道徳的指針の恩恵に敬う対象が神であり、個性を持った一切の生物即ち『山川草木悉皆成仏』本来実在の仏とが習合(神と仏が依存しあう考え)思想が奈良時代からはじまり弘法大師空海・最澄の時代に民衆にいっそうひろまり、神社に神宮寺を建てたり、寺院に鎮守神を祀ることが広まった。
 熊楠は郷里の紀伊田辺の雨量が多い原生林で太陽の光が届かない土壌にも、その場所の環境に適合した生物があるとの考えから発見した粘菌とは真に驚くべき素晴らしい生物であった。それは太陽を見ない多湿度の環境に育み、酸素を吸って炭酸ガスを排出しその環境に育くむ、他の
原生林の植物の成長に欠かせない生あるモノを排出し、粘菌が時間とともに太陽を求めアミーバーのように成長しながら木を登り太陽光に触れると炭酸ガスを吸って酸素を排出する。実にすばらしい生物ではないか。
熊楠が後世自然環境保全や、明治初頭廃仏毀釈から立ち直った日本仏教界に国際的な精神文化の紹介を担う契機として海外にいる熊楠の薦めでもあり、日本から土宜法竜(真言宗高野山派)・釈宗演(臨済宗円覚寺派管長)芦津実全(天台宗)八淵蟠竜(浄土真宗本願寺派)の四人の僧侶が仏教界を代表して参加した。
 南方熊楠と空海
 紀州が育み、一般には世界的な博物学者南方熊楠(一八六七~一九四一)、と知られていますが、熊楠が植物学に興味を抱く原点には空海密教に信奉した第一人者であったことです。
 「南方熊楠全集」を拝読しますと観察力の素晴らしさに心をうたれます。
米英遊学中の人物、生物、民族等への博物学を超えた観察力、高野山の後、官長になられた友人・土宣竜法師との往復書簡内容からも読み取れます。「大蔵経」を前後三回も読破されたとも言われるがごとく、土宣竜法師も南方熊楠の面白おかしい書簡内容の中に仏教論を感じ取ったに違いない。
 特に有名な粘菌の発見、紀伊田辺の神島の自然環境保存運動や維新政府の神社合祀への精力的な反対運動などはその原点が空海思想の密教の教えに帰一している。
 大宇宙の五大要素
 この大宇宙は五大要素(地・水・火・風・空)から成立っているが私達が生存している地球にのみ五大要素が育んでいる。それ故、地球に一切の生物が生かされている。私達人間もその生物の一つでありまして、人の心即ち識の要素を加え六大要素(地・水・火・風・空・識)といいます。
 我が地球に生存する生物はその環境に適応する生物として育んでいる。
 熊楠は紀州の多湿で太陽のあたらない原生林特有な環境にのみ育む生物・粘菌を発見する。太陽もさえぎる密林の中で酸素を吸い炭酸ガスを排出し、時間を経過するとともにアミバー状に成長し太陽に触れると炭酸ガスを吸って酸素を排出する。という素晴らしい生物を発見する。
 それが粘菌です!

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粘菌


『食』

2012-10-09 15:17:15 | 高野山
 

『食』 

 

仏教では肉体と精神即ち「身心一如」といい、その身体を養う食を大切にします。

 

 大宇宙の中で「地・水・火・風・空」の五大要素、即ち大地・水・太陽・風(空気)・空(虚空)が宿っているのは、この地球だけです。この五大要素によって生きとし生けるモノ一切が育んでいます。 私たち人間を含む生きとし生けるモノ一切の「食」は、と、問われますとそれは五大要素であると答えます。

 

この生きとし生けるモノ一切の中で「識(心)」を以ているのが唯一、人間なのです。

 

この要素を六大要素といいます。   

 

 人間の「食」の原点がこんなところにあります。

 

 植物と動物

 

 私たち人間の食料には一般に植物と動物が御座います。ところで植物は無限に近くありますが、動物は獲れば減っていくと考えます。動物食は有害であるということも一概には言えないと思います。

  食物の字義はタベルモノであり、人を良くするモノであります。誰でも空腹を感じると何か食べられるものを口にしたくなる。
 このタベラレルモノが食物でもある。この食物を要求するのは本能によるもので。本能とは動物が生きて行くに必要な能力で、大自然は動食物を育み、創生し、それらを生かせて行けるように設計されています。それが本能と呼ばれる摩訶不思議な能力で、理屈なしにその目的を達成するようにしています。
 

 そこで、動物の食物ですが、唯、食べられるものといいましたが、実際は、そのものには動物が生きて行くのに必須で特殊な物質を包含しているものであるという条件がついています。すなわち、食べられるものなら何でもいいと云いきることは出来ないのであり、一般動物の食べていいものは、この条件に叶っている天然物そのままなのです。

