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壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

鳴海眺望

2010年09月15日 22時51分59秒 | Weblog
          鳴海眺望
        初秋や海も青田の一みどり     芭 蕉

 たまたま見たその場の初秋の景をもって挨拶としたもの。一読、爽快な初秋の眺望である。何の巧みもなく、初秋の鳴海潟の大景に心奪われたものであって、その流動的、直線的な声調に、初秋の景に惹かれた感動のの明るさがあふれている。
 対象に身を寄せて、そのものになり入ってゆく芭蕉の態度が、よく生かされている句といえよう。「や」・「も」・「の」の助詞が、実に的確に生かされている。ふつうは、「海も青田も」としてしまいがちである。「青田の一みどり」の「の」の使い方を、しっかり学びたい。

 季語は「初秋」で秋。貞享五年七月十日、「鳴海絞り」で有名な、尾張鳴海(今の名古屋市緑区)での作。

    「稲の伸びそろった青田が一望のうちに見え、その彼方に色濃い海が
     青田のみどりとひとつづきに見渡されて、まことに清爽な初秋の景で
     ある」


      女神湖の神わたるかや秋の虹     季 己

白露

2010年09月14日 22時43分43秒 | Weblog
          七月廿二日夜半亭 兼題
        白露やさつ男の胸毛ぬるゝほど     蕪 村

 白露(しらつゆ)という可憐なものへ、対照として猟をする荒くれ男の姿を配合したのである。
 蕪村の偉大な点は、たいていの場合に、配合が対照の強調以外に自ら描写として役立っていることである。ここでも、「胸毛ぬるゝほど」によって、猟男(さつお)の体躯のたくましさだけでなく、草丈の高さや山の朝露の冷たさまでが、さながらに想像できる。

 「夜半亭(やはんてい)」は、江戸中期の俳人、早野巴人の別号であるが、それを継承した一派の俳系をもいう。2世は与謝蕪村、3世は高井几菫。
 「兼題」は、歌会・句会などを催すとき、あらかじめ出しておく題。また、その題で詠んでおく歌・句のこと。
 「さつ男」は、「猟男」と書き、狩をする人、つまり、「かりゅうど」のこと。この句の猟男は、藁帽子、藁沓(わらぐつ)、毛皮の胴着をつけ、肩に火縄銃をかついだそれであろう。
 芭蕉にも、
          甲斐山中
        山賤(やまがつ)のおとがひ閉づるむぐらかな
 の句がある。これは狩猟ではないが、この句と同様に、山人があごをも突き上げんばかりに茂った雑草の中を分け進むさまが描かれている。
 芭蕉と蕪村の句を比較することによって、蕪村時代の描写が、芭蕉時代のそれよりも客観的に平明になっている事実を知ることが出来る。

 季語は「露」で秋。

    「山の草原をかき分けながら一人の狩人が突き進んでくる。そのあたりは
     草がいかにも丈高く、降ったように露が置いていて、狩人のあらわな胸
     毛もしとどに濡れてしまうだろうと思われるほどである」


      露けさの放つ牛なき牛舎かな     季 己

        ※ 現在、「画廊宮坂」で開催中の『大山富夫 展』の作品
         「山の上の牛舎」に想を得ました。

ちりぢりに

2010年09月13日 21時24分11秒 | Weblog
        夕露や伏見の角力ちりぢりに     蕪 村

 「伏見の角力」は、「伏見で催される角力」の意味であるが、いかにも穏やかなよい調子である。
 「ちりぢりに」は、近在だけでなく、淀の川船で宇治や京都へ帰ろうとする人々までが、藪の多い伏見のさびしい夕景の中を、小屋を中心にたちまち姿を消すさまが詠まれている。その上、この「ちりぢり」の語は、
        日のちりぢりに野に米を刈る
 と、芭蕉時代の連句の中にも見られるように、夕日の色の褪せた後、夕露が野面に淡く散り広がっているさまをも偲ばせるものがある。

 季語は「角力」で秋。

    「伏見の堤防沿いに仮小屋を建て、相撲が興行されている。沸き立つ
     にぎわしさであったが、夕方とともに打出しになった。もう堤防も野面
     も夕日の色が褪せて、夕露が限りなく置いている。その中を見物人
     は四方八方へ、たちまちの間に引き上げて行ってしまう」


 ――二日つづけて「角力」の句を取り上げたが、大相撲ファンということではない。むしろアンチ大相撲である。昨日から秋場所が始まり、ほかに書くネタがなかったからなのだ。
 今日、母を預けてある妹宅へ行ってきた。おかげさまで母は元気になり、「早く家に帰りたい」と、合宿中の小学生みたいなことを言い出す。妹は、「お彼岸が過ぎるまではダメよ」と言って引きとめる。「暑さ寒さも彼岸まで、というから、そうしようか」と、やっと納得の母。
 これらの会話を交わしたのが、NHKの大相撲中継が放映されていたとき。見るともなしにテレビを見て、思わずうれしくなった。客席が、がらがらなのだ。(相撲ファンの方、ごめんなさい!)
 日本相撲協会が、法人格を返上、株式会社化し、その名も世界相撲協会として新たな出発をする日を、楽しみにしている変人なのである。

