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給食共同調理場

2012-01-23 23:53:11 | 秋田のいろいろ
昨日の学校給食の話に関連して。
昨日、秋田市立の小中学校(旧雄和町・河辺町エリアは除く)では、給食センター方式ではなく、各学校に給食室があって調理していると書いた。
ただし、山王中学校には給食調理設備がなく、川尻小学校で調理された給食を輸送しているとも書いた。

川尻と山王の関係について、僕はこのように認識(推察)していた。
山王中学校の(先代の)校舎は、1967(昭和42)年に竣工しているが、給食室はなかった。当時は小学校の完全給食がやっと達成された頃であり、中学校で完全給食を出すことはあまり重要視されていなかったのだろう。
その後、中学校での給食も必要となったが、山王中学校では種々の制約があって給食室を整備することができなかった。そこで、近隣の学校で山王中の分の給食も調理してもらい、輸送して出すことにした。
山王中学校の隣接地には、旭北(きょくほく)小学校がある。しかし、当時は山王中と同年代の古い校舎であり(1966年のモルタル建築。その後1992年頃に改築)、給食室に余裕がなかったと思われる。
そんな折、旭北小の1つ隣の学区である川尻小学校の新校舎(=現在の校舎。中学校からは直線で1キロ)が1982年に完成。その際、給食室を余裕のある設備にして、山王中分も調理できるようにしたのだろう。(山王中側でも、搬入・保管や校内の運搬に関連した設備が整備されたと考えられる)
※川尻小学校の新校舎は1982年春の竣工、山王中学校で給食が始まったのは同年10月5日となっている。
その後、2004年に山王中学校の校舎が改築されたので、てっきり、自前の給食室が整備され、川尻小からの輸送は解消されたのだとばかり思い込んでいた…
2005年2月撮影の解体中の山王中学校旧校舎。奥に現校舎が見えている
ところが、川尻から山王への運搬は今なお続いており、そればかりか他の秋田市内の学校でも同様の態勢が取られていることが分かった。
それを「共同調理場」と呼ぶのだそう。
学校給食法第六条で「二以上の義務教育諸学校の学校給食の実施に必要な施設(以下「共同調理場」という。)を設けることができる。」と定められているのが根拠。
この「共同調理場」には、学校とは別の場所に給食を作る専用施設を設ける「給食センター」と、山王と川尻のようにある学校の給食を他校で肩代わりして一括して作るケースの2つがあるようで、後者だけを指して特に(狭義に)「共同調理場」と呼ぶこともあるようだ。
自分の学校の分だけを自前で作るものは「単独校調理場」と呼ぶようだ。(同法施行令に出ている)

昭和58(1983)年に制定された「秋田市立学校給食共同調理場設置条例」と「秋田市立学校給食共同調理場等管理運営規則」という条例があった。(全国各地に同内容の条例がある)
「秋田市立小、中学校における学校給食の効率的運営を図るため」に「秋田市立学校給食共同調理場」を設置するのだという。
物資調達、調理、輸送を業務とし、各調理場ごとに関係学校長や職員のうち教育委員会から委嘱されたメンバーによる「運営委員会」が置かれることになっている。

公式な用語ではないようだが、全国的に、川尻小のような共同調理場が置かれて給食を作る「作ってあげる立場」の学校を「調理校」、山王中のような調理校から給食が届けられる「作ってもらう立場」の学校を「受配校」と呼んでいるらしい。
また、調理校と受配校を親子に見立て、狭義の共同調理場方式のことを「親子方式」と呼ぶこともあるようだ。

ちなみに、関連して「秋田市立学校給食センター条例」もあるが、これは雄和町・河辺町の合併に先立ち、両町の給食センターを秋田市立とするためのもの。
自治体によっては、正式名称が「給食共同調理場」で、その通称を「給食センター」としている所もあるようだが、秋田市では親子方式の共同調理場(どこかの学校内に置かれる)と給食センター(学校とは独立した施設)を明確に区別していることになる。