  このようにいいますと、食物というものは面倒なもののように聞こえますが、動物の食べているものは実際には簡単で面倒なものではない。が、私たち人間は、そのような簡単なものでなく、至極面倒なものなのであります。それは人間だけに見られる文化的生活によるもので、人間だけに、食物以外に食品なるものがある。
 

 そこで、われわれの生活の保証、即ち人間の「生きて行く」という最大の条件に、三つが考えられます。

 

 その第一は生態の維持、生体を生存させるに役立つ物質。

 

 第二にその生体のもつ生命を継続させるエネルギーを供給してくれる物質。

 第三に以上の物質を生体内で充分利用し得るようにする物質。  
 というような、三種の働きをする物質が必要なのです。

これらの働きをする物質を栄養物質といいます。

  私たちの食物には、生きて行くに必要な物(質)を包含していなければならないのであります。生きているということは、無生物界にはなく、生物界に限定されていることです。人間が生きて行く前に、生物が生きていなければならないことです。それらの物質が、私たちが住んでいるこの地球上の何処でつくられているのかということでありはしないでしょうか。
  その答えはは至極簡単、それらのすべては、燦燦と降り注ぐ白日の下、緑色に、輝いている植物の葉の細胞内において水、炭酸ガス、窒素、燐、硫黄等の無機化合物からいとも不思議に迅速に合成されているのだこの合成された物質には、いずれも太陽からこの地球に降り注ぐエネルギーが包含されていて、生物の生活のエネルギーの供給源をなすのです。
  太陽は毎日東から昇り、西に沈み、昼はわれわれ地上のすべての物質を照らし且つ暖を与えてくれるばかりか生活のエネルギーをも与えてくれる、太陽なしには生物は生息し得ないのであります。
 

 人類の食生活

 

 食という文字を「人を良くする」と書きますが、一般動物が本能的生活をしているのに、唯いつ、人類のみは、そうではない。 文化とは人類のみ見られるもので、そのことは本来あるべき自然(じねん・人間も宇宙に実存する生きとし生けるモノの一員とする仏教的考え)から離れ、本来の自然を変更し、人間から見る自然(ネイチャー・西洋的考え)に歪ませた。

 

 人類の食生活も、その基本は本能にあります。この本能は意思によって欲情となり、食欲として現出し暴威を振るうのです。

  欲望は精神的現象で、食欲は食の本能そのものでなく、本能を助けるために発生したものですが、人類のように大脳皮質の発達した動物においては、欲情の勢力は絶対性を持ち、本能を従属するようになり、どうかすれば、欲情生活は大自然の掟(おきて)に悖(もと)ることとなって、生命現象を危険の淵に導く。
 

 禅宗では精進料理、密教では自然(じねん)への感謝の料理を通しての生活。

 

 食生活の享楽(きょうらく)

  私たちの人生は享楽を伴っています。
 享楽とは人生を楽しむことですが、動物界にあっても独り人類にのみ見出されるものであって、人生の基礎、生命を保証する食生活においても享楽は、その大部を占めているように考えられる欲情である。
 

 人類の食物の定義は、栄養物質の全てを包含していて、その栄養を保証するものであるばかりでなく、必ずその享楽面を満足させてくれるものでなければならないものとされている。

 

「こんなものなど食えるか」とはここから出る言葉である。

 

 このようにわれわれの食べものは、一般動物のように簡単なものでなく、必ず諸種の食品を材料として作られ、且つこれらを享楽し得る工夫された調理がされなくてはいけない。

 

 一般の動物には食品なるものはない。

 

人類の生活には食品なるものを考えなくてはならない。

 

 食物と生命体の関係

 

 植物は、自己の生活に必要な有機物質を無機物から合成するばかりでなく、同時に動物の栄養を保証する物質を作ってくれる。

  これは生物として動植物共に生体を構成する基本物質は同じである、と聞く。
 

そこで動物には右記のような無機質から有機質を合成する能力を与えられていないが、前述の原理によって動物は植物体から、その基本物質を消化によって作り出し、植物さえあれば動物の生活は可能だそうです。

 

享楽:快楽を味う。

  ここで、動物生育のために本来の方法は植物食であるといえるのです。しかし、動物の中にはこの植物体を動物体を媒介として摂取する、いわゆる動物食の動物がある。この両者を兼ねそえた混食、あるいは雑食動物も存在する。
 

 その食物の種類によって、植物食をする動物、動物食をする動物があり、前者を菜食動物、果食動物、後者を肉食動物といい、両者併せる持つものを雑食あるいは混食動物という。

  モノの本によると動物は、その食物の種類によってその肉体とその精神上に相当の影響を与えられるものだそうです。
 

 植物食をする動物は、消化器系は発達充実し、頭部に比し腹部が腹部発達(消化器を納める)して大きくなっているので三角形の形をしている。これは、植物食の消化には、その組織をなす細胞を包むセルローズの膜は直接消化することが出来ないので、咀嚼(しょしゃく)によって細胞を損傷させるか、さらにそれを溶解させるため細菌の援助を必要とするため、反芻(はんすう)し、盲腸などあり、さらに小腸などがある。

