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藤原道長の高野山参拝

2011-08-05 13:51:19 | 高野山
 

Koyasan_sinpo

文学に見える高野山千二百年点描
藤原道長の高野山参拝

高野山高等学校教諭 山本 七重

 平安時代に書かれた藤原道長(996~1027)を主人公とした歴史物語に『栄華物語(えいがものがたり)』があり、その中に道長の高野山参拝の話が描かれています。

 道長といえば、摂関政治の代表的な人物として日本史の教科書にも必ず、登場し、栄耀栄華を詠んだ。

 この世をばわが世と思う望月の欠けたることもなしと思えばという歌は有名です。

 この「この世をば・・・・・・・」の歌が詠まれたのは、道長五十三歳のことで、政治家として頂点を極め、この世の中で思い通りにならないことが何もない絶対的な権力者としての姿をこの歌は表現しています。

 され、この有名な和歌を詠んだ四年後の治安三年(1023)に道長は高野山に参拝し、奥之院で法要等を行いました。                                           
 『栄華物語』には、この参詣の様子について、道長が奥之院について、道長が奥之院において弘法大師のご入定の様子を覗き見ると、「髪は青々として、衣は色鮮やかであり、ご入定から百八十年も立っているというのに、まるで眠っておられるようだ」(意訳)と、描かれています。
 この記述から、既にこの『栄華物語』が書かれた頃には弘法大師に対する入定信仰が広まっていたことが理解されます。
 なお、当時の高野山参拝は大変困難を伴う旅であり、多くの随行とともに京都を出発、奈良を経て、麓の政所(まんどころ)(現在の慈尊院の一部)からは、道長も徒歩で高野山まで登りました。高野山への参詣については、どのような高い身分の人であっても、登りに関しては必ず徒歩でなければならなかったようで(帰りは輿(こし)に乗っても良い)、上皇や法皇でも輿にはのらず時間を掛けて歩いたことが古書にのこされています。
 なぜ高野山へ登山が徒歩でなければならなかったかといえば、それは高野山に登るのは修行であるという意識と、減罪の意味が含まれており、苦行により罪が清められて清浄になると考えられていたからです。この思想を端的にあらわしたものが「一度参詣高野山、無始の罪障道中滅(ざいしょうどうちゅうめつ)」という言葉で、仏の浄土である高野山に徒歩で一度でも参詣すれば、どのような罪も生滅し救われるという信仰です。
 昔は、如何なる身分の人であっても必ず徒歩で高野山に参詣したという事実を尊いと思うとともに、高野山や弘法大師に対する信仰がいかに深いものであったかを感じさせられます。
 なお余談ながら、ここに取り上げませんでしたが」、この『栄華物語』には道長が弘法大師や聖徳太子の生まれ変わりだった、などといった奇想天外なエピソードも描かれています。
                                                    合掌

Fujihara__michinaga
                       参与770001-4228(本多碩峯

高野山高等学校教諭 山本 七重

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