秋田市には現在は9つの共同調理場があり、うち2つが3校分、残り7つが2校分をまとめて調理する。
それぞれに名称があるが、「秋田市立川尻小学校、山王中学校共同調理場」というように学校名をそのまんま並べただけ。
ただし、最初に校名が出る学校に調理場が置かれている(つまり調理校)という決まりがあるようだ。
また、3校分の調理場のうち、太平小学校にあるものは「秋田市立太平小学校、山谷小学校、太平中学校共同調理場」と列挙しているが、下新城小学校のは「秋田市立下新城小学校等共同調理場」と受配校が省略されてしまっている。これは、当初は4校が関与していた(後に1校が統合により閉校)ためだと思う。

共同調理場から各受配校への運搬と返却はトラックで行われ、「学校給食用食缶類運搬業務」として民間の運送業者へ年度単位で委託している。(今は知らないが、昔の川尻~山王は日本通運が受託していた)なお、パン・米飯・牛乳は、各製造業者が受配校へも直接納入する。


条例に出ている順番に、9つの共同調理場に関わる学校名を挙げてみる。(各[ ]の先頭が調理校)
[外旭川小、外旭川中][太平小、山谷小、太平中][下北手小、下北手中][将軍野中、土崎中][川尻小、山王中][城東中、桜中][御所野小、御所野学院中][勝平小、勝平中][下新城小、金足西小、秋田北中]

雄和・河辺地区を除く秋田市内の小学校38校のうち9校(23.7%)、中学校21校のうち11校(52.4%)、合計すると33.9%の学校が共同調理場に関わっていて、受配校である2つの小学校と9つの中学校には給食室(調理室)がないことになる。
※このほかに、現在、東小学校の改修工事のため同校の給食室が使えず、一時的に広面小学校で調理したものを運搬しているらしい。
【3月5日訂正】旧秋田市内の秋田市立の中学校の数は21校ではなく、20校が正当でした。訂正します。(パーセンテージは修正していません)


「共同調理場」というちゃんとした制度があって、広範囲で実施されていたとは知らなかった。
各学校でそれぞれ調理するよりは、数校をまとめて調理した方が、運搬の手間はかかるとはいえ、効率的ではあるだろう。
だからといって本格的な給食センターにすると、用地や建設・運営の費用、運搬が長距離・長時間になる、万一食中毒が発生すれば被害が拡大するなど、問題点もありそう。給食センターと単独校調理の折衷が共同調理場ということなのだろう。
【26日追記】給食センターは、建築基準法上「工場」とみなされ、立地場所に制限を受けるそうだ。


昔の秋田市広報紙「広報あきた」で、秋田市の給食調理に対する方針をうかがい知ることができた。
・1966年9月10日付
小学校の完全給食化を伝えるとともに、中学校では17校中6校だけが完全給食を実施しているとして、「市教委では、中学校も将来完全給食に切り換えるため、共同給食センターなどの調査を進めています。 」としている。
・1973年4月1日付
1973年度の予算で「よりよい学校給食をさらに進めるに当たり、将来給食センター設置の必要性を考え、調査費を計上しています。」
・1977年10月20日付
市議会の質疑の紹介において、中学校の完全見通しを質問され、完全給食は14校中4校(11年前より減ってる!=統廃合などのためか?)であり、未実施の10校は「給食センター方式の採用によって対処する構想を持っています。」としている。
(一方で、当時は児童生徒数の急増などによる学校建設が急務となっていて、これとの兼ね合いも必要としている)
・1978年4月20日付
市議会の議員の質問に「(児童生徒急増で)学校建築が急務となり、給食センターの実現はなお相当の日時を要する状況です。」「このため、中学校の完全給食は小学校と同様、新設される中学校について、単独校調理場方式をとりいれることにしています。既設の中学校については、給食センター方式とともに、単独校調理方式の採用の可能性もあわせて、その促進を図っていきます。 」

徐々に秋田市側の給食センターへの意欲が薄れて行ったように感じる。(特に1977年度後半に)
その後の考え方は分からないが、結果的には給食センターはあきらめて、原則各校で調理し、部分的に共同調理場方式となって現在に至る。
センター建設より学校建設を急いだのは当然だし、各学校で調理した温かいものを食べられ、子どもたちが調理の匂いを楽しんだり調理員と交流することも教育上大事だと思うから、悪いことではないと思う。
ただし、児童生徒数の減少や業務効率化の一環としては、今後は何らかの変化が求められているのかもしれない。


