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壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (46)至極の境地

2011年03月17日 20時55分27秒 | Weblog
 俳句をすすめると、「私は言葉を知らないから」と、おっしゃる方の何と多いことでしょう。
 俳句は、言葉で美しく飾り立てたり、しゃれた言い回しをする文芸ではないのです。
 この点は、昔も今も変わらないようです。
 心敬の時代は、歌の姿、調べの良さは脇へ置き、もっぱら美しく飾り立て、技巧の限りをつくしておりました。こういう風潮に対し、心敬は、「連歌の道は、ひたすら余情・幽玄の心姿を追い求めることにある」と、力説するのです。
 真にすぐれた句の良さは、理屈をはるかに超えたところにあります。心敬のいう「幽玄」の句とは、そういう趣をそなえた句のことなのです。それは、
   1.身に沁みるばかりの深い感動
   2.句姿の上に彷彿する面影
   3.表現の外にあふれた匂い
 以上の趣を目標として、すべて理詰めに表現しきろうとしないところに生まれるのです。

 心敬が、歌道至極の境地の歌として絶賛している信明、定家や正徹の歌は、そういう理想の風趣をたたえた歌なのです。
 信明の歌は、「すぐれたる歌なれば、字の余りたるによりてわろくなりぬべきにあらず」と『詠歌一体』にあるように、かなりはなはだしい字余りの歌であるにもかかわらず、名歌とされています。
 「月の月影」「ふきおろす山おろし」という、同語反復の心地よさもさることながら、冷え寂びた風趣が、名歌といわれる所以でありましょう。
 心敬の理想とする歌は、人間の感覚力の極限で構成された歌であり、それゆえにまた、感覚世界のかなたを暗示しえた歌でもあるのです。
 一脈の艶あるがゆえに、その文学は形をとどめ、ふっと消え失せようとするそのかそけさのゆえに、寂滅の境地が予感されるのです。
 そういう点で、最も素晴らしいこの種の歌は、確かに法悦の境地に通ずるものを持っています。
 しかし、正徹はともかくとして、定家の場合には、作者自身はかえってそのことを認識してはいなかったでしょう。それを心敬は、意識的に追求していこうというのです。
   

      地獄絵の記憶まざまざ彼岸来る     季 己