――どこの連歌の席でも聞くことなのですが、一巻のうちに月や花や雪のよう
な景物の句を詠むのを重大なこととして、間違っても、会席の末座に座る
未熟者や、世間的な地位に恵まれない者が詠んではならない、という風潮が
見うけられますが、如何なものでしょうか。
――それは、近頃の似非(えせ)風流人の言い出したことで、先人は決して
そのようなことは言っていない。
今は亡き二条良基公が主催された、公卿や殿上人中心の千句連歌会に
おいても、当時、末座の若輩者であった周阿法師が、花の句を三十句も詠
んだといわれている。これは身分不相応なことではなく、当時は、句の良し
悪し、つまり、句の実質を重んじて決めていたからなのであろう。
歌の題を作者に配るに際しても、上座に座る高位の方や長老などといって、
月花雪の題を差し上げるということはなかった。このほか、祝賀などの句
でも、上席長老の方には願わないものであったのを、追従(ついしょう)
を旨とする連歌師たちが申し習わしたことで、道のあるべき真実の姿は、
廃(すた)れ失せたというべきだ。
仏法を修行するにも、教典の語句の解釈、詮索に力を注ぐ人もあり、教理
の精神、真理を探究する人もある。
月花雪のような四季の代表的な景物ばかりに固執する連歌師は、風雅へ
の道に至る一時しのぎの便法のようにしか思われない。
未熟の者は、とかく文章表現に熱中し、悟りを得た者は、精神・真理を問
題にする。
章句は仏の教え、説明であり、意は仏の心理・法である。その教説は仮構
であり、真理は実相であるといわれる。
我々の心識の外に法・真理があると観ずれば、その迷妄のために生と死
の世界に輪廻し、心と法が同一、真理即ち心識と覚悟すれば、生も死も超
越して同一となり、悟りが開けるといわれている。
一度、その一心の根源を究めつくせば、永久に生と死から超越することが
できる。もろもろの因縁によって、この世に出現された報仏は、いわば夢の
中に現れる権化の幻想に過ぎないものである。
そうではあるが、修行の基本的な三つの方法のうち、定学・恵学の方法に
よる心の表現をなし得ない歌仙は、真実の先達ではあり得ないのではなか
ろうか。 (『ささめごと』月雪花の句)
沈丁花 吾が咳すれば母もまた 季 己
な景物の句を詠むのを重大なこととして、間違っても、会席の末座に座る
未熟者や、世間的な地位に恵まれない者が詠んではならない、という風潮が
見うけられますが、如何なものでしょうか。
――それは、近頃の似非(えせ)風流人の言い出したことで、先人は決して
そのようなことは言っていない。
今は亡き二条良基公が主催された、公卿や殿上人中心の千句連歌会に
おいても、当時、末座の若輩者であった周阿法師が、花の句を三十句も詠
んだといわれている。これは身分不相応なことではなく、当時は、句の良し
悪し、つまり、句の実質を重んじて決めていたからなのであろう。
歌の題を作者に配るに際しても、上座に座る高位の方や長老などといって、
月花雪の題を差し上げるということはなかった。このほか、祝賀などの句
でも、上席長老の方には願わないものであったのを、追従(ついしょう)
を旨とする連歌師たちが申し習わしたことで、道のあるべき真実の姿は、
廃(すた)れ失せたというべきだ。
仏法を修行するにも、教典の語句の解釈、詮索に力を注ぐ人もあり、教理
の精神、真理を探究する人もある。
月花雪のような四季の代表的な景物ばかりに固執する連歌師は、風雅へ
の道に至る一時しのぎの便法のようにしか思われない。
未熟の者は、とかく文章表現に熱中し、悟りを得た者は、精神・真理を問
題にする。
章句は仏の教え、説明であり、意は仏の心理・法である。その教説は仮構
であり、真理は実相であるといわれる。
我々の心識の外に法・真理があると観ずれば、その迷妄のために生と死
の世界に輪廻し、心と法が同一、真理即ち心識と覚悟すれば、生も死も超
越して同一となり、悟りが開けるといわれている。
一度、その一心の根源を究めつくせば、永久に生と死から超越することが
できる。もろもろの因縁によって、この世に出現された報仏は、いわば夢の
中に現れる権化の幻想に過ぎないものである。
そうではあるが、修行の基本的な三つの方法のうち、定学・恵学の方法に
よる心の表現をなし得ない歌仙は、真実の先達ではあり得ないのではなか
ろうか。 (『ささめごと』月雪花の句)
沈丁花 吾が咳すれば母もまた 季 己