いのり-生かせのち-
高野山真言宗管長
総本山金剛峯寺座主
松長 有慶
「思いどおりにならない(その2)
私たちが「祈る」という時には、色々の場合があるようです。生命の危機に出会った時に祈るのは、助けてくださいという悲鳴に近い祈りでしょう。それに似ているけれども、それほどの切迫感がないのが、神社や仏さまの前で手を合わせ、家族の平安や商売の繁盛、あるいは志望校の合格などを祈願するといった現実生活上の祈りです。このような祈りが人間にとって最も一般的で、タイプとしては一番多いものと思われます。
こうした日常的な生活の営みを「さらによくあれかし」と祈ることは、現世利益といって本当の信仰にとっては邪道だという見解もまま見受けられますが、それはかなり極端な考え方で、この点については後で詳しく検討します。
神さまや仏さまの前で、自分勝手な願いを述べたてて祈るのはいかにもさもしい。神仏に対する祈りは、現状の生活の安定に対しての感謝でなければならない、という意見もあります。
宗教評論家のひろ・さちやさんは、現世利益を求める祈りを、請求書の祈り、一方、感謝の祈りは、領収書の祈りと名づけておられると聞きましたが、それぞれの祈りの性格を分かりやすく説くという点では納得がいきます。といっても私たちにとっては、どちらがいいかという価値を比べるのではなく、各人の信仰によって選択すべき問題だと思います。
神仏の前で、現世利益を祈り、あるいは感謝の祈りを捧げるだけではなく、祈りを通じて、自分の心の平安を求める姿勢がより大切だといえます。
心の安らぎを求めるのは、お坊さんや神主さん、神父さんといった宗教の
専門家だけではなく、一般の信徒にとっても大切な問題です。
在家信者の場合は本を読んで理解するだけではなく、それぞれの宗教の専門家の的確な指導が欠かせません。
仏教の場合、僧職にあるお坊さんの心の安らぎを専門の言葉では、涅槃(ねはん)とか解脱(げだつ)、分かりやすい言葉で言えば、悟りといえるでしょう。あまり一般的ではありませんが、仏教の専門的な言葉で、心の安らぎを「安心(あんじん)」といいます。宗教の別、宗教の違いによって、それに至る方法はさまざまです。
そのほかに、神仏の前で何かの誓いを立てて祈り、その約束を果たすべく努力を重ねる誓願(せいがん)の祈りもあります。
さらに自分がなにかの功徳を積んで、その功徳を苦しんでいる人や悩んでいる人には差し上げる祈りもあります。それは仏教では廻向(えこう)といいます。また亡き人をしのんで、その生前の功徳をたたえ、偲ぶ追悼の祈りは一般によく行われます。
普通、私たちが「祈り」という言葉で表す行動は、ざっと教えてもこのくらいあります。それぞれ性格が違いますので、それぞれについて次から詳しく説明することにします。
合掌
本多碩峯 参与 770001-42288
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