Sketch of the Day

This is Takeshi Kinoshita's weblog.

Macdonald's

2005-06-06 | Japan

Sunday, June 5, 2005
ゆっくり起き出して、午前中は我が家の片づけ。いい天気だ。窓を開け放って昼食。午後、週に一度の買い物にスーパーマーケットへ。その足で散髪へ。僕が散髪している間、息子は静かに絵本を読んでいたのだが、たまたまもらった飴玉を喉に詰まらてしまった。苦しそうにしている息子をみて、すかさずヘアサロンのマスターが息子を逆さまに抱きかかえて背中をたたいてくれたが、結局飲み込んでしまったようである。息子はびっくりして大泣きしたが、水を一杯もらってようやく落ち着いた。待ちくたびれた息子は、飴玉をなめながら椅子のうえをゴロゴロしているうちに飲み込んでしまったようである。夜、今年初めての蚊取り線香を焚く。

Saturday, June 4, 2005
午前中、博士課程学生との打合せ。昼から、園芸学部百周年記念事業の常任理事会にオブザーバーとして出席。終了後、研究室に寄って、ちょっとした仕事をかたづけてから帰宅。夕方、激しい雷雨。

羊が人間を喰(くら)う

2005-06-04 | Japan
かつてトマス・モアは、エンクロージャー(囲い込み)を称してそう言った(『ユートピア』)。彼がこう呼んだ、いわゆる第1次エンクロージャーは、15世紀半ばから16世紀にかけて行われている。マニュファクチュアが発達し、羊毛価格の高騰がみられた時期である。少数の地主や領主が牧羊や集約的な農業を行うため土地を囲い込み、そこから閉め出された多くの小作人達は浮浪者として路頭に迷うことになった。その後、17世紀半ばから19世紀半ばにかけて、農業経営合理化と農地個人主義の確立のために再びエンクロージャー(第2次)が今度は議会承認の下に実施された。再び土地を追われた農民達は今度は、工場賃労働者として都市に流入し産業革命を支えた、と一般には説明されるが、この見解は必ずしも正しくないようである。
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C140C100.HTM

しかしいずれにせよ、富を得たのは、一部の地主階級と農業資本家達であった。英国の、あの田園風景はひとまずはこのような「歴史」によって規定されている。

戦後の日本(というか占領軍)は「民主化政策」の一環として、ほぼこれと逆のことをやった。すなわち、戦前日本資本主義を支えた大地主(正確には寄生地主制)を解体し小作人に農地を分け与えた(正確には安価で売却した=自作農創設/農地改革)。このときまで日本の農耕地はその45%が地主の所有にあった。
http://www.tabiken.com/history/doc/E/E171R200.HTM

GHQは、戦後経済危機の打開、政治情勢の安定化をはかるとともに、共産主義化の温床と見なされた前近代的な農村や労働のあり方を解体した。この、細分化された農地は、その後さらに(農地)転用や相続により極限まで分筆されていき、今のグチャグチャの日本の風景の「起点」になったといえる。面白いのは、この、占領軍のイニシャティブによる、いわゆる第2次農地改革の原案を提案したのはほかならぬ英国である。このことと、英国の「あの風景」、大地主としての特権階級の存続を思う時、非常に複雑な思いが僕はする。

「民主化」の名の下に、我々は「風景」を犠牲にしたといえるかもしれない。戦争が引き金になっていることを思えば、「戦争の代償」として風景を喪失したといえるかもしれない。まあ、もし農地改革が行われなかったら、日本の風景はもっとましなものになっていたかどうかはよくわからないけれど、風景論という視点から農地改革を評価してみること(実はあまり行われていない仕事である)に今日的な意義があるとすれば、それは、「制度」が風景(ランドスケープ)をつくりうるという事実をもののみごとに証明してみせてくれることだ(結果は悪いランドスケープであったが)。僕が英国のエンクロージャーに注目する理由もここにある。まさに制度設計はグラウンドデザインそのものなのである。

社会正義とプロフェッションへの愛

2005-06-01 | Media
TOWN & COUNTRY PLANning, April 2005, Vol. 74 No. 4, TCPA
*A CITY GARDENER / by Colin Ward
フィラデルフィアを中心に活躍したコミュニティ・ガーデナー”カール・リン(Karl Linn)”という人物(の死)にちなんで、故人について触れたコラム。プランニング畑の人間、例えば、行政官、プランナー、教師等にとって、リンのような実務家は大切な存在である、と筆者は説く。なぜなら、「少なくとも、公的行為としてのプランニングが熱望するものと、それをただ単に彼らのささやけき夢への脅迫(あるいは無関係なもの)としてしか見ようとしない多くの民間人の認識とのあいだの深い断絶に気づいているからである」。

また、「(リンは)私の社会的正義(social justice)への関心と職能(landscape design)への愛をいかに両立させるかについて示してくれた」と、リンの死を伝えた記者を引用する。政治的レジテマシーという点において、ランドスケープというのはつくづく強い、と思う。マイノリティのためのコミュニティ・ガーデニングとそれを通じてのコミュニティ・ビルディングはその好例だ。筆者の見解は全く否定する余地のないものであるが、一方で、上記の断絶があるからこそ、「プランニング」という領域が成立し、そのためのプロフェッションが成立しうるのだとも思っている。

歴史学、考古学、そして空間学へ

2005-06-01 | Japan
Tuesday, May 31, 2005
*巣鴨地区の遺跡発掘調査に関する研究会@高岩寺十福苑
に出席、豊島区教育委員会の橋口定志さんのご講演を拝聴した。実に色々なことを考えさせられた面白い研究会だった。役所の中で教育委員会(特に文化財系)というのは独特な雰囲気をもっていて、なにかこう皆さん熱意をもって楽しげに取り組まれていて好感がもてる。どこの役所の教育委員会もおしなべてそんな印象を受ける。歴史学(こと)と考古学(もの)がタッグを組むとものすごいパワーを発揮するなというのが新鮮な驚き。もったいないのは、こうした調査研究の蓄積と地理学、建築や造園、土木の学が十分にリンクしていないこと。考古学が面白いのはそれが即「場所」や「空間」の問題として認知される(わかりやすい)から。その点、歴史学は空間論的展開が弱いけれど(←あたりまえ)、その辺がうまくビジュアライゼーションされると土地や空間の「見方」がとても豊かになる。しかし、これはむしろ地理学、建築・造園などの空間学の仕事だろう。であるからこそ連携が必要なのだ。そんなことを考えながら今日のお話を聞いていた。以下、箇条書き。

■植木屋と飯屋のワンセット。行楽の一形態としての植木屋めぐり。
■発掘調査と巣鴨軒別絵図、そして植木屋の地割り(敷地計画)の復元。
■巣鴨地区と地形・水系、仙川上水との関係。街道筋の水収支はいかに。
■江戸時代の土地改変。建て替えの度に盛土した江戸の町屋。

話者の橋口さんの所属する江戸遺跡研究会は実に豊穣な世界を我々に垣間見させてくれる。こうした研究の成果を我々はもっと現在のまちづくりに生かしていく必要がある。オンラインの会報誌が、またすごいテーマが並んでいる。特に以下は考古学のパワー全開といったところ。

発掘調査にみる江戸城下町の形成にともなう土地改変:菊池真
第16回大会「遺跡からみた江戸のゴミ」
豊島区巣鴨遺跡(仮称)藤和不動産マンション地区の調査-近世巣鴨町の植木屋:梶原勝