      サポーターぶつかり合ひて硬き暑よ     季 己

角力

2010年09月12日 22時24分08秒 | Weblog
        負まじき角力を寝物がたりかな     蕪 村

 この句の裏には妻の姿がある。妻の手前、愚痴まじりに自己弁解をしている「相撲取りの夫」に対して、失望を内に包みかくして、ひたすら夫を慰めている「相撲取りの妻」。そんな姿を想像することによって、一種のペーソスが生まれ、「寝ものがたり」の語もエロティシズムを絶って、しみじみとしたものになってくる。
 相撲は当時、非常に派手な人気商売であった。この句は「夫婦愛」の姿として詠まれているが、相撲取りが、情婦か遊女の宿へしばしば身をよせていて、女の櫛を借りて髷を整えた、などという艶っぽい句もあるほどである。

 「負(まく)まじき」は、「負くまじかりし」の意で、「負けるはずではない」ということ。
 「角力」は、「すもう」と読み「相撲」に同じ。
 「寝物がたり」は、多くは夫婦関係にある男女が、寝ながら話すこと。

 季語は「角力」で秋。
 相撲は、宮中においては初秋の行事として、「相撲節会(すまいせちえ)」が行なわれていた。タケミカヅチノカミとタケミナカタノカミとの出雲の伊奈佐浜における力くらべ、ノミノスクネがタイマノケハヤを蹴殺してしまったという伝説がその原点。それが一年の豊凶を占う神事に形を改めていった。
 「相撲」が秋季と定められたのは、宮中では古く陰暦七月に「相撲節会」が行なわれ、叡覧(えいらん=天覧)があったためである。また、神社などの素人による宮相撲、草相撲、辻相撲が秋祭のころに行なわれることが多いためであろう。
 ただ、現在のいわゆる大相撲を秋季とするのは、少しムリがあろう。やはり、秋場所・九月場所と季語を加えるべきではないか。いや、その前に大相撲がなくなってしまうか?

    「相撲取りが、妻との寝物語に、妻に慰められながらも、なお、
     あきらめきれないで、『今日の一番は、絶対に負けるはずでは
     なかったのだが……』と、わずかのつまずきで黒星を負ったこ
     とを、いつまでも残念がり不運をかこちつづけていることだ」


      木槿咲く菩提寺にある志納帖     季 己

ほのかなり

2010年09月11日 23時20分47秒 | Weblog
          草庵の雨
        起きあがる菊ほのかなり水のあと     芭 蕉

 雨水の引いたあとに、菊の起き直る姿を「ほのかなり」と見出している。
 この「ほのかなり」は、菊のさまであり、その菊のさまに揺らぐ芭蕉の心でもある。静かに見つめる中に、菊に滲透した芭蕉の呼吸が聞こえるようで、静かな心のはたらきが感じられる。

 「草庵の雨」は、深川芭蕉庵の雨。雨によって、もともと土地が低くて湿地だったこの辺は、水が出たものであろう。
 「菊ほのかなり」は、夕闇などの中にほのかに見える意か、またはかすかに匂う意か、あるいは、しずかに起きあがる気配をいうものか、はっきりしない言い方である。こういう場合の詠み方の実際から考えて、それらすべてを含めて「ほのかなり」としたものであろう。

 季語は「菊」で秋。菊というものを的確に把握している。

    「雨で水が流れ込んだために、草庵の庭の菊も無残に倒れてしまった。
     やっと水が引いたあと、倒れていた菊もしずかに起きなおる気配が、
     夕闇の中に感じられる」


      菊日和 水煙越ゆる双子雲     季 己

初茸

2010年09月10日 21時18分11秒 | Weblog
        初茸やまだ日数へぬ秋の露     芭 蕉

 初茸のみずみずしさをほめた句である。事柄は新鮮なのだが、表現に乾いたものがある。おそらく、「まだ日数へぬ」に考えられたあとがあるからであろう。この中七は、上五に対して述語ふうにも、また下五に対して修飾語ふうにもとれる。ここは素直に、上五の切字「や」で切れていると考え、後者で解したい。

 季語は「初茸」で秋。他の茸にさきがけて、松林や雑木林に生えるので、この名がある。傘の表面の中央部分が少しへこんで、年輪のような環紋がある。淡い赤褐色で質はもろい。傷をつけると汁が出て、空気に触れると青緑色に変わるので、「藍茸(あいたけ)」というところもある。食用キノコとして知られ、味は淡泊である。
 「秋」・「露」も、ともに季語。元禄六年七月ごろの作。