  しかし、食物は移動することのない植物であるからそれを食する動物の姿は餌をさがすための気骨の折れることがないので、緑草を食べる獣類の姿は至極平和で楽しく見られる。性質も気長で且つ温厚である。
 

 それに反し動物食を食する動物の行動は精悍(せいかん)そのものである。

体型は

 逆三角形で、頭胸部に比し腹部は狹くへっこみ、頭が入るところには抜け通
 

反芻: 牛などが、一度のみこんだ食物を胃から再び口中に戻してかむこと。

 

咀嚼: 食物をかみ砕くこと。

 このことが出来るといわれています。動物食は消化が良好であるためで、咀嚼することもなく丸呑みしても何ら問題なく短時間で消化されるそうです。
 

 しかし、動物食を食べる動物はその食物の動物を捕獲するのに相当の努力ばかりか常に流血を伴い獰猛(どうもう)である。混食動物は、この両者の特徴を併せ備えたものといえましょう。われわれ人間はこれに属するもので、消化器管も両者の中間にあることは、食生活上または食物について特に注意すべき点です。

 

 人類の肉食と動物食の違い

 

 動物の動物食を例にとって見ると、肉食獣といっても、その食物は肉だけを食べるのでない。猫がネズミを捕って食するのを見てわかるように、先ず腹部を食い破り、内臓を喰う、血をすすり、そのあとで肉を更に骨までかじるのであるという。これを肉食獣と呼ぶのは、全く的外れの呼び稱で、犬が肉食獣であるからと牛肉ばかり与えていたところ、何時までも大きく成長しないばかりか、脚腰も立たぬ哀れな子犬として死なせたという話があるそうです。

 

即ち肉には子犬を健全に育てるために必要な全てが包含されていないからです。

  肉好きな人間さんも肉だけには充分な栄養が包含されていないことを知ることです。
  又、植物性食品として穀類、豆類、芋類、果樹類、それらは皆植物体の栄養素として特殊な部分をなすもので、食品はどの食品をとっても単独で栄養的に欠落し、普遍的でないのであります。
 

 従って私たち人間の食物は栄養的に享楽的に料理に工夫が必要となる、これを再認識する事が非常に大切なことであります。

 

 美食と粗食

 

 人類の歴史で私たちの先人が残された文化を通して知り得ることは美術・建築・工芸・陶芸・食品、各文化において現在の技術を以ってしても先人に劣りはしないだろうか。

 足利時代に、わが日本料理道が非常に発達した。鳥では雉(きじ)、魚では鯉(こい)などを料理の絶品と言われ、野菜類では粗物(そぶつ)と唱えられたことが書物に残されているようです。戦後に美食といわれるのは、ぎんめし、といわれましたが今日でも玄米より白米が美味しいことには変わりがありません。
 

 ぎんめしの白米飯に、美味な肉類を食する食事。口当たりがよく、大変美味しいが、栄養学的に見ますと酸性食品である上に大変栄養的に欠落しているのであります。

  これに反して、粗物といわれる野菜を主とする食物はには、肉類にあるような優秀なたんぱく質こそ含まれていないかもしれないが、ある程度のたんぱく質もあり、前に述べた美食に不足している無機質や、ビタミンを豊富に含有しています。食物として優秀さがございます。動物食で、内臓を食べ、骨を噛(かじる)と同様な価値があるのであります。
 

 食物の献立はこのような点からも嗜好の面からも難しい問題があります。

  広大無辺な大宇宙で五大要素が唯一私たちの地球だけが神より供与され、人間だけが本能以外に神より工夫の智慧を供与されていることを認知し、平和なシンボルを中心としての私たち人類の食品一切が生きとしいけるモノであります。私たちは殺生なしに食する事が出来ません。天地に許し難い行為をさけ平和な感謝の生活を実践しよう。
 

法を食べる僧

2012-10-09 15:06:24 | 高野山
 
 

「法を食べる僧」

 

東寺の食堂

 

「食」人を良くする堂

 

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東寺 食堂(じきどう)

 
北大門を入ると、すぐ「食堂」がある。食堂と書いてジキドウと読み、本来は僧侶が集まって一緒に食事をとったところという説がある。しかしその真意は定かでない。
 

東寺の僧侶は、このように食堂を解釈する。

 

僧の食事ってものは、仏法を食べることなんやね。ご飯を食べることとは違うんですよ。あそこに、鍋や釜がありますか。食事をするというと、すぐ、ごはんを食べると想像するけど、僧の食事は仏法なんですよ。千手観音像の前で僧たちが一緒に食事をとるなんて、僕には想像つかんことやけど、ね。僧たちがね、仏さんの前で食べるんじゃろうか。仏像祀っとる前で、仏さんの前で僧がすることは、読経する事でしょう。千手観音を本尊として聖僧文殊を主尊として、それが僧の身を養い、命を保つことなんや。この、身を養い、命を保つという解釈が、食事にたとえられてると違うのかな。

