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壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (45)幽玄について

2011年03月16日 22時45分38秒 | Weblog
        ――ほとんどの風流人は、表現が緩んでいて言葉の続き具合がなめらかで
         なくても、美しく飾り立て、技巧を凝らすことばかりに努めて、歌の風格、
         言葉づかいの情趣深い句を二の次にしております。このようなことを、どの
         ようにお思いになりますか。

        ――歌・連歌の道は、ひたすら余情・幽玄の心姿を追い求めることにある。
          理詰めにすべてを言い尽くさず、言外に深い情趣・余情があるところに、
         幽玄が生じるのである。
          和歌の道にも、不明体といって、故事・古歌から匂いかもすような象徴的
         雰囲気、情趣を表現して詠む歌を最上最高のものとしている。
          「ふつと、その人一人のわざなるべし」などと、定家卿も記しておられる
         ように、そのような歌は、誰でもが詠めるものではないのだ。

          兼好法師が、「月や花は、眼だけで観賞するものではない。雨の夜には、
         花が散りはしないかと心配して夜を明かし、散りしおれた後の花の木蔭に
         来ては、過ぎし満開のすばらしさを想像してこそ」と書き記している。
          これは眼で観たものを、その美しさを心の中に思い返し、また、対象から
         一歩離れてその雰囲気を味わう興趣の深さを述べたものであろう。まことに
         艶深く思われる。

          白楽天の『琵琶行』に、「尋陽江の船上に琵琶の音は止み、月が西山に
         沈んだ後、その瞬間こそ、別に心中に秘めた悲しみと、人知れぬ恨みが
         生まれるが、この時にこそ、音のないのは、音のあるのに勝る」とある。

          『長恨歌』には、「春の風に、桃や李(すもも)の花が咲き乱れる日や、
         秋の雨に梧桐(あおぎり)の葉が散るときには、わけても悲しみがつのる」
         と、楊貴妃と死別して傷心の日々を送る玄宗皇帝の心境を叙述した詩句が
         ある。

          和歌や連歌の恋の句なども、ぜひ、このような風体で詠んでみたいもので
         ある。六義の説でいう風(ふう)の歌・比(ひ)の歌の歌体に当たるものだ。
         「恋の歌は、四季の歌などより数倍勝って沈思する」と、先人も述べている。
         述懐と恋の句は、特に、胸の底からしぼり出すものであり、決して安直に頭
         で考えて詠むべきものではない。沈思に沈思を重ね、深く推敲することが
         大切である。

                不明体の歌
            ほのぼのと有明の月の月影に
              紅葉ふきおろす山おろしの風     源 信明(さねあきら)

            (ほんのりと明るい有明月の光のなか
              紅葉を山から吹き下ろしてくる山おろしの風よ)
            秋の日のうすき衣に風たちて
              行く人待たぬすゑのしら雲     定家卿

            (残暑のやや薄らいだ秋の一日 旅人のうすら衣に風が吹き立ち
              秋冷の気が身に沁み、行く手の野末のかなたに消え去る
              その白雲よ)
            秋の日は糸よりよわきささがにの
              雲のはたてに荻のうはかぜ     正 徹

            (秋の日ざしは、凋落の気配が感ぜられるほど弱く、
              雲の彼方の秋風は、荻をなびかせて吹いている)

          これらの秀逸は、まことに真理がそのまま表現された歌の姿で、歌道至極
         の境地がそのまま顕現したような風体である。師なくして、自覚し感得し得た
         歌で、ことばでは説明できないので、不明体というのであろう。

              語りなばそのさびしさやなからまし
                芭蕉に過ぐる夜半の村雨

              (説明してはかえって感じられなくなりそうだ、
                夜ふけて芭蕉の葉に降りすぎてゆく村雨の音を、
                じっと聞く、この秋の愁いは)

          『文選』の高唐賦にある巫山(ふざん)の仙女の容姿や、五湖の煙水に
         かすんだ優艶な面影は、とうてい言葉には言い表すことができない。
                                  (『ささめごと』余情・幽玄)


      みちのくの雪やみたまへ方丈記     季 己