果物料理と果物食品加工

ビタミン・ミネラルに果物の仄かな香りに目覚める フルーツソムリエ

バレイシアオレンジ麹とその金山寺味噌

2009-08-26 14:07:43 | 果物加工食品
バレイシアオレンジジュースの残渣を利用した麹菌の金山寺味噌:
くだもの麹に取組んで、本格的な仄かな香りと甘い金山寺味噌に挑戦しています。
 前回は真夏の麹菌を使った金山寺味噌が期待通り完成しました。
この度は、甘夏よりも香りよく酸味の少ないバレイシアオレンジの麹菌で造りました。
本日の写真は 仕込後10日目の金山寺味噌の写真です。
美味しい金山寺味噌の仕込み期間は約2か月です。

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果物麹で仄かなミカンの香りの「金山寺味噌」

2009-08-19 19:31:39 | 果物加工食品

 

此れまで、数々の柑橘の麹に取組んで来ましたが、ノウハウを習得し、一ヶ月前に甘夏で麹を造り、金山寺味噌を造ってみました。
 中々、どうして、仄かなミカンの香の良い金山寺味噌が出来ました。

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丹波焼の師匠に造って頂いた「柿蜜いり丹波焼茶器」に贅沢にもお茶碗として「甘夏麹いり金山寺味噌」を白米ご飯にタップリ盛ってミカンの仄かな香りの金山寺味噌で美味しく頂きました。

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これを機会に開発品を発表いたします。
ご期待を乞う!

クリスチャンで牧師の協同組合の生みの親賀川豊彦に思う。

2009-08-16 21:37:31 | 農産物販売
終戦時、昭和21年、軍人で農業試験場長であった亡父がマッカーサーよって公職追放になった。その場所が三重県南牟婁郡御浜町(旧神志山村)時代で、大変な苦労が始まるも、当時の大西村長をはじめ、地域の皆様に大変お世話になり、今日でも、当時の思い出は楽しく、良い思い出ばかり、感謝一杯です。厳格で厳しい父が、敬虔なクリスチャンで牧師が提唱し、実践してている農民と消費者の幸せを結ぶ組合活動をしている「賀川豊彦」の活動に信奉する。彼の友人である日本社会党の創設者で敬虔なクリスチャンで弁護士の片山哲首相(紀州田辺出身)賀川豊彦牧師の友愛精神の実践、昭和22年11月19日 農業協同組合法が交付された。
 父たちは、全国の柑橘技術者農園者達と全国的な「日本果実連合会」各府県に設立、農業協同組合の設立の基盤となる。


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 果物の柿から精製した甘ーい「柿蜜」です。
 

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本邦初開発品ん(応用品の数は未知数)
 いかなる応用商品が生まれるでしょうかね!

 先般見学して来ました。熊野倶楽部、秋津のガルテンが果して農民と消費者を結ぶ状況が「賀川豊彦」の友愛精神による幸せの事業体であろうか?
 考えさせられる事がある。
 最近00業務スーパーと云う企業体と地域農業法人がどこに違いがあるのか?
 業務スーパーは企業経営を第一に、それ故、地域の農産物をその地域の消費者に販売しているだろうか? NOです。チエーン店の大手の業務スーパーは大量に安く仕入れをモットーに販売する為、地域に関係なく他府県からでも農産物を仕入れる。
 只、農産物は賞味期限が短いので、地域から仕入れる農産物があっても決して、地域の農民の幸せを考えてでありません。

 農業者の農業法人の販売店は確かに地域の農産物だけを販売している点は良いのですが、地域の農産物の生産量を地域だけで販売できない。地域内での販売数量は非常に少ない事に問題があります。

 そこで、地域の農産物を地域以外に地域の農業法人が如何にして販売するかを工夫する事が非常に大切であります。

 小生は此処に注視し、ビタミン、ミネラル等々七大栄養素に心がけ、
果物の加工食品を数々開発して来ました。
 今までも、ジュースやジャム等々、先輩達が開発して来ました。が、
人類始まって以来の食糧危機がやって来ると云われる今日、副食に新しい調味料等を多くの同志によって開発される事を念願する次第です。

農業者の苦労を理解し、消費者に立場に立って新しい果物加工食品を開発しませんか?

 ご興味ある方は是非ご相談ください!

今日、新たに農民と消費者の豊かな環境で食料自給率高めるチャンスがやって来ました!






