果物料理と果物食品加工

ビタミン・ミネラルに果物の仄かな香りに目覚める フルーツソムリエ

江戸のスカイツリー

2012-06-21 18:56:31 | 高野山
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  庶民文化が開花した江戸時代後期に登場し、「江戸に国芳あり」と称えられた天才浮世絵師 歌川国芳(※1うたがわくによし)の「東都三ツ股の図」が話題を表します。

  国芳こそ、飢饉(ききん)や地震など閉塞(へいそく)した時代を、反骨精神と奇抜なアイデアで縦横無尽に駆け抜け江戸の庶民に勇気と笑いを与えた浮世絵師といわれます。

  絵の中、煙がたなびく隅田川ののどかな風景に目を落とすと川向こうに、評判の「東京スカイツリー」を思わせる建造物を見ることが出来ます。二十一世紀の日本とどこか奇妙に符号する時代背景をもち、まるで未来のスカイツリー建設を予見していたようにも映ります。

  この絵に描かれた奇想とも思われるツリーの真相は井戸を掘削する施設「井戸掘り櫓」が最有力祝されるようです。

   一方、現代のツリーは昭和を代表する東京タワーにかわっての電波塔です。

  この塔は、日本の寺院建築のうち五重の塔の構造を参考に建設されたといわれます。

  お大師さまは 『性霊集』巻九「東寺の塔を造り奉る材木を曳き運ぶ勧進の表」において、塔は仏さまのすべての功徳が乗るところ、福徳は無尽であると建立の功徳について述べられております。

  また、『畔字義(うんじぎ)』 で「三種世間(※2さんじゅせけん))はみなこれ仏体なり」とし、全てのものに仏さまのみ教えが備わっていることを教えてくだきっております。

  天高く奪えたつ平成の電波塔「東京スカイツリー」が多くの仏智福徳を導くシンボルとなることを強く願っております。

   「東京スカイツリー特集」本号四・五面掲載

   ※1 歌川国芳(一七九七~一八六一)画想の豊かさ、斬新なデザインカ、奇想天外なアイデア、確かなデッサンカを持ち、浮世絵の枠にとどまらない広汎な魅力を持つ作品を多数生み出した絵師

   ※2 三種世間

  有情世間(人間のすんでいる社会)、器世間(人間の住む環境社会)、智正覚世間(仏の住んでおられる安楽国土) のこと

本多碩峯 参与 77001-0042288-000 


生かせ いのち  お大師さまの お師匠さま

2012-06-11 20:33:00 | 高野山
 

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お大師さまの お師匠さま

  天野 高雄

  高野山は平成二十七年に開創千二百年記念法会を行います。お大師さまが唐から法を持ち帰られ、高野山をお開きになってから千二百年になります。

  毎日、南無大師遍照金剛と拝ませていただき、今何を伝えなくてはいけないかということをよく考えます。あまりに偉大で当たり前になりすぎたお大師さまのご遺徳を、どのようにお話しすればよいかと思い、今一度、開創ということを考えてみました。お山を開かれたときの情熱、またどのような決意を持って中国へ渡られ、最大のお師匠さまである恵果和尚(けいかかしょう)に出会われ戻ってこられた部分を、もう一度若い僧侶の立場で見つめなおしたいと思い、いろいろな資料に目を通させていただきました。

  恵果和尚は中国の方で、当時真言宗の法を持っておられた最大の僧でした。お大師さまは、この法が今の日本には必要だからぜひ現地へ行って学びたいという指針を立てられ、遣唐使船に乗り込みます。遣唐使船での航海は本当に命がけでしたが、お大師さまは決意を秘めて、苦労のもと赤岸鎮に着きました。そして二千四百キロ歩いて西安に到着します。

  会えるかどうかわからない恵果和尚のもとを訪ね門を叩くと、和尚は一目でお大師さまのすばらしさを見抜かれて灌頂の壇へ案内します。それから誠心誠意を尽くされて何カ月もかかってすべての大法を授けました。そして、早く帰って東の国へこの法を広めるよう伝えると、精根尽き果てて永眠されました。

 一番弟子となったお大師さまは残ってすべてのことをやっていかなければなりません。いろいろな悩みを持ちながら、恵果和尚が亡くなられた夜に瞑想にふけります。そしてこのとき、うかつにもうとうとしてしまいました。その夢枕に恵果和尚が現れます。「あなたと私は永遠に繋がれた鎖を持ってここまで来ました。何度も出会い、離れてはまた出会いを繰り返し、今最高の出会いがあるのです。この別れをそんなに悲しまなくてもよろしい。私は今あなたの師匠です。しかし、今度は私が東の国に先に戻って、生まれ変わってあなたの弟子となります」と言って姿を消しました。

  そのときお大師さまは心を決めて最後の船に乗ります。その後しばらくして遣唐使の廃止が決まりますから、その船に乗っていなければ今の我々の貴いみ教えはなかったのです。

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  そして気付かなければならないのは、師匠が弟子に向かって「あなたの弟子になる」と言うことです。これは親子においても、教師と生徒においても言えることではないかと思います。生んでやった、してやったという次元ではありません。

 今日の前にいる子や孫は自分の父母だったかもしれない、師匠だったかもしれない、そう思って誠心誠意子どもたちを尊敬して接したならば、教育の状態も少し良くなるのではないでしょうか。学校の先生たちが、この子の生徒、この子の子になるという気持ちで思いを注がれたら、きっと良くなると思うのです。

 ▽筆者は岡山県倉敷市 高蔵寺の住職です。

本多碩峯 参与 77001-0042288-000  

 




いのり ― 生かせいのち ―

2012-06-11 17:22:36 | 高野山 座主
 

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いのりー生かせいのち

 

