連歌が教養のない人々の間に行なわれ、しかもその場のなぐさみとして無統制に進められると、同じようなろくでもない句がつづくのは、当然の結果です。
こういう輩が、真実の言葉を求めて苦吟している人を、非難するのです。非難されるべきは、自分たちであることにも気づかずに…。
連歌の作品は、自分の真実の気持を、最も正確な言葉で、骨髄をしぼって表現しなければなりません。そうすると、覚えず知らず時がたち、日が暮れるというのは自然で、こうしてはじめて秀逸な作品も生まれ出るのです。
しかし、これは理想であって、世間的な仕事に従事している人にとっては、それは望んでも得べからざることでした。ですから、そういう生き方を徹底しようとすれば、世間を捨てるしかなかったのです。
このように世間を捨て、世事を離れて閑居している人のことを、閑人といいますが、心敬の場合はどうでしょうか。
心敬の言う「閑人」とは、澄んだ平らかな境地に至って、無常の世を深く観照する人物でした。閑居幽棲を好む、ともされています。
そこで、閑居幽棲を詠んだ心敬の作品に眼を向けてみましょう。
ひとりすみかになるる山陰
友よりも草木をみるはしづかにて (『心玉集』)
わがすむ山ぞしる人もなき
かかる身をみるも岩木は物いはで
偏に閑居幽棲岩木をのみ友として不便しづかなありさまばかり (『連歌百句
付』)
これらの句においては、人との隔絶と草木との親近が、対比的にとらえられています。「しづか」という語がポイントです。
「しづけさ」を心敬は、どのように表現しているでしょうか。
宿ふかみ雪の音きく木蔭かな
世にさらばきかぬ鳥なれほととぎす
人里離れて幽棲してこそ、雪や鳥との出会いもある、との心のうちが淡々と示されています。この人里との隔絶は、「山」において実現されるものでした。そして、その隔絶感を示す尺度が「深さ」なのです。
山ふかし心におつる秋の水
散る花の音きくほどの深山かな
「山ふかし」つまり「深山」は、山中の閑居幽棲を強調する表現です。俗世との隔絶を強調することによって、山中の澄浄性を表しているのです。
世俗の縁を去った環境の中で、研ぎ澄まされた感覚器官が、周囲の事象をとらえます。その際に、環境の澄浄だけでなく、心境の澄浄もとらえられていなければなりません。
心敬は、心境の澄浄と環境の澄浄との両方を、理想の作者の条件と考えていたのです。閑居幽棲を好む作者は、それらを兼備した存在であった、と考えてよいと思います。
そして、このような閑居の姿が、特に無常観の実践と強く結びつけられ、澄んだ心の状態を強調されつつ、歌道の理想として概念化されたものが、「閑人」なのです。
古草のなほ力得る日暮かな 季 己
こういう輩が、真実の言葉を求めて苦吟している人を、非難するのです。非難されるべきは、自分たちであることにも気づかずに…。
連歌の作品は、自分の真実の気持を、最も正確な言葉で、骨髄をしぼって表現しなければなりません。そうすると、覚えず知らず時がたち、日が暮れるというのは自然で、こうしてはじめて秀逸な作品も生まれ出るのです。
しかし、これは理想であって、世間的な仕事に従事している人にとっては、それは望んでも得べからざることでした。ですから、そういう生き方を徹底しようとすれば、世間を捨てるしかなかったのです。
このように世間を捨て、世事を離れて閑居している人のことを、閑人といいますが、心敬の場合はどうでしょうか。
心敬の言う「閑人」とは、澄んだ平らかな境地に至って、無常の世を深く観照する人物でした。閑居幽棲を好む、ともされています。
そこで、閑居幽棲を詠んだ心敬の作品に眼を向けてみましょう。
ひとりすみかになるる山陰
友よりも草木をみるはしづかにて (『心玉集』)
わがすむ山ぞしる人もなき
かかる身をみるも岩木は物いはで
偏に閑居幽棲岩木をのみ友として不便しづかなありさまばかり (『連歌百句
付』)
これらの句においては、人との隔絶と草木との親近が、対比的にとらえられています。「しづか」という語がポイントです。
「しづけさ」を心敬は、どのように表現しているでしょうか。
宿ふかみ雪の音きく木蔭かな
世にさらばきかぬ鳥なれほととぎす
人里離れて幽棲してこそ、雪や鳥との出会いもある、との心のうちが淡々と示されています。この人里との隔絶は、「山」において実現されるものでした。そして、その隔絶感を示す尺度が「深さ」なのです。
山ふかし心におつる秋の水
散る花の音きくほどの深山かな
「山ふかし」つまり「深山」は、山中の閑居幽棲を強調する表現です。俗世との隔絶を強調することによって、山中の澄浄性を表しているのです。
世俗の縁を去った環境の中で、研ぎ澄まされた感覚器官が、周囲の事象をとらえます。その際に、環境の澄浄だけでなく、心境の澄浄もとらえられていなければなりません。
心敬は、心境の澄浄と環境の澄浄との両方を、理想の作者の条件と考えていたのです。閑居幽棲を好む作者は、それらを兼備した存在であった、と考えてよいと思います。
そして、このような閑居の姿が、特に無常観の実践と強く結びつけられ、澄んだ心の状態を強調されつつ、歌道の理想として概念化されたものが、「閑人」なのです。
古草のなほ力得る日暮かな 季 己