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壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

「俳句は心敬」 (56)心の艶④

2011年03月27日 22時43分04秒 | Weblog
 ところで、風雅の道の奥義を極めんがためには、艶を主として修業しなければならないのですが、艶とは何かということが問題です。
 心敬は、姿・詞の優美な句を指すのではなく、「人間の色欲がうすく、無常観に徹し、人の情けを忘れず、報恩のために一命を軽くする人」、の句にしてはじめて、艶だというのです。すると、艶の本質は、宗教的、道徳的性格にあるのでしょうか。

 心敬の著作中の用語例を調べた菅基久子氏は、『ささめごと』における「えん」の意味内容を、つぎのように述べておられます。

     道徳性および宗教性の有無に関係なく、(1)切実・真剣で真摯な自然・人間・
    真理・歌句との対峙を「えん(なり)」または「えんふかし」と言い表していること、
    (2)清浄な恬淡とした境地、それゆえに(1)の対峙が可能な境地を「えん(なり)」
    と言い表していること、(3)(2)の境地から生まれる歌句を「えん」と言い表して
    いること等が明らかになったと思う。そしてこれらの考察の結果から導き出された
    「えん」の意味するところは、つきつめれば「真」であり「浄」であると言ってよい
    だろう。 (『心敬 宗教と芸術』 P244)

 艶の本質はやはり、王朝的な優美を中心にしていると見るよりほかはなく、この場合といえども例外を示すものではありません。
 心敬はただ、姿・詞ばかりの優美さを否定しているのであって、優美そのものを否定しているのではありません。心底からの優美に、さらに「真・浄」を徹底的に真摯に目指す、心の錬磨を要求しているのです。
 つまり、中世的な人間として、最も深い自省の上に立ち、「真・浄」を目指す真摯な生き方をしている人間の心を、心敬は「えん(艶)」と感じたのです。
 心敬のいう艶は、そういう人格的な光で清められた、優美な感情そのものに他ならないのです。
 定家・家隆は「歌作り」、慈鎮・西行を「歌詠み」と仰せられたという話は、そういう立場から解さなければなりません。


     芽吹く夜の抗癌剤の白さかな     季 己