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壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (54)心の艶②

2011年03月25日 16時07分52秒 | Weblog
 艶というのは、古くからある言葉で、現代語にすれば「なまめかしい」とか「色っぽい」とかいうことになります。けれども、艶の表す意味合いは、そんな単純なものではありません。
 艶は、ある美的価値を表す言葉として、平安朝以降の歌論や物語、日記、随筆などにおいて、広く頻繁に用いられてきました。しかし、その際、特に道徳性や宗教性と結びついた意味内容を持つことはありませんでした。
 この艶に、道徳性や宗教性を付与して、〈心の艶〉を説いたのが心敬なのです。心敬はしずかに説きます。
     「艶(えん)」は歌句の姿や詞(ことば)の上に表現された優雅な美ではない。
    執着がなく、世間の無常を深くさとり知り、強い報恩の心を持っているような、
    澄浄な境地から生まれた句のことである。

 と。

 心敬は、「枯野の薄、あり明の月」を解して、「これは言はぬ所に心をかけ、冷え寂びたるかたを悟り知れとなり」と言っております。
 また、信明の「ほのぼのと有明の月の月影に紅葉吹きおろす山おろしの風」については、「これも、艶にさしのび、のどやかにして、面影・余情に心をかけよ、といふなるべし」と言っております。
 これは、別々の風趣について述べているのではなく、至極の境地は、この両者の交錯するところにある、と言っているのです。つまり、言外の妙趣は、句姿の上に面影となり、余情となって感じられなければなりません。そしてそれは、冷え寂びた風趣でなければいけない、と言うのです。
 しかし、ここで「冷え寂び」というのは、冷厳一徹ということではありません。
 艶なるものを追求してやまない精神が、虚飾を削って削って削り去り、その後に残った、清く厳しく静寂な趣を帯びている〈もの〉を指すのです。

 自らの心を艶にするには、執することから自由にならなければなりません。
 故・高田好胤師が言うところの、
       かたよらない心
       こだわらない心
       とらわれない心
       ひろく、ひろく、もっと広く
       これが般若心経“空”の心なり

 という心境が、自らの心を艶にする方法の一つだと思います。

 心にひびく作品に出逢うと、手元に置きたくなる私には言う資格はありませんが、物欲にも色欲にも淡くならねばなりません。
 飛花落葉の無常を、無常のままに「あはれ」と見るためには、ひとたびは自らを空無に帰すべきで、そこから色世界の色に執することなく、ありのままに見ることができるのです。
 空(くう)によって濾過(ろか)された色(しき)は、おのずから冷え寂び、寒く清げなものになるのです。


      卒業の歌かなしみのなかとほり     季 己