待望の秋津野ガルテンへ行く in TANABE (その四)

2009-08-13 21:24:03 | 農産物販売

 

 

 

秋津野ガルテンの経営理念に人を含む大自然に学ぼう!                     施設の建物は小学校として使われたいたる所に温かい面影があり、この校舎を約12億円の善意の資金で田辺市から購入し、和歌山大学の先生方による善意の実践行動(築デザインを含む)、施設の庭樹は近くのの山から移植した樹木、役員を含む職員方や、ボランティアで清掃に励む方々から、忘れていた温かいモノを学ぶ。
紀州てまりの体験学習!
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草木染めの学習体験と織物!

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待望の秋津野ガルテンへ行く in TANABE (その三)

2009-08-12 18:51:21 | 農産物販売

発地秋津野ガルテンに帰って来ました。

 

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この日はテレビ大阪の撮影クルーと、秋津のガルテンを設計された和歌山大学の本多教授が米国の提携大学の学生を大勢案内してお見えでした。

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米国の学生も満足されて昼食を楽しくされていました。
 

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8_052_2 秋津野ガルテン創設の功労者 原 和男さん

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公務員て年退職後、ボランティアの功労者 山際芳男さん、今回のご案内を頂きました。

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校舎の面影がありますね。

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創設の功労者元和歌山大学橋本教授の文庫。
 
 
 
 
 

待望の秋津野ガルテンへ行く in TANABE (その二)

2009-08-12 11:34:29 | 農産物販売

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8_018れた仏像は「三尊磨崖仏」と云われ田辺出身の時の首相片山 哲交のった有名な画伯堂本印象が画かれた下絵を元に刻まれたという。 此処の岩盤に刻まれた仏像は「三尊磨崖仏」と云われ田辺出身の時の首相片山 哲氏と親交のあった有名な画伯堂本印象が画かれた下絵を元に刻まれたという。

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小生の私見ですが、この地、田辺の歴史は勿論ですが、仏教の伝来で、発祥の地はインドから隋の国に入り朝鮮半島の百済の国を通って我が国に入り百済寺が建立されるが、唐の時代は現在の北朝鮮を経由して我が国に入っています。
 隋から百済(韓国)に入った時に百済の人々の願いを込めた「三尊磨崖仏」が岩盤に刻まれ、現在も残っているそうです。

 今津川の「奇絶峡」に高野山の仏教が龍神を経由して仏教伝来を祈念して「三尊磨崖仏」が刻まれたと推測する。
次が案内を頂いた原 和男さん達が地域お越しの一環に農産物販売所、ジュース工場、喫茶コーナーが設けられ、一見小さな直売所ですが、年間売り上げが1億5千万円だそうです。
 新鮮な野菜が本当に安いです。早速、金山寺味噌用白瓜を5kg他を購入しました。

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 併設された素晴らしい環境の「いこら」喫茶です。

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前が渓流がせせらぎの音と共に流れる川

 

 

 
 

 何故、此処に「三尊磨崖仏」が刻まれたか、本当の事は分かっていない。

待望の秋津野ガルテンへ行く in TANABE (その一)

2009-08-11 20:19:20 | 農産物販売

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秋津野ガルテン運営会社は
農業法人株式会社秋津野
〒646-0001 和歌山県田辺市上秋津4558-8
TEL 0739-35-1199 FAX0739-35-1192

運営関連団体社団法人上秋津愛郷会
関連農産品直売所株式会社『きてら』

秋津野ガルテンの企画母体は約10年前に設立された『きてら』の地域お越しの立場で最初から関わって来ました「原 和男」氏の功績が絶大である。

 原和男氏の尊父と小生の亡父との親交が御座いました。
小生が40年間趣味で取組んで来ました果物料理&果物加工食品を10年前に事業化を始めた時からのお付合いを頂いております。

 ところが、一度も訪問の機会がなく、この度、原和男さんのご招待で勉強の為訪れる事が出来ました。

 企業理念、携わった皆さんの温かい心、ご繁栄ぶりを拝見、感動と感謝でいっぱいでした。
 応接でご挨拶後、山際さんの運転で原和男さんと共に「奇絶峡」へ向かいました。
つづく


小中学校時代を過ごす熊野市へ行く (その五)