さて、秋田市の共同調理場方式をとっている各学校について調べてみると、その導入時期や推察される導入理由は3つのパターンに分けられそうだ。
1.元祖共同調理
川尻小と山王中のような、条例が制定された1983年辺りまでさかのぼるもの。
給食室が設置できない中学校で完全給食を実施するために、給食センターを造る代わりに近隣の学校で調理することにしたパターンだと思われる。
該当しそうな学校名の後に、校舎の新築または改築年を入れてみる。(下北手中学校は不明)
[外旭川小1980、外旭川中1950と1983][下北手小1981、下北手中][将軍野中1982、土崎中1961と1992][川尻小1982、山王中1967と2004]
調理場が設けられた学校は、どこも当時新築されたばかりの校舎だったようだ。一方、受配校となった山王中や土崎中は、当時で築後20年ほど経過している。
ただし、外旭川中は新築なのに受配校になったようだし、土崎中や山王中は後に校舎が新しくなっても受配校のまま。設備や人員配置の都合もあるのだろうが、共同調理の関係は簡単には変わらないようだ。

下北手小・中は別として、それ以外は都市部にある学校で、特に当時は児童生徒数の増加が著しかったはずだから、調理する給食は2000食近かったかもしれない。現在は下北手で200強、他は1000以下だと思われる。

2.新設校
条例制定後に開校した学校のうち、中学校では積極的に共同調理(受配校として)を導入しているようだ。
小学校は桜、飯島南、寺内、御所野の各小学校が開校しているが、いずれも単独校調理(御所野小は開校当初のみ。下記の通り、後に共同調理の調理校となる)。
中学校は、御野場、勝平、飯島、桜、御所野学院のうち、単独校調理は御野場と飯島だけ。あとは共同調理で作ってもらっている。
1987年開校の勝平中は勝平小、1999年開校の御所野学院中(中高一貫校だが、地元入学の中学校部分)は御所野小と、どちらも近くの小学校で作ってもらっている。なお、勝平小学校は、共同調理開始当時は1970年築の校舎だったが、2002年の改築後も共同調理場が設けられているようだ。
桜中学校は、1998年に当時県内一の大規模校だった城東中学校から独立して開校。給食は“本家”の城東中に作ってもらっている。
3つの共同調理場とも、現在も1000食程度は調理しているようだ。

3.合理化のため
上記2つも合理化の意味もあったのだろうが、3~4年前には明らかに合理化・効率化と思われる、郊外・山間部の小規模校において、共同調理場の新設(と単独校調理場の廃止)があった。それが残り2つ。
太平小で山谷(やまや)小と太平中の3校分を調理するのは、2008年度から始まったようだ。それ以前には、少なくとも山谷小学校には調理場があったようだ。
山間部に位置するこの3校は、児童生徒数がとても少ないと思われる(最近の資料によれば、太平小56名、山谷小27名)ので、各校に調理員を置いて調理するのは非効率的との判断なのだろう。

2009年には下新城小に調理場を置き、金足(かなあし)西小、金足東小、秋田北中分も調理することになった。(その後、2010年3月で金足東小は閉校して下新城小へ統合)
それ以前は、少なくとも金足西小では自前の給食調理施設があった。
また、秋田北中学校は(おそらく城南中学校とともに)1994年に秋田市で最後に完全給食が始まった学校。校舎は1962年頃に建てられたものが2009年に改築されている。
北中の給食は1994年から2009年までどこで作っていたかは分からないが、現在の新校舎には調理施設がないのだろう。
この3校の児童生徒数を見ると、下新城小が約140名、金足西小が約180名、秋田北中が約300名。調理校の下新城小がいちばん少ない。人数の少ない学校から多い学校へ輸送するのは、効率が悪いようにも思えるが、用地とか既存設備との兼ね合いなどの問題もあるのだろう。

一方で、例えば児童数が100名ほどの浜田小学校や50名ほどの豊岩小学校、生徒数30名ほどの豊岩中学校などでは、今も単独校調理。(しかも豊岩小と豊岩中は隣接しているから、共同調理場としてもよさそうだが、条例には出ていない【25日追記】下浜小と下浜中も同様に隣接地にある小規模校だが、共同ではないようだ)→25日のコメントをご参照ください→こちらの記事の通り、条例に出ていなくても、共同調理が行われている学校もあることが分かりました。
このままなのか、将来的には共同化されるのだろうか。【下の追記の通り、2018年以降、既存の共同調理場に、新たに小規模校分を加える動きも出てきた】

