中世の文学において、最も重んぜられた美意識に、幽玄があります。その幽玄の風体は、連歌においては、どのように考えられていたのでしょうか。
心敬は、古人の言を引いて、「いづれの句にもわたるべき姿なり。いかにも修行最要なるべし」と言っていますので、非常に重視していたであろうことは明らかです。
しかし、心敬のいう幽玄は、ただ歌の姿や、句ぶりの優美なのを意味するのではなく、心の艶なのをさしています。
心の艶とは、作者の心構え自体が優美なのを意味し、そういう優美な心の持ち主になって始めて、風姿の優美な和歌や連歌を詠み出しうる、と言うのです。
幽玄が美として、あるいは文学の様式として確立されるようになったのは、十二世紀半ばごろで、主に藤原俊成の手によってです。
俊成の幽玄は、源氏物語美の流れに属するもので、いわば、象徴的暗示的余情主義ともいうべきものでした。これは、詠歌内容としての、ことばでは何とも説明しにくい気分や情趣を、具象的に表現するために、必然的に洗練された詞(ことば)が要求されるのです。
その一語一語は、もはや、ただ思想や感情を概念的に伝えさえすればよいというものではありません。より微妙に、より複雑に陰影を含み、色彩や音律までも伴ったものであることが望ましいのです。
この「ことばでは何とも説明しにくい気分や情趣を、具象的に表現する」という部分が、俳句では特に大切です。対象を見て感じたこと、驚き、発見などを具象的に表現する、つまり、「もの」で表すのが俳句なのです。自分の心を、ことばではなく、「もの」できれば「季語」に語ってもらうのです。
長子次子稚くて逝けり浮いて来い 能村登四郎
「ちょうし じし わかくて ゆけり ういてこい」と読みます。
「浮いて来い」は、人形・金魚・船などを、ビニールやセルロイドなどで形づくり、水に浮かせて遊ぶ子どものおもちゃで、夏の季語です。
掲句は、亡くなった二人の子どもらに、「この世に戻って来い、戻って来て欲しい」と呼びかけているのです。作者の痛切な気持が、季語「浮いて来い」によって見事に具象化されている、好い例だと思います。
しじみ蝶ふたつ先ゆく子の霊か 能村登四郎
この句には、作者の自解がありますので、次にそれを記します。
これも恐山での句。二人の子を没している私には
この山に子供たちの霊が住んでいるような気がし
てならなかった。
坂道をつぶやくごとく春の雨 季 己
心敬は、古人の言を引いて、「いづれの句にもわたるべき姿なり。いかにも修行最要なるべし」と言っていますので、非常に重視していたであろうことは明らかです。
しかし、心敬のいう幽玄は、ただ歌の姿や、句ぶりの優美なのを意味するのではなく、心の艶なのをさしています。
心の艶とは、作者の心構え自体が優美なのを意味し、そういう優美な心の持ち主になって始めて、風姿の優美な和歌や連歌を詠み出しうる、と言うのです。
幽玄が美として、あるいは文学の様式として確立されるようになったのは、十二世紀半ばごろで、主に藤原俊成の手によってです。
俊成の幽玄は、源氏物語美の流れに属するもので、いわば、象徴的暗示的余情主義ともいうべきものでした。これは、詠歌内容としての、ことばでは何とも説明しにくい気分や情趣を、具象的に表現するために、必然的に洗練された詞(ことば)が要求されるのです。
その一語一語は、もはや、ただ思想や感情を概念的に伝えさえすればよいというものではありません。より微妙に、より複雑に陰影を含み、色彩や音律までも伴ったものであることが望ましいのです。
この「ことばでは何とも説明しにくい気分や情趣を、具象的に表現する」という部分が、俳句では特に大切です。対象を見て感じたこと、驚き、発見などを具象的に表現する、つまり、「もの」で表すのが俳句なのです。自分の心を、ことばではなく、「もの」できれば「季語」に語ってもらうのです。
長子次子稚くて逝けり浮いて来い 能村登四郎
「ちょうし じし わかくて ゆけり ういてこい」と読みます。
「浮いて来い」は、人形・金魚・船などを、ビニールやセルロイドなどで形づくり、水に浮かせて遊ぶ子どものおもちゃで、夏の季語です。
掲句は、亡くなった二人の子どもらに、「この世に戻って来い、戻って来て欲しい」と呼びかけているのです。作者の痛切な気持が、季語「浮いて来い」によって見事に具象化されている、好い例だと思います。
しじみ蝶ふたつ先ゆく子の霊か 能村登四郎
この句には、作者の自解がありますので、次にそれを記します。
これも恐山での句。二人の子を没している私には
この山に子供たちの霊が住んでいるような気がし
てならなかった。
坂道をつぶやくごとく春の雨 季 己