    「その名のように、いちはやく出はじめた初茸の一群を見つけた。
     それは、秋に入ってまだ幾日もたたない露にぬれて、いかにも
     みずみずしいうるおいが見える」


      月夜茸 傘かたむけてうふふふふ     季 己

きりぎりす

2010年09月09日 22時31分00秒 | Weblog
        白髪抜く枕の下やきりぎりす     芭 蕉

 発想はまことに素直で、季感と心境とが渾然融合した、境涯の句とも言うべきものである。
 枕や床の下のきりぎりすは、和歌や漢詩にも多く詠まれている。たとえば、『過去種』には『山家集』の、
        きりぎりす 夜寒になるを 告げがほに
          枕のもとに 来つつ鳴くなり
 が指摘されている。それを「白髪抜く」としたところに、俳諧的把握があることは、『蒙引』にいうとおりで、この句の手柄と見るべきであろう。元禄三年八月の作。

 「きりぎりす」はコオロギ(蟋蟀)のこと。昔はコオロギと逆用されていた。秋季。その実際に触れて生かされたものであろう。

    「なんということもなく白髪を抜いていると、枕の下のあたり、
     蟋蟀の声がしているのに気づいた。いつかその声に引き
     込まれたが、自分もそぞろ身の秋を感じたことだ」


 ――だいぶ涼しくなったので、『院展』を観るために日本橋三越へ行ってきた。
 同人最新作と入選作合わせて300余点、力作もかなりあり結構楽しませてもらった。ただ、感心はしてもどこかで見たような作品が多く、感動した作品は17点。その作家名を順不同・敬称略で下記に記す。

     吉村 誠司  大野 百樹  倉島 重友  大野 逸男  (以上同人)

     阿部 任宏  大嶋 英子  奥村佳世子  鴈野佳世子
     岸野  香  北田 克己  並木 秀俊  波根 靖恵
     前田  力  松下 雅寿  村田 潤治  山田  伸
     吉井 東人  (以上一般入選作)

 この中でも特に手元に置きたいと思った作品は、次の8点。
     吉村誠司  祭壇(バリ島にて)   大野百樹  陽
     倉島重友  土の家         大嶋英子  時をこえる詩
     岸野 香  Trip           北田克己  月の導者(しるべ)
     並木秀俊  閃しゃく(火に樂)   波根靖恵  約束の行方


      こほろぎの闇の彼方の少年期     季 己

何喰うて

2010年09月08日 22時50分57秒 | Weblog
        何喰うて小家は秋の柳蔭     芭 蕉

 この句は、元禄十二年刊の『茶の草子』の他には出ていない。したがって年代未詳の句である。
 「何喰うて」という発想の性格からみて、初期や中期のものではないようである。晩年の作と見えるので、元禄六年ごろを想定している。
 「何喰うて」は、決して小家の生活をさげすんだものではない。「秋深き隣は何をする人ぞ」に一脈通じるものがあるようだ。ちなみに蕪村にも、「凩(こがらし)や何に世渡る家五軒」の作がある。
 「何喰うて」の心のたどりゆく筋には、生きてゆくことのあわれさを深く感じているところが見える。

 秋の句。「秋の柳蔭」で秋の季を生かしている。柳には「柳散る」という秋の季語もある。

    「散り初めた秋の柳の蔭に、一軒の小家が忘れられたようにある。
     この侘びしい小家の人は、何をたつきとしているとも見えず、
     ひっそりとしている。いったい何を食い、何をしてその日を送っ
     ているのであろうか」


      散る柳うけていとしむ老夫婦     季 己

芋の葉

2010年09月07日 22時46分02秒 | Weblog
        芋の葉や月待つ里の焼畠     芭 蕉

 「月待つ里」は、名月を待つ里、の意。関係ないが、「月見里」は、「やまなし」と読む。
 「焼畠(やけばたけ)」は、旱(ひでり)の畑のこと。別に、荒地を焼きその灰を肥料とした、開拓したばかりの畑ととることもできる。その場合は、芋は肥料が足りないので痩せている意となろう。

 「月」も「芋の葉」もともに秋の季語。この句の場合、「芋の葉」の方がはたらいている。
 なお、単に「芋」といえば、里芋を指す。また、「藷(いも)」は甘藷(さつまいも)、「薯(いも)」は馬鈴薯(ばれいしょ)つまりジャガイモを指す。
 「芋嵐」は、さといも畑一面に、芋の葉に吹きつける強い風をいう。「芋嵐」は、阿波野青畝の「案山子翁あち見こち見や芋嵐」の句で、季語として定着した。

