――三日遅れの「白日会展」初日に行ってきました。「節電」のため三日遅らせ、しかも開館時間は午前十時より午後四時(入場は三時半)まででした。
そのため今日は「観る」ではなく「見る」になってしまいました。もちろん今日の目的は、内閣総理大臣賞を受賞した木原和敏さんの作品「Room]を凝視することだけ。
凝視しながら「なぜ内閣総理大臣賞を受賞したのか」、その理由を探ってみました。
その理由はやはり、「美の本質は、対象にあるのではなく、その背後の余情において暗示されるべきである」に、心至ったからではないでしょうか。
木原さんの技術は至極の境地に達しておられるが、お若いから心は至極の境地までは至っておりません。その証拠として「タイトル」の付け方があげられます。自分の思いをタイトルで述べてしまっているのです。タイトルに「惟(おもん)みる」とあれば鑑賞者は、この作品は「何かをよくよく考えている女性像を描きたかったのか」と、強制的に鑑賞させられてしまいます。
今回の受賞作品のタイトルは「Room」。確かに部屋の窓際にいる女性像であるから、「Room」であることは誰にでもすぐ分かります。そこで鑑賞者は考えます。部屋を描きたかったのか、いや、そんなはずはない。もっと別なところにある、ともう一度凝視すると、カーテンに気づきます。カーテンの中心より少し下に、「光」が感じられます。いわば余情であるカーテンの光が、対象の女性像の「何か」を暗示しているのです。何が暗示されているのか、受け取り方は鑑賞者の自由です。そう「みんな違って、みんないい」のです。
今回の作品に、「希(こいねが)う」とか「春愁」とかのタイトルを付けたら、おそらく賞を逸していたと思います。美の本質は、タイトルにあるのではありません。タイトルは無愛想でもいいのです。もう一度言います。「美の本質は、対象にあるのではなく、その背後の余情において暗示されるべきである」と。
道は一つ。俳句も全く同じです。理詰めですべてを言い尽くしてはいけません。言い尽くすから、説明・報告になってしまうのです。言い尽くさずに、言外に深い情趣や余韻が残るように、心がけることが大切です。
それには、対象を五感で感得し、その美しさを心の中に思い返し、再構成するのです。そしてまた、対象から一歩はなれて、その雰囲気を詠むように努めることです。
ここで、初学の頃の思い出を一つ。
岡本眸先生に入門して、二年目に入った頃のことです。
右膝関節炎が再発し、入院、手術をしなければならなくなりました。手術によって右足が五センチほど短くなると言われました。銭湯からの帰り道、
手術ためらふ心責むかに寒の星
という句をつくり、眸先生の添削を受けました。
戻ってきた添削用紙を見て、鉄球で頭をなぐられたような衝撃を受けました。
「責むかに寒の星」にサッと赤線が引かれ、その横に赤ペンで「励ます冬銀河」と書いてあるだけなのです。いつもは細々とコメントを書いてくださるのに…。
その時です。眸先生の声なき声が聞こえてきたのです。
「俳句は愛情です! 他人にやさしく、己に厳しくもいいけれど、自分を愛せないで、どうして他人を愛せるの…」と。
大きな手術をためらっている人を、どうして責めることが出来るでしょうか。しかも、季語が寒の星です。何という冷血漢でしょう。
それに引きかえ、添削の何と暖かくやさしいこと。
手術ためらふ心励ます冬銀河
天空から励ましの声が降ってくるようです。
「責むかに」も「寒の星」も、私の実感です。ということは、そのように感じた当時の私は、冷血漢であったということです。
同じ天上の星を「寒の星」と見るか、「冬銀河」と見るか、「心を責める」と感じるか、「心励ます」と感じるかは、その人の“こころ”の問題です。だから心敬は、「まず心をみがけ」と言うのです。
もし、いつものように細々とコメントが書いてあったなら、きっと読み流していたことでしょう。何も書かれていないがゆえに、眸先生の声なき声が聞こえたのだと思います。
このとき以来、「俳句は愛情!」と言い聞かせ、選んだ言葉が“愛のこころ”で裏打ちされているか、確かめるようにしています。(と書きましたが、実際はよく忘れて、こころの裏打ちのない句を作ってしまう、どうしようもない奴です)
ところでこの句、上五が「手術ためらふ」と、字余りになっていますが、お気づきになったで
しょうか。この句の場合、字余りによって、「ためらふ」気持がよりよく出ていると思います。
このように、上五の字余りは、あまり気になりませんが、中七の字余りは、まず成功しないので、やめた方が無難です。下五の字余りは、どちらとも言えません。
