Sketch of the Day

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公園はいかにしてユニバーサルたり得るか

2006-01-29 | Japan
最近新聞紙上で「公園」の話題が尽きない。「「緑より防犯を」変わる公園」(1月15日付朝日新聞朝刊)、「お年寄り 遊具で元気:公園で伸びて曲げて介護予防」(1月17日付朝日新聞朝刊)、「「住所は公園」認める:テント生活者が勝訴」(1月28日付朝日新聞朝刊)等々。最初の記事は、公園の防犯性を確保するために樹木を伐採する近年の傾向と対策のあり方について報告したもの。二番目の記事は、お年寄りのための健康遊具を設置する公園等の公共施設が増えている話。最後は、大阪のホームレスが裁判で「公園への転居」を認められたというすごい話。

これらの記事に共通するネタ性というのは、これまでの公園の「前提」が崩れていることの認識にある。すなわち、公園とは緑の空間であるという前提が成り立ちにくくなり、また、公園には子どもの遊具、という前提も変化しつつある。さらには、誰にも占有されざる空間としての公園という前提が今まさに崩れ去ろうとしている。しかし、変化を迫られている公園の前提とはいったい誰がいつどうやって決めたことなのだろうか。この国は実はそこが非常に曖昧なのだ。不変/普遍の公園像(正確には空間像)を前提とするから、こういうことが記事になるわけで、もし「公園とは変化するものだ」という前提があれば、これらは驚くに当たらない。

そこで、少しでもこの国の公園の歴史をふり返ってみるならば、公園とはまさに変化し続けてきた存在であることが容易に理解される。社会を映す鏡といってもよいだろう。時代背景や社会情勢、価値観の変化を受けてまさに千変万化。いや、まさに変化し続けてきた点にこそ「公園の普遍性」はあるといってもよいだろう。そう考えれば、上記記事で紹介されている変化なんてものは、まさに公園が公園たる所以の出来事であり、実に健全なことなのだ。アジールとして、社会変化のアブソーバーとして、公園は常にその存在を脅かされながら、それゆえに公園であり得る。そういう存在である。