 

命を養い、身を保つものを食(ジキ)というわけでしょう。その食に触れることによって、命を養い、身を保っているんですよ。ごはんだって食べることなんか人間人間できないですよ。口ちん中入れて、体の中をすぎているだけでね。触れてただけでね。それを我がものにできますか。その食のご縁によって命を養い、身を保っているわけやから。僕は、そうとしか、よう解釈せんけどね。

 

食堂は1930年(昭和5年)に火災にあい、現在の建物は焼け残った木材を利用して再建されたものである。その火災で、「千手観音像」は大破し、3メートルを越える日本最大の「四天王像」4体は焼けごげてしまった。千手観音像、四天王像、聖僧文殊像は、ともに800年代に作られたものといわれ、千手観音像は修復され宝物館に安置されている。炭化が激しい四天王像4体は、長いこと金堂の片隅に人々の目に触れることなく、ひっそりとたたずんでいた。

 

しかし、創建1200年を迎える節目にと、1994年(平成6年)から特殊な樹脂により固める作業が続けられている。

 

聖僧文殊像は、食堂が焼失する以前に移されていたため焼失を免れ、現在はやはり宝物館に安置されている。この聖僧文殊像は「3人よれば文殊の知恵」といわれるように知恵の仏として有名であり、一般に菩薩の形をしているが老僧の姿をしているため聖僧文殊像といわれている。

 

そもそも大乗仏教の寺の食堂には、主尊として聖僧文殊像が安置されている場合が多いといわれる。「東寺文庫」弘法さんの玉手箱より

 

仏教では、私たちの食事を神聖な儀式としてとらえ、又仏さまへの食事のお供えを毎朝先ず、はじめの大切な行事です。私のような修行僧にとって、1年365日の毎朝のお供えは最も大切であり、一切の幸せを祝福、祈願する行事であります。「食」とは人を良くすると解釈できる考え,僧侶にとって食堂は「仏法を食する堂」であると学びたい。

 


空海密教の宇宙観 その1

2012-10-09 14:46:16 | 日記
 

 空海密教の宇宙観 

 

 先ほど述べました唯物的宇宙観から利己的個人主義の世界観となるのです。それに対して世界は一つの精神の顕れとする唯心的宇宙観より、物質は心の影にして肉体は罪悪結晶と考える人生観が生まれ、わが国では生長の家(尊師谷口正春)などがあります。その原点はインドに於ける小乗仏教思想や中国の道教であり、人間精神の最高総合体としての国家精神を重視するあまり、個人は国家構成の一細胞に過ぎず、個人の幸福を無視する全体主義的独裁思想を生み出す危険性があります。 

 

 実際には物を離れた単なる心はなく、その逆に心を離れた物ものない。本来物と心は不二であり「身心一如」という言葉があるように分かちようのない一つの生命体です。 

 

「心は即ち是れ法なり、法は即ち是れ心なり。更に何(いづれ)の処にか住せん。心を離れて別に法有りといわば、即ち執を生ず。 

 

   一切経開題(弘法大師全集) 

 

 心はそのまま現象世界である。現象は心を離れて有るものではない。 

 

心の外に現象世界が有ると思うのは、とらわれである。 

 

しかも宇宙は無限にして永遠なる生命体であり、宇宙の森羅万象悉くこの生命の内容の顕現であるとの宇宙観により、個々の個性ある生命を充実し発揮して生きるところに人生の生きがいがあり、それがまたそのまま全体への貢献となると説くところに全個一体なる全体主義・一即多の人生観が成立するのです。 

 

 空海密教は正にこの生命主義・一体主義の宇宙観に立つものであります。 

 

仏教宇宙観の体系を示す書物の一つに古代、インド五世紀の仏僧ヴァスバンドゥの「倶舎論(くしゃろん)」がある。この中の「世品(せほん)」という一章にいわゆる須弥山(しゅみせん)説が述べられている。ここではこの宇宙観は創造の宇宙観であるが、空海密教の宇宙観は今日は勿論、将来に至っても変わることがない。 

 

 中国の古典に「往古来今謂ニ 宙一四方上下謂ニ 之宇一」という言葉があります。この意味は無限の時間と無限の空間内の世界をいう。正に空海密教の宇宙観の原点ではないだろうか。真砂のような無数の天体その一天体の地球には人間や動物、山川草木砂土を含む、この壮大な天体の世界を宇宙というのであります。 

 

 この壮大無辺で無限の宇宙を私たち人間は正しく観察しているだろうか。野良仕事中に人間の足に這い登る小さな蟻がはたして人間の足と感じているだろうか。多分、傾斜のきつい坂を上っているとでも思っているでしょう。 

