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壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (39)苦吟すべし

2011年03月06日 22時36分20秒 | Weblog
        ――連歌の会席において、句作の流れが滞らないように句をすらすら
         作る稽古をすべきだ、と言われておりますが如何なものでしょうか。

        ――連歌の会席や時と場合によりけりで、一概には言えないが、その
         ような稽古は必要であろう。
          けれども、句作の流れを滞らせないためだけに、句を軽々しく作る
         というのは、どんなものだろうか。
          歌・連歌の道に志深く、心を澄ませて、もっぱらその境地に没入す
         る人は、玉の中に光を尋ね、花のほかに匂いを求めるように、外形
         にとらわれず、物事の本質をじかにつかみ取るものだ。そしてそれが、
         誠の道なのである。

          すべて詩歌の道も、大聖文殊の御知恵より起これる、と言われる
         文殊菩薩の生まれ変わりならいざ知らず、どうして、やすやすと句を
         作ることが出来ようか。
          句の良し悪しを分別する心もなく、歌・連歌の道の何たるかを知ら
         ない者は、安易に詠吟するかも知れない。
          しかし、歌・連歌の道は、まさに命がけの、たぐいなき真実追究の
         道なのである。その好い例を、いくつかあげてみよう。

          紀貫之は、和歌一首を詠むのに、十日も二十日もかかったという。
          宮内卿は、毎回毎回、血を吐く思いで、歌を深く案じた。
          公任卿は、「ほのぼのとあかしの浦の朝霧に 島がくれ行く舟をし
         ぞおもふ」の歌を、三年間案じつづけ、やっと納得のゆく作品に仕上
         げたという。
          藤原長能は、自分の「心うき年にもあるかはつかまり ここぬかと
         いふに春の暮れぬる」の歌を、藤原公任から、「春は三十日(みそか)
         やはある」と非難され、その場で倒れて病気になり、亡くなってしま
         った。
          もろこしの藩岳とかいう詩人は、詩を余りにも沈思したため、三十代
         で頭が真っ白になってしまった。
          仏法において、最上の味を醍醐味というが、これは仏道修行の究極
         において到達した心をいうのである。 (『ささめごと』 苦吟すべきこと)


      東京の人が通るよ地虫出づ     季 己