春月や印金堂の木のまより 蕪 村
「印金堂(いんきんどう)」は、山城国葛城郡花岡村妙光寺の山上にある。清滝の付近、と言った方がわかりやすいかも知れない。方一間の小仏堂であるが、壁の上に五色の絽を張り、印金で模様を表している。
「木のまより」は、「木の間越し」の意ではない。つまり、木の間から春月の光が差し込んでいるの意ではなくて、木の間から春月が上ったの意である。「より」で切ったところに、月の出の勢いがこめられている。
もちろん、作者の身は堂外にある。堂影も樹影も一様に暗いのであるが、それだけに春月の面は明るいのである。春月の「黄色い光」があまりにもきらめいて鮮やかなので、それが直ちに想念として堂内の「金色」と結びついたのである。
五月雨の降りのこしてや光堂 芭 蕉
これも、金色が想念としてのみ働いている点は共通である。ただ、芭蕉の句は、光堂そのもののたたずまいが、奥深く命あるものとして探られていて、幻想味が勝っている。
対して蕪村の句は、絵画的構図の方にすぐれていて、その点でやや平面的である。
芭蕉の句のリズムの荘重さは、五月雨にふさわしく、蕪村の句のリズムの軽快さは、春月にふさわしい。
季語は「春月」で春。
「印金堂をめぐる木立の間から、いましも、まるまるとした春月が上った。いかにも
艶にきらきらしく、堂内の壁上の印金を空に施したかのようである」
仙台行き高速バス春の月 季 己
「印金堂(いんきんどう)」は、山城国葛城郡花岡村妙光寺の山上にある。清滝の付近、と言った方がわかりやすいかも知れない。方一間の小仏堂であるが、壁の上に五色の絽を張り、印金で模様を表している。
「木のまより」は、「木の間越し」の意ではない。つまり、木の間から春月の光が差し込んでいるの意ではなくて、木の間から春月が上ったの意である。「より」で切ったところに、月の出の勢いがこめられている。
もちろん、作者の身は堂外にある。堂影も樹影も一様に暗いのであるが、それだけに春月の面は明るいのである。春月の「黄色い光」があまりにもきらめいて鮮やかなので、それが直ちに想念として堂内の「金色」と結びついたのである。
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これも、金色が想念としてのみ働いている点は共通である。ただ、芭蕉の句は、光堂そのもののたたずまいが、奥深く命あるものとして探られていて、幻想味が勝っている。
対して蕪村の句は、絵画的構図の方にすぐれていて、その点でやや平面的である。
芭蕉の句のリズムの荘重さは、五月雨にふさわしく、蕪村の句のリズムの軽快さは、春月にふさわしい。
季語は「春月」で春。
「印金堂をめぐる木立の間から、いましも、まるまるとした春月が上った。いかにも
艶にきらきらしく、堂内の壁上の印金を空に施したかのようである」
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