 

 人間も計り知れない、この大宇宙を感じ取っている以上に細菌のような、独りのちっぽけな人間では知りようのない、永遠、無限な世界でしょう。 

 

 現在の人間社会の醜い殺伐とした世相を宇宙から観て、はたして宇宙生命に真に叶った行動だろうか。 

 

 こんな諺がある「井戸の中の蛙」とか、巨象の話がある。一匹の象がいる。ある 

 

者は尻尾を握って「これは牛」だと言い、ある者は胴体を触って「これはサイだ」と言い、ある者は口を見て「これはカバ」だと言う。実際に言い伝えられている話は「牛」でも「カバ」でも「サイ」でもないかもしれないが、それはどうでもいい。ここで問題なのは、ある部分をだけを見て全体を把握していないという点である。この話は部分的にしか見ず、全体を見誤っているという教訓話としてよく用いられる。しかし、はたしてそうなのだろうか?そんなに単純だろうか? 

 

確かに、部分だけを見ていては全体を見渡すことは出来ない。しかし、私には全員が間違っていると同時に合っているように思える。つまり、象の尻尾は牛のようで、象の肌理はサイのようで、象の口がカバのようであるのなら、誰も間違っていないではないか。それはそれで、象を言い当てているのではないのだろうか。もちろん、鼻を見れば象だとわかるかもしれない。しかし、鼻が象のすべてではない。太い足も、ざらざらした皮膚も間違いなく象なのだ。 

 

こんなことはどうでもいいといいたい所ですが、国会の自衛隊派遣の与野党の論争など宇宙生命の真理に叶ったものであろうか極めて疑わしい。

 

空海密教の宇宙観の象徴には曼荼羅があり、宇宙を身体(法身)とする五輪塔があります。形は下から、正方、円、三角、半月、宝珠で色は地(黄色)、水(白)、火(赤)、風(黒)、空(青)です。 

 

又、空海の詩に 

 

 五大皆有響 十界具言語 

 

  六塵悉文字 法身是実相 

 

 五大(地、水、火、風、空)、みな響あり。十界言語を具す。 

 

 六塵(色、声、香、味、触、法)はことごとく文字。法身は是れ実相。 

 

      「声字実相義」 

 

 空海は、この世界(宇宙)は物質的なもの(地・水・火・風・空)、と精神的なもの(識)より成ってるとする。 

 

 本文の意味は「世界は言葉でいっぱいだ。その言葉は大日如来から出てくる」という意味です。 

 

 宇宙は五大「(地(大地)・水・(太陽、地熱)・風(空気)・空(虚空)」の要素が育み、私たちの地球にのみ五大要素が備わり、それ故に、一切の生物(山川草木・動物・人間)が育まれているのです。壮大無限の宇宙に育む地球の環境は地球上のどの地点をとっても同じところがない。(象の話)したがってその環境に叶った異なる種の生物が存在している。人間しかり、黒人あり、黄色人種あり、白人あり、そこには環境にかなった生活がある。当然、宗教も自ずから異なる。 

 

 私たち両親を同じにする兄弟でも性格が異なり、それぞれ異なる個性を持っている、時間と共に、変わってゆく。 

 

人間だけではない植物を観察しても時間と共に変わってゆく。これ等は正に生きているのでなく、生かされている証です。しかも時間と共に変化することは、その生物の個性を認め、環境に逆らわず、ソクラテツ(紀元前四六三九九)の産婆術と言う言葉があります 

 

空海密教の宇宙観 その2

2012-10-09 14:42:49 | 日記

 

が、私なりの解釈をしたい。 

  一昔前までお母さんが赤ちゃんをお産するときは、、産婆さんにお世話になりました。赤ちゃんの健康を祈念する行事をし、本来無事に分娩する自然力が宿っている故に、出産時、産婆さんが手を沿え(専門技術)て無事健康な赤ちゃんが誕生することを手助けする。 

  この宇宙の大自然界でもこの産婆術が必要と考える一人です。 

  空海密教の宇宙観の根本は地球にのみ育む一切の生物、しかも、どの地点を取りましても全く異なった生物が育まれ生かされていることをお互いに認め合うことを大日如来の法身が説法されていると観るのが空海密教の宇宙観です。 

  私たち人間は産婆さんの如く、それどれ環境が異なり、個性が異なる生物、ましてや人類は自然環境、生活習慣、思想、宗教が異なるという、素晴らし自然界の摂理を認め合い、相互に助け合い、それぞれの環境に備わった幸せを築き上げねばならない。 

  ここで素晴らしい歌詞を紹介したい。 

 