生きていくはずのページを春寒く 季 己
そのため今日は「観る」ではなく「見る」になってしまいました。もちろん今日の目的は、内閣総理大臣賞を受賞した木原和敏さんの作品「Room]を凝視することだけ。
凝視しながら「なぜ内閣総理大臣賞を受賞したのか」、その理由を探ってみました。
その理由はやはり、「美の本質は、対象にあるのではなく、その背後の余情において暗示されるべきである」に、心至ったからではないでしょうか。
木原さんの技術は至極の境地に達しておられるが、お若いから心は至極の境地までは至っておりません。その証拠として「タイトル」の付け方があげられます。自分の思いをタイトルで述べてしまっているのです。タイトルに「惟(おもん)みる」とあれば鑑賞者は、この作品は「何かをよくよく考えている女性像を描きたかったのか」と、強制的に鑑賞させられてしまいます。
今回の受賞作品のタイトルは「Room」。確かに部屋の窓際にいる女性像であるから、「Room」であることは誰にでもすぐ分かります。そこで鑑賞者は考えます。部屋を描きたかったのか、いや、そんなはずはない。もっと別なところにある、ともう一度凝視すると、カーテンに気づきます。カーテンの中心より少し下に、「光」が感じられます。いわば余情であるカーテンの光が、対象の女性像の「何か」を暗示しているのです。何が暗示されているのか、受け取り方は鑑賞者の自由です。そう「みんな違って、みんないい」のです。
今回の作品に、「希(こいねが)う」とか「春愁」とかのタイトルを付けたら、おそらく賞を逸していたと思います。美の本質は、タイトルにあるのではありません。タイトルは無愛想でもいいのです。もう一度言います。「美の本質は、対象にあるのではなく、その背後の余情において暗示されるべきである」と。
道は一つ。俳句も全く同じです。理詰めですべてを言い尽くしてはいけません。言い尽くすから、説明・報告になってしまうのです。言い尽くさずに、言外に深い情趣や余韻が残るように、心がけることが大切です。
それには、対象を五感で感得し、その美しさを心の中に思い返し、再構成するのです。そしてまた、対象から一歩はなれて、その雰囲気を詠むように努めることです。
ここで、初学の頃の思い出を一つ。
岡本眸先生に入門して、二年目に入った頃のことです。
右膝関節炎が再発し、入院、手術をしなければならなくなりました。手術によって右足が五センチほど短くなると言われました。銭湯からの帰り道、
手術ためらふ心責むかに寒の星
という句をつくり、眸先生の添削を受けました。
戻ってきた添削用紙を見て、鉄球で頭をなぐられたような衝撃を受けました。
「責むかに寒の星」にサッと赤線が引かれ、その横に赤ペンで「励ます冬銀河」と書いてあるだけなのです。いつもは細々とコメントを書いてくださるのに…。
その時です。眸先生の声なき声が聞こえてきたのです。
「俳句は愛情です! 他人にやさしく、己に厳しくもいいけれど、自分を愛せないで、どうして他人を愛せるの…」と。
大きな手術をためらっている人を、どうして責めることが出来るでしょうか。しかも、季語が寒の星です。何という冷血漢でしょう。
それに引きかえ、添削の何と暖かくやさしいこと。
手術ためらふ心励ます冬銀河
天空から励ましの声が降ってくるようです。
「責むかに」も「寒の星」も、私の実感です。ということは、そのように感じた当時の私は、冷血漢であったということです。
同じ天上の星を「寒の星」と見るか、「冬銀河」と見るか、「心を責める」と感じるか、「心励ます」と感じるかは、その人の“こころ”の問題です。だから心敬は、「まず心をみがけ」と言うのです。
もし、いつものように細々とコメントが書いてあったなら、きっと読み流していたことでしょう。何も書かれていないがゆえに、眸先生の声なき声が聞こえたのだと思います。
このとき以来、「俳句は愛情!」と言い聞かせ、選んだ言葉が“愛のこころ”で裏打ちされているか、確かめるようにしています。(と書きましたが、実際はよく忘れて、こころの裏打ちのない句を作ってしまう、どうしようもない奴です)
ところでこの句、上五が「手術ためらふ」と、字余りになっていますが、お気づきになったで
しょうか。この句の場合、字余りによって、「ためらふ」気持がよりよく出ていると思います。
このように、上五の字余りは、あまり気になりませんが、中七の字余りは、まず成功しないので、やめた方が無難です。下五の字余りは、どちらとも言えません。
生きていくはずのページを春寒く 季 己