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壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (55)心の艶③

2011年03月26日 21時10分23秒 | Weblog
 つぎに、心敬の「冷え」について見てみましょう。

        水青し消えていくかの春の雪
        朝すずみ水の衣かる木かげかな
        山深しこころにおつる秋の水
        日を寒み水も衣きるこほりかな

 以上は、いずれも心敬の句ですが、心敬の「冷え」は、四季にわたる水についての、心敬自身の感覚から出てきた情趣がもとになっています。

 「水青し」は、春の雪解け水に心の安らぎをおぼえた、と見てよいでしょう。
        降積みし高嶺の深雪解けにけり
          清滝川の水の白波        西 行
        ちくま川春行く水は澄みにけり
          消えていくかの峯の白雪     順徳院

 の両歌を見れば分かるように、心敬は、水の清澄さの中に、西行・順徳院の歌の面影を見ているのです。

 「朝すずみ」は、清水あるいは泉のほとりにおいて、いつまでも佇(たたず)んでいたいような、冷ややかな気分を感じとったのです。「水の衣(きぬ)」は、「うす氷」のことです。
 心敬は、氷を最も艶なるものと考えていました。ですから、この気分は、本当に美しいものとなるのです。

 「山深し」は、静かな山の、秋の水の冷え冷えとしたものに心を澄ましていると、わが胸のうちまで、水と同じく清々しいものとなってくる、ということでしょう。
 秋の水の「冷々清々」とした情趣が、そのまま作者心敬の姿形と同じであるということになります。ここに心の冷えが認められます。
 水と心との等質的な面を、水の性質に即して、「こころにおつる」と表現したものだと思います。

 「日を寒み」は、「うす氷」を詠んでいますので、情趣としての「冷々清々」で、これも艶となります。
 なお「日を寒み」は、「日が寒いので」という意味で、「寒み」の「み」は、原因・理由を表します。

 心敬の、この水への志向は、中国唐代の詩人の影響によるものと思われます。そして、「冷え」として実を結んだ過程には、吉田兼好などの伝統的な風雅観と、仏教徒としての心敬自身の仏教観が加味されているはずです。
 心敬の「冷え」は、水についての情趣から、心の姿、文学作品や風体にまで拡がっていますが、これらの内包するものは、根本的にはみな同じなのです。
 そして面白いことに、芭蕉の『おくのほそ道』は、読めば読むほど、「水」のイメージが強くなってくるのです。
 芭蕉は、「古人の跡をもとめず、古人の求めたるところをもとめよ」と言っていますが、芭蕉の求めたるところの一つに、水のイメージがあったのではないでしょうか。『おくのほそ道』の隠されたキーワードは、「水」ではないか、などと勝手に思っております。


      またひとり笑みがこぼれて水温む     季 己