2009-08-10 22:31:16 | インポート
事務長の叫びに何か異様さを感じながら自転車の後を追って我が家へ!
母が迎へ、事務長が話しかける!
「本多所長が進駐軍に捕えられ、津市へ行きました。」
気の弱い母が泣きそうな顔で、事務長に聞き入っていた。
「何故?」
「何時帰りますか?」 と精一杯の言葉だった。
父は陸軍の軍人で柑橘技術者であった。
戦時の末期は食糧難で父の役目は食糧増産であって、柑橘の試験場であったが、田圃(たんぼ)で稲作もしていた。
 在郷軍人会会長や、当時、満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所と云って、現在の中国東北部一帯に拡がる未墾の沃野に青少年を送出し、将来大規模経営の農業者を育成し豊かな農村を築きあげ、日満一体、民族協和の実をあげることにあった。
 ここの臨時教官をも兼務してしていた事が軍人公職追放になった。
父は三が日程で進駐軍のジープで帰って来ました。
最初と違ってジープに近寄る人もなく、送り届けて帰って行きました。
 家庭の一室に家族が集められ、
「お父さんが試験場をやめる事になった。今日から仕事が無くなったが子供達の協力も頂きお父さんは頑張る!・・・。」
 ある日突然の変化! 父は何時も子供達に言った。
「戦争でお父さんを亡くした家庭の事を考えなさい!我が家は本当に幸せなんだと。」
 
 大西村長さんの計らいで、官舎をそのまま使用させて頂き、野菜や花の種、たばこ販売などの商店を開設するにも官舎を増改築の許しをも頂き、大西村長さんへ感謝の言葉を口にしていた。
 村のお盆にお寺で盆踊りがあれば、自分は小学校六年生頃、自転車に「たばこ」を乗せて「たばこ」売りに出かけ、予定の量を売り尽くし、楽しく、両親に褒められた。
 それが縁で、田植え時期になりますと、お百姓さんを目当てに日曜日などに自転車で売って回った。
 ・・・・・が?
 ある時、学校から帰ると、見た事のないおじさんと母が話している様子が・・・・・。
よく聞いていると、専売公社の方が、許可なく、子供が移動販売の違反をしたと・・。
後日、父が呼び出されたが、 父から「移動販売は違反だから止めましょう!でも、タバコ屋を続けられるから安心しなさいね」と励ます父。
当時、お借りした畑でサツマイモ栽培したり、シジミ貝を採ったり、売れるものは何でもお金にする家族労働、今考えれば、家族全員楽しく何の苦しみも感じず楽しさ一杯。
 
父は賀川豊彦牧師(灘生協・日本生活協同組合生みの親)の思想に信奉し、賀川豊彦の著書「死線を越えて」を購入し子供達に読み聞かせてくれたり、
クリスチャンで長崎医大の永井隆教授の原爆病で病みながら「この子を残して」と云う著書なども購入して読んだりしました。
 
父は生き生き・・・・・と、賀川豊彦牧師は戦後焼け野原となった灘でキリスト教会を建て、無料で食料を炊きだしていました。
日本も復興の兆しに、賀川豊彦氏が農民から新鮮な農産物を購入し消費者の立場になって販売して非常に喜ばれていました。
 牧師の友人が時の首相片山哲で首相は紀州田辺出身で東京大学卒で敬虔なクリスチャン。
賀川豊彦が消費者の立場になって販売しているシステムを全国的に展開する事が素晴らしいと理解し、片山哲首相に申し入れた。
「農民の苦労を理解し、消費者の立場で販売するシステム協同組合法」の制定を懇願され、片山哲が賛同して法制化に取組んだニュースを早く知り、父等も全国の友人の先輩同僚などと連絡を取り、「果物の組合を作るべく準備に入った。それが全国的に組織化された果実連合会である。」
 父は早速、三重県南牟婁郡果実連合会の会長として活躍をしていました。
 
そんなある日、和歌山県JAの前身和歌山県果実連合会の役員メンバーの数人が三重県の我が家に来宅、「是非、郷里の和歌山で働いて頂きたいと要請され、戦後の苦労を脱し新天地で働く決意を快く受託する。」
子供心に経済的に進学できなくても、専門学校で電気を学ぶ事が出来ると子供心に内心喜んだ。
 それが、三重県の熊野を離れ、郷里和歌山へ来た理由であった。
 不思議に片山哲のご縁で、小生自身、片山哲が日本の農業と、中小企業の育成、その時中小企業庁を創設し、初代長官に友人で当時京都大学経済学部教授蜷川虎三氏にお願いし受託して頂く、喜びの御礼に片山哲の家宝を贈った。
 後に蜷川虎三氏が戦後の京都復興で仏教伝統文化が無くなろうとする状況で、伝統文化を守ろうとする人々に懇願され、京都府知事として共産党員で無くも、伝統文化を守る組織が共産党であった。                  
                        三重県の熊野市訪問の思い出の記を終えます。