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壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (51)幽玄体③

2011年03月22日 22時23分39秒 | Weblog
 どういう「もの」、どういう「ことば」を選ぶかは、その人の心の問題です。
 そういう意味で、俊成は、詞(ことば)の選択にきわめて細心敏感でした。一語が、その辞書的概念的な意味のほかに、不思議な陰影や、複雑微妙な感覚までも伴うということは、実は、どのような語を一首のどこに、どのように定着させるかによって決まる場合が多いのです。
 
 俊成は『古来風体抄』において、在原業平の

           やよひのつごもりのひ、雨の降りけるに
           藤の花を折りて、人につかはしける
        濡れつつぞしひて折りつる年の内に
          春はいくかもあらじと思へば


 という歌に対して、
 「しひてといふ詞に姿も心もいみじくなり侍るなり。歌はただ一言葉にいみじくも深くなるものなり」
 と、「詞」に対する芸術的認識の深さから醸し出された至言を放っています。
 しかし、この至言の意味はもちろん、「しひて」という単語の、単語としての「いみじさ」を言っているのではありません。
 この歌の主人公は、すでに春の日数も残り少なくなったので、今日はその春の名残の藤の花を、ぜひとも相手に贈りたいと思っていたのです。ところが、折悪しく雨が降っています。
 「この春の名残として、あなたのために雨に濡れることもかえりみず、いま手折った藤の花です。どうか私の好意を受け取って欲しい」
 そういう主人公の唯美的なこころざしの深さや、ひたむきな姿勢までが、この「しひて」の一語の定着によって、いみじくも具象化されているのです。したがって、それはもはや「しひて」という単語のみの「いみじさ」ではなくて、一首全体の「いみじさ」なのです。
 一語が、一首全体の構成分子として、一首の表現を完成した後は、その一語はすでに、一首全体の有機的な詞づかいなのです。そして、その詞づかいはすでにまた姿として享受されるのです。

 俊成は、心・詞・姿の三方面からみて、かぎりなき歌として、紀貫之の、

        むすぶ手のしづくににごる山の井の
          あかでも人に別れぬるかな


 をあげ、「歌の本体はただこの歌なるべし」と絶賛しております。
 「むすぶ手のしづくににごる山の井の」という序の潜在的実感が、飛躍的に「あかでも人に別れ」た心想と照応し、融合するところに、まず、艶にも幽玄にもある余情的情趣が、醸し出されるのでしょう。
 もちろん、そこには「しづくににごる山の井」を背景として、「あかでも人に別れ」た人の余情的面影までが、彷彿として浮かんできます。
 さらに言えば、この歌全体の声調は、一種の歌謡的リズムまでもそなえているようであり、それがまた、この歌の抒情内容を適切微妙に支えているように思われます。

 俊成はまた、在原業平の、

        月やあらぬ春や昔の春ならぬ
          我が身一つはもとの身にして


 についても、「かぎりなくめでたきなり」と賞嘆しております。
 
 「むすぶ手の」にせよ、「月やあらぬ」にせよ、いずれも物語の一場面を思わせるような情趣的景気面影が、論理的な意味の詮索をのりこえ、微妙な音感や調べにも助けられて、何となく艶にも「あはれ」にもてんめんとして無限に拡がっていく、というような歌です。
 こういう歌が、とりもなおさず俊成の幽玄の歌であり、俊成のいう歌の極致でもあったのです。
 これを俳句にたとえれば、「自分が感動した一場面を、何の論理的な意味を持たせず、微妙な音感や調べにも気を配り、抒情てんめんと拡がる」句とでも申せましょうか。


      廃棄とは 菠薐草の茎真つ赤     季 己