高野山真言宗管長

 総本山金剛峯寺座主 松長有慶

 三、現世の御利益(その2

  知識人はややもすれば、現世利益の信仰を軽蔑したり、椰揄したりしがちです。知識人といわれる方々は、どちらかといえば合理的なものしか認めようとしません。

  福島の原発事故以来、パワー・スポットという言葉は放射能の残存値の高い地域を指すようになりました。でもそれまでは、何かご利益のありそうな気配のする土地という意味を持った流行語でした。

  このパワー・スポットブームは、大勢の人びとが集まるから、自分も後れじとそこに出かけて癒されたいという虫のよい願望でもあります。自分は努力せずに、他からパワーだけを頂戴して、ご利益を得たいというパワー・スポット現象は、心が貧しくなるプワー・スポットだと椰揄する漫画(久米田康治『さよなら絶望先生』)も現れました。

  確かに流行のパワー・スポットブームは神仏に対する真剣な祈りというよりも、あまり努力をせずに濡れ手に粟をつかむように、自分だけ幸福になりたいと願う現代の若者の遊びの一種ともいえましょう。

  お大師さまにある時、地方のある高官から、自分の治める国が栄え、人々が幸せに暮らせるようにお祈りしていただきたいという依頼があったようです。それに対してお大師さまがどのように返事されたか、その内容を知ることができます(『定本弘法大師全集』第七巻 二四八-二五一頁)。

  それを要約すれば「よろしい。お引きうけしましょう。だが頼みっぱなしでは駄目ですよ。来月の二日から八日までの一週間、私は息災の法を修します。その間あなたは勿論あなたの治める国の役人もみんな精進潔斎して、国内の殺生を一切禁止して諸仏に対して一心に祈ってください。あなたの祈りの心と私の祈りが一つになった時に初めてあなたの願いが叶えられるでしょう。そうでなければ、いたずらにお金を使ってご祈祷しても、なんら御利益を得られませんよ。」と書かれてあります。

  その他にもお大師さまが同じような考えを述べられ文章や手紙がいくつか残されています。

  祈りというものは、いくらお金を積んでも、お坊さんに頼みっぱなしにして、ご本人は知らぬ顔をしていては駄目で、自分が身を引きしめ、行動を正し、ともに神仏に祈らねば効果はないと、お大師さまが考えておられたとみていいでしょう。

  現世利益のお祈りであっても、祈る人が自分の行動を慎み、必死になって祈り続けるその真摯な心が、やがて大宇宙のエネルギーを動かし、神さまや仏さまの心に届いて、願った結果を招来することは当然のことです。

  何がしかのお賽銭を投げ入れて、形式的に手を合わせたり、拍手を打っただけで、あれもこれもと願い事をするのは、たしかに厚かまし過ぎます。このような祈りは知識人から軽蔑されても、当然のことと言っていいでしょう。

   本多碩峯 参与 77001-0042288-000  

 




宗祖ご誕生の日   青葉萌ゆる高野山へ

2012-06-01 18:33:43 | 高野山

 


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宗祖ご誕生の日

 

  青葉萌ゆる高野山へ

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善通寺境内の大楠(写真提供:総本山善通寺)

お大師さまは、宝亀五(七七四)年六月十五日、讃岐国多度都善通寺(現在の善通寺市) において、佐伯善通卿と玉依御前の間にお生まれになりました。

 幼名を真魚(まお)とし神童と呼ばれていた幼少のお大師さまの御誕生には様々な伝承神話が存在いたします。

 お大師さま御自身のお言葉の中に「私がちょうど五、六歳でまだ両親のもとにいた時分。美しい蓮華の上に座って、諸々の仏さまたちと言葉を交わす夢をみた。しかし、そのことは父母に全く語ることがなかったし、ましてや他人に語ることはなかった。」とあり、父母は「私たちのこの子は御仏の御弟子だったに相違ない。なぜならば夢の中で遠い天竺国(インド) から立派な聖人が来られ、私たちの懐に入られたのを見たのです。貴方は、たしかに御仏の申し子です。ですから大きくなったら立派な聖人となって御仏の御恩にお報いしなければなりません」と話されたとあります。

 また、幼少のお大師さまは、いつも泥土で仏像を作り屋敷の近くに木片を集めては小さなお堂を造って、その中に仏像を安置し礼拝供養の真似事をして遊ばれたともあります。

 父である佐伯氏の御殿跡に建立される善通寺境内には、御誕生の頃から繁茂していたと伝えられる高さ約三〇メートル、幹周り約十一メートル、視界をおおうほどに茂った「くすの木」が堂々たる倖まいをみせております。

 お大師さまは自らを仮名乞児(かめいこつじ)という仏道求道者に扮し、儒教・道教・仏教思想を対比して仏教の優位性を論じ、仏門に入ることを述べた ※1『三教指帰(さんごうしき)』巻下の六道輪廻を論ずる段において、「木へんに豫樟日(よしょうひ)を蔽(かく)す」と郷里の「くすの木」について、太陽の光を遮るほどに繁る木と表現されております。

 樹齢千三百年を超えるといわれ往古から変わらぬ倖まいは、お大師さまの幼い日からの歳月を彷彿とさせます。

 お大師さま御誕生の日、高野山では→宗祖誕生会・青葉まつり」が一山をあげて盛大に行われます。

 青葉萌ゆる高野山へのご参詣を心よりお待ち申し上げます。

1 「三教指帰」…お大師さまが二十四歳の時(延暦十六年) に四六併催体の漢文で著作完成された三巻(上・中・下) にわたる「出家の宣言書」。

 ※2 「木へんに豫樟」…木へんに豫も樟も共に「くすの木」のこと

 本多碩峯 参与 77001-0042288-000