 『世界で一つだけの花』 

  作詞:槇原 敬之 作曲:槇原 敬之 

   歌:SMAP 

 ♪花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた♪ 

 ♪ひとそれぞれ好みはあるけど どれもみんなきれいだね♪ 

 ♪この中で誰が一番だなんて 争うこともしないで♪ 

 ♪バケツの中誇らしげに しゃんと胸を張っている♪ 

 ♪それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?♪ 

 ♪一人一人違うのにその中で 一番になりたがる?♪ 

 ♪そうさ僕らは 世界に一つだけの花♪ 

 ♪一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに♪ 

 ♪一生懸命になればいい♪ 

 ♪困ったように笑いながら ずっと迷ってる人がいる♪ 

 ♪頑張って咲いた花はどれも きれいだから仕方ないね♪ 

 ♪やっと店から出てきた その人が抱えていた♪ 

 ♪色とりどりの花束と うれしそうな横顔♪ 

 ♪名前も知らなかったけれど あの日僕に笑顔をくれた♪ 

 ♪誰も気づかないような場所で 咲いてた花のように♪ 

 ♪名前も知らなかったけれど あの日僕に笑顔をくれた♪ 

 ♪誰も気づかないような場所で 咲いてた花のように♪ 

 ♪一生懸命になればいい♪ 

 ♪小さい花や大きな花 一つとして同じものはないから♪ 

 No. にならなくてもいい もともと特別なOnly one  

 

ナンバーワンになんかならなくても、個々人が独自性を発揮して個性的で有れば、それだけでいいじゃないか。 

 いや、そんな風に積極的に、個性的である必要性さえもない。 

 存在していること、そのこと自体がオンリーワンであって、素晴らしいことなのだ。 

 この世の中は、ナンバーワンになることや、それを目指すことは、素晴らしいことだとされて来ました。 

 そのように、教育されて来たからなのか、いや、恐らくは、教育される遥か以前から、ナンバーワンになるということは、素直に、そして単純に、素晴らしいことなのでしょう。 

 ただ、それよりも、もっとすばらしいことが存在する。 

 それがオンリーワンなのだ、と、SMAPも『世界で一つだけの花』で伝えているのです。 

   宇宙で一つだけの花 

  空海密教の曼荼羅に画かれた仏に優劣がありません。それどれ異なった役目を持ったオンリーワンの仏群なのです。 

  当寺の御本尊・千手観世音菩薩は一切の生かされた生物、特に私たち人類は一人一人優れた個性と能力を持っていることの象徴です。それはあたかも木の幹から無数の枝が派生して入るが如く、私たちもまた絶対無限ある宇宙生命・大日生命の幹から流れ出た一本の枝の如く、どれ一つとして同じものがありません。 

 それぞれの枝葉は個性を持っています。私たち一人一人の生命が一つにして、無限の個性と能力を持ち合わせています。私たち人類一人一人の生命が大日すなわち宇宙生命の根源に帰するのです。一即多であります。
この世界の一切の生物はオンリーワンなのです。

 

 私たち人類一人一人も異なった環境と異なった生活習慣の中に咲く、全く素晴らしい「世界で一つの花」・オンリーワンの花なのです。 

 宇宙大生命・大日如来はあたかも穀物を蔵めた倉庫の如く、無数の生命の種を内に収めている法蔵界なのです。 


 私たちに生きる素晴らしい勇気が与えられる歌詞です


江戸のスカイツリー

2012-06-21 18:56:31 | 高野山
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  庶民文化が開花した江戸時代後期に登場し、「江戸に国芳あり」と称えられた天才浮世絵師 歌川国芳(※1うたがわくによし)の「東都三ツ股の図」が話題を表します。

  国芳こそ、飢饉(ききん)や地震など閉塞(へいそく)した時代を、反骨精神と奇抜なアイデアで縦横無尽に駆け抜け江戸の庶民に勇気と笑いを与えた浮世絵師といわれます。

  絵の中、煙がたなびく隅田川ののどかな風景に目を落とすと川向こうに、評判の「東京スカイツリー」を思わせる建造物を見ることが出来ます。二十一世紀の日本とどこか奇妙に符号する時代背景をもち、まるで未来のスカイツリー建設を予見していたようにも映ります。

  この絵に描かれた奇想とも思われるツリーの真相は井戸を掘削する施設「井戸掘り櫓」が最有力祝されるようです。

   一方、現代のツリーは昭和を代表する東京タワーにかわっての電波塔です。

  この塔は、日本の寺院建築のうち五重の塔の構造を参考に建設されたといわれます。

  お大師さまは 『性霊集』巻九「東寺の塔を造り奉る材木を曳き運ぶ勧進の表」において、塔は仏さまのすべての功徳が乗るところ、福徳は無尽であると建立の功徳について述べられております。

  また、『畔字義(うんじぎ)』 で「三種世間(※2さんじゅせけん))はみなこれ仏体なり」とし、全てのものに仏さまのみ教えが備わっていることを教えてくだきっております。