【2018年1月31日追記】2018年4月から、新たに上北手小学校分を東小学校で調理することになった。
上北手小は、新興住宅地があることから今の秋田では珍しく児童が増えている小学校だそうだが、2017年度の児童数は203名と多くはない。合理化のため調理室・調理員を引き上げるのだろう。【←という単純な話でもなさそう。下の4月の追記参照】
一方、昭和の新興住宅地にある東小は、1977年開校時の787名から増加して1983年には1353名に達し、1984年に桜小を分離した後は600名台で漸減し、2017年度は486名まで減少。現在では調理設備に余力が生じていると考えられる。
上北手小からの距離的には、複数の中学校や桜小、牛島小のほうが近いが、東小で作ることになったのはそんな事情だろう。
【2018年4月11日追記】上北手小は、児童数の増加が著しく(最小だった1998年に83人だったのが、2018年は232人、2021年には300人を超える見込み)、教室が足りなくなっているそうだ。そこで、2018年度に給食室を解体し、跡にプレハブ校舎(2019年度から使用予定)を建てることになった。調理の合理化の意味もあるのだろうが、こういう事情もあるのだった。この記事参照。
【2018年11月16日追記】2019年4月から、新たに浜田小学校分を勝平小学校で調理することになった。勝平小・勝平中・浜田小3校の共同調理場となり、雄物川を越え、日新小学区を越えて輸送されることになる。

※給食センター方式をとる雄和・河辺地域では、合併以前のそれぞれの町立給食センターが秋田市立になってそれぞれ調理を行っていた。ところが2017年3月で、河辺学校給食センターを廃止、雄和学校給食センターに一本化された。この記事参照



共同調理場の存在は、学校給食の現場でも、業務の効率化が進んでいることを示しているのかもしれない。
いいことか悪いことか僕には判断はできないが、下手をすれば、調理業務自体も民間へ外部委託なんてことになったりしかねない。
子どもたちが楽しく安全に、思い出に残る食事ができるようにしてほしい。

コメント (4)    この記事についてブログを書く
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4 コメント

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効率的 (mugi-shochu)
2012-01-24 20:07:20
共同調理場、なるほど、各校の規模や地域的な条件によっては効率的な場合も多いでしょうね。
様々な状況を考えて上手に使い分けて欲しいと思います。
給食は小学校時代だけだったのですが、実はあまり良い思い出はありません。
偏食が激しかったので、担任に「全部食べ終わるまで帰っちゃダメ」などと居残りさせられたりして・・・(笑)
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給食の思い出 (taic02)
2012-01-24 21:17:39
山王中のように校舎が代わっても関係が変わらず、より近い学校(旭北小)があるのに遠くから(川尻小)運び続けているようなケースもあって、若干改善の余地がありそうな気もしますが、難しいのでしょう。

僕も小学校入学当初は、食べるのが遅くて昼休みまでかかって食べさせられたこともありましたよ。
いつの間にか普通に食べられるようになったし、さんまあられ、卯の花、ホキ天などを食べられるようになったのは、給食のおかげです。
だけど、アベックトーストが出て、200mlの牛乳では流し込めず、目を白黒させて食べたのがトラウマで、アベックトーストが嫌いになりました。(と何度も書いてますが…)
返信する
地元なので (Unknown)
2012-01-25 20:51:26
下浜小学校は共同調理場です。下浜小学校には給食室があり、そこで調理をしています。中学校は給食室がなく下浜小学校で調理したものをリヤカーで中学校に届けに来るおばさんがおり、配膳室という保管場所で受け取っていました。

こんなページを見つけました。これによると今現在も下浜中学校は受配校、小学校は調理校となっているようです。
学校給食用食缶類運搬業務委託仕様書http://www.city.akita.akita.jp/city/ed/sw/2011itaku/syokkann/siyousyo/siyousyo8.pdf#search='下浜小学校給食'
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ほかにもある? (taic02)
2012-01-25 22:58:20
条例で定められた以外にも、共同調理場的な仕組みがあるということですか。
昔はリヤカーだったとのことですが、今は衛生面の問題などで近くてもコンテナで運搬しているのでしょう。
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