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壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (36)批評の注意

2011年03月01日 23時03分57秒 | Weblog
 「魏の文王」の逸話を俳句にたとえれば、優秀な幹部同人が綺羅星の如く輝いている結社が素晴らしい結社で、その主宰はさしずめ賢王と申せましょう。

 結社に所属していた頃の私は、人様から「なんだあの生意気な奴は!」と思われるくらい、自由に物を言っていました。
 主宰からは、「私の作品を批評することは、大いに結構。だが、選の批評は一切まかりならぬ」とだけ言われていたことをよいことに、主宰とは、丁々発止と議論しあいました。
 ある時のこと、主宰は、私の批評をニコニコしながら聞いておられました。
 このニコニコ顔が、くせ者なのです。このときの主宰の腹の中は、「何を言ってんの。まだ分かっていないね。修業が足りない。甘い、甘い」ということなのです。
 逆に、苦虫をかみつぶしたような顔のときは、批評が的を射ているときで、腹の中では「おぬしだいぶ分かってきたな。この調子でしっかり精進するように」と喜んでおられたと、私は思っています。
 またある時には、主宰の句と気づかずに、添削してしまうという、大失敗をしたことさえありました。

 この悪癖は直らず、主宰亡き後、結社を継承した新主宰の句会に参加させていただいたとき、また新主宰の句を添削してしまったのです。
 すぐ、その新主宰から手紙が届きました。女性の参加者が恐がっているので、出来れば今後の句会参加は遠慮願いたい、と。もちろん、詫び状を書き、二度とその結社の句会には出入りしないと、誓約しました。

 幹部同人が指導する句会などで、指導者自身の句が批評されそうになると、「はい、次へ行こう」などと逃げる人がいます。どうして逃げるのでしょう。プライドに傷がつくからでしょうか。私には理解できません。
 仮に、深く傷ついたとしても、また立ち上がればよいのです。自説を翻すことは恥でも何でもありません。過去に、いや現在の立場にとらわれすぎているからなのです。批評によって、新しい句境が開けることや、より高い、より深い境地に入りうることさえあるのです。

 つぎは、人様の作品を批評するときの注意です。

  ①作品を十二分に理解した上で批評すること。
  ②作品は批評しても、人格を批評してはならない。
  ③場の雰囲気が、批評を望まないと察知したら、批評してはならない。(批評しても無駄)
  ④作者が正道を歩み、より高い境地に入れるような批評を心がけること。
   (作者を陥れるような批評は、絶対慎むこと)
  ⑤仏様(神様)のように批評すること。


      御水取くれば父の忌そぞろ神     季 己