  天高く奪えたつ平成の電波塔「東京スカイツリー」が多くの仏智福徳を導くシンボルとなることを強く願っております。

   「東京スカイツリー特集」本号四・五面掲載

   ※1 歌川国芳(一七九七~一八六一)画想の豊かさ、斬新なデザインカ、奇想天外なアイデア、確かなデッサンカを持ち、浮世絵の枠にとどまらない広汎な魅力を持つ作品を多数生み出した絵師

   ※2 三種世間

  有情世間(人間のすんでいる社会)、器世間(人間の住む環境社会)、智正覚世間(仏の住んでおられる安楽国土) のこと

本多碩峯 参与 77001-0042288-000 


生かせ いのち  お大師さまの お師匠さま

2012-06-11 20:33:00 | 高野山
 

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お大師さまの お師匠さま

  天野 高雄

  高野山は平成二十七年に開創千二百年記念法会を行います。お大師さまが唐から法を持ち帰られ、高野山をお開きになってから千二百年になります。

  毎日、南無大師遍照金剛と拝ませていただき、今何を伝えなくてはいけないかということをよく考えます。あまりに偉大で当たり前になりすぎたお大師さまのご遺徳を、どのようにお話しすればよいかと思い、今一度、開創ということを考えてみました。お山を開かれたときの情熱、またどのような決意を持って中国へ渡られ、最大のお師匠さまである恵果和尚(けいかかしょう)に出会われ戻ってこられた部分を、もう一度若い僧侶の立場で見つめなおしたいと思い、いろいろな資料に目を通させていただきました。

  恵果和尚は中国の方で、当時真言宗の法を持っておられた最大の僧でした。お大師さまは、この法が今の日本には必要だからぜひ現地へ行って学びたいという指針を立てられ、遣唐使船に乗り込みます。遣唐使船での航海は本当に命がけでしたが、お大師さまは決意を秘めて、苦労のもと赤岸鎮に着きました。そして二千四百キロ歩いて西安に到着します。

  会えるかどうかわからない恵果和尚のもとを訪ね門を叩くと、和尚は一目でお大師さまのすばらしさを見抜かれて灌頂の壇へ案内します。それから誠心誠意を尽くされて何カ月もかかってすべての大法を授けました。そして、早く帰って東の国へこの法を広めるよう伝えると、精根尽き果てて永眠されました。

 一番弟子となったお大師さまは残ってすべてのことをやっていかなければなりません。いろいろな悩みを持ちながら、恵果和尚が亡くなられた夜に瞑想にふけります。そしてこのとき、うかつにもうとうとしてしまいました。その夢枕に恵果和尚が現れます。「あなたと私は永遠に繋がれた鎖を持ってここまで来ました。何度も出会い、離れてはまた出会いを繰り返し、今最高の出会いがあるのです。この別れをそんなに悲しまなくてもよろしい。私は今あなたの師匠です。しかし、今度は私が東の国に先に戻って、生まれ変わってあなたの弟子となります」と言って姿を消しました。

  そのときお大師さまは心を決めて最後の船に乗ります。その後しばらくして遣唐使の廃止が決まりますから、その船に乗っていなければ今の我々の貴いみ教えはなかったのです。

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  そして気付かなければならないのは、師匠が弟子に向かって「あなたの弟子になる」と言うことです。これは親子においても、教師と生徒においても言えることではないかと思います。生んでやった、してやったという次元ではありません。

 今日の前にいる子や孫は自分の父母だったかもしれない、師匠だったかもしれない、そう思って誠心誠意子どもたちを尊敬して接したならば、教育の状態も少し良くなるのではないでしょうか。学校の先生たちが、この子の生徒、この子の子になるという気持ちで思いを注がれたら、きっと良くなると思うのです。

 ▽筆者は岡山県倉敷市 高蔵寺の住職です。

本多碩峯 参与 77001-0042288-000  

 




いのり ― 生かせいのち ―

2012-06-11 17:22:36 | 高野山 座主
 

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いのりー生かせいのち

 

高野山真言宗管長

 総本山金剛峯寺座主 松長有慶

 三、現世の御利益(その2

  知識人はややもすれば、現世利益の信仰を軽蔑したり、椰揄したりしがちです。知識人といわれる方々は、どちらかといえば合理的なものしか認めようとしません。

  福島の原発事故以来、パワー・スポットという言葉は放射能の残存値の高い地域を指すようになりました。でもそれまでは、何かご利益のありそうな気配のする土地という意味を持った流行語でした。

  このパワー・スポットブームは、大勢の人びとが集まるから、自分も後れじとそこに出かけて癒されたいという虫のよい願望でもあります。自分は努力せずに、他からパワーだけを頂戴して、ご利益を得たいというパワー・スポット現象は、心が貧しくなるプワー・スポットだと椰揄する漫画(久米田康治『さよなら絶望先生』)も現れました。

  確かに流行のパワー・スポットブームは神仏に対する真剣な祈りというよりも、あまり努力をせずに濡れ手に粟をつかむように、自分だけ幸福になりたいと願う現代の若者の遊びの一種ともいえましょう。

  お大師さまにある時、地方のある高官から、自分の治める国が栄え、人々が幸せに暮らせるようにお祈りしていただきたいという依頼があったようです。それに対してお大師さまがどのように返事されたか、その内容を知ることができます(『定本弘法大師全集』第七巻 二四八-二五一頁)。

  それを要約すれば「よろしい。お引きうけしましょう。だが頼みっぱなしでは駄目ですよ。来月の二日から八日までの一週間、私は息災の法を修します。その間あなたは勿論あなたの治める国の役人もみんな精進潔斎して、国内の殺生を一切禁止して諸仏に対して一心に祈ってください。あなたの祈りの心と私の祈りが一つになった時に初めてあなたの願いが叶えられるでしょう。そうでなければ、いたずらにお金を使ってご祈祷しても、なんら御利益を得られませんよ。」と書かれてあります。

  その他にもお大師さまが同じような考えを述べられ文章や手紙がいくつか残されています。

  祈りというものは、いくらお金を積んでも、お坊さんに頼みっぱなしにして、ご本人は知らぬ顔をしていては駄目で、自分が身を引きしめ、行動を正し、ともに神仏に祈らねば効果はないと、お大師さまが考えておられたとみていいでしょう。

  現世利益のお祈りであっても、祈る人が自分の行動を慎み、必死になって祈り続けるその真摯な心が、やがて大宇宙のエネルギーを動かし、神さまや仏さまの心に届いて、願った結果を招来することは当然のことです。

  何がしかのお賽銭を投げ入れて、形式的に手を合わせたり、拍手を打っただけで、あれもこれもと願い事をするのは、たしかに厚かまし過ぎます。このような祈りは知識人から軽蔑されても、当然のことと言っていいでしょう。

   本多碩峯 参与 77001-0042288-000  

 




宗祖ご誕生の日   青葉萌ゆる高野山へ

2012-06-01 18:33:43 | 高野山

 


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宗祖ご誕生の日

 

  青葉萌ゆる高野山へ

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善通寺境内の大楠(写真提供:総本山善通寺)

お大師さまは、宝亀五(七七四)年六月十五日、讃岐国多度都善通寺(現在の善通寺市) において、佐伯善通卿と玉依御前の間にお生まれになりました。

 幼名を真魚(まお)とし神童と呼ばれていた幼少のお大師さまの御誕生には様々な伝承神話が存在いたします。

 お大師さま御自身のお言葉の中に「私がちょうど五、六歳でまだ両親のもとにいた時分。美しい蓮華の上に座って、諸々の仏さまたちと言葉を交わす夢をみた。しかし、そのことは父母に全く語ることがなかったし、ましてや他人に語ることはなかった。」とあり、父母は「私たちのこの子は御仏の御弟子だったに相違ない。なぜならば夢の中で遠い天竺国(インド) から立派な聖人が来られ、私たちの懐に入られたのを見たのです。貴方は、たしかに御仏の申し子です。ですから大きくなったら立派な聖人となって御仏の御恩にお報いしなければなりません」と話されたとあります。

 また、幼少のお大師さまは、いつも泥土で仏像を作り屋敷の近くに木片を集めては小さなお堂を造って、その中に仏像を安置し礼拝供養の真似事をして遊ばれたともあります。

 父である佐伯氏の御殿跡に建立される善通寺境内には、御誕生の頃から繁茂していたと伝えられる高さ約三〇メートル、幹周り約十一メートル、視界をおおうほどに茂った「くすの木」が堂々たる倖まいをみせております。

 お大師さまは自らを仮名乞児(かめいこつじ)という仏道求道者に扮し、儒教・道教・仏教思想を対比して仏教の優位性を論じ、仏門に入ることを述べた ※1『三教指帰(さんごうしき)』巻下の六道輪廻を論ずる段において、「木へんに豫樟日(よしょうひ)を蔽(かく)す」と郷里の「くすの木」について、太陽の光を遮るほどに繁る木と表現されております。

 樹齢千三百年を超えるといわれ往古から変わらぬ倖まいは、お大師さまの幼い日からの歳月を彷彿とさせます。

 お大師さま御誕生の日、高野山では→宗祖誕生会・青葉まつり」が一山をあげて盛大に行われます。

 青葉萌ゆる高野山へのご参詣を心よりお待ち申し上げます。

1 「三教指帰」…お大師さまが二十四歳の時(延暦十六年) に四六併催体の漢文で著作完成された三巻(上・中・下) にわたる「出家の宣言書」。

 ※2 「木へんに豫樟」…木へんに豫も樟も共に「くすの木」のこと

 本多碩峯 参与 77001-0042288-000