    「中秋の名月に供える芋も、このひでりの畑では、たいして育って
     いないので、芋の葉ばかりがゆらめいていることだ」


      舞台裏葉の裏見せて芋嵐     季 己

芙蓉

2010年09月06日 21時03分17秒 | Weblog
        枝ぶりの日ごとにかはる芙蓉かな     芭 蕉

 『後れ馳(おくればせ)』に、「此の句、自画の芙蓉の賛に見えたり。元禄のはじめの吟なるべし」と付記して掲出。
 画賛のようであるから、描かれている芙蓉に、動きを加えた発想である。遊女の画賛という所伝もあるが、それでは思わせぶりな句になる。

 季語は「芙蓉」で秋。葉に短い毛が密生し、おもに淡紅色の美しい五弁の花を開くが、朝咲いて夕方はしぼむ。茎は1.5メートルほど、花の大きさは10センチ前後で、白い花や八重咲きのものもある。「酔芙蓉」は、八重咲きで、朝は白色で午後になると淡紅色、夜は紅色に変わり、翌朝になってもしぼまない。花は薄命の美女にたとえられるように、楚々とした気品と艶麗さを感じさせる。
 画賛としては、画中の芙蓉に、それまでの体験を呼びさまして加えた生かし方となる。
 なお、「芙蓉」の絵といえば、花岡哲象先生の「芙蓉」が、天下一品だと思う。

    「芙蓉は下の方から咲きはじめて、しだいに高いところに及ぶ。
     朝咲いて夕方しぼむので、日ごとに変わった感じがする。また
     その枝ぶりも日に日に変化するようで、まことにおもしろい」


      やすらぎは雨過天青の白芙蓉     季 己

2010年09月05日 21時15分07秒 | Weblog
          田中の法蔵寺にて
        刈跡や早稲かたがたの鴫の声     芭 蕉

 景に即した句。発想の根底には、『笈日記』にいう「閑をもとむ」という心があったものであろう。中七は屈折した表現になっているが、この「の」は、小休止する気持ちをこめて味わうのがよいと思う。

 「田中の法蔵寺」は、名古屋市西区にある。
 「かたがた」は「方方」で、ところどころの意。

 「早稲」も「鴫」も秋季であるが、ここは鴫が強くはたらく。鴫は、田や水辺にいて、胸と腹が白い。ここは田面にやってくる習性を、句中に生かしたもの。

    「一面の稲田であるが、早稲は所々すでに刈り取られて、刈跡が目につく。
     その刈跡に早くも下り立って、鴫があわれふかい声をあげていることだ」


      立つ鴫の声まつすぐに筑波山     季 己

女木沢

2010年09月04日 22時32分57秒 | Weblog
          女木沢 桐徯興行
        秋に添うて行かばや末は小松川     芭 蕉

 女木沢(おなぎざわ)の桐徯(とうけい)亭での即興の挨拶句である。地名に秋をあしらったもので、当座の思いつきが生きて、実に気のきいた発想となっている。
 実際、川の末のほうに、小松なども目に入ってきたのではなかろうか。『奥の細道』の「しをらしき名や小松吹く萩薄」が想い起こされる表現である。
 ただ、「秋に添うて」は巧みであるが、心敬的見地からすると、巧みさがかえっていくぶん句を弱めているようである。絵画の場合も、巧みさがかえって〈イヤラシク〉感じられ、パスすることがかなりある。

 「女木沢」は、小名木川のこと。宇奈岐沢などともいい、芭蕉庵のあった隅田川の三股と行徳とを結んでいた運河。
 「秋に添うて」は、秋により添うてというので、秋の景色・気配を愛でつつ、の意である。前書に応じて女木沢に沿うて、の意をこめていると思われる。『芭蕉句解』に、「添の字やさし」と評している。
 「小松川」は、この川の東方である。

 「秋」の雑の句。即興風の発想がそのまま挨拶となっている。

    「ものやさしい女木沢の秋に身をよせ、その秋の景色を訪ねつつ、
     この川に沿って、末は小松川まで辿り歩いてゆこうよ」


      秋はじめ画集図録が肘張つて     季 己

零余子

2010年09月03日 23時01分41秒 | Weblog
        菊の露落ちて拾へば零余子かな     芭 蕉

 露に濡れて菊が咲いている辺りに、零余子のこぼれている様を美しく詠んだものである。「落ちて拾へば」というあたり、危うきに遊ぶともいうべき発想が光っている。

 季語は「菊(の露)」で秋。「零余子」も秋季。「零余子」は、この句の場合「ぬかご」と読むが、今は「むかご」ともいう。ヤマノイモの葉の付け根に生ずる小さな珠のような肉芽のことで、形も大小とりどりである。飯に混ぜて零余子飯にする。「露」も秋季であるが、この句では「菊の露」としてはたらく。

    「菊の露がほろりと落ちた。思わずそれを拾い上げてみると、
     なんと零余子であった」


      双龍のもつるる宙の鱗雲     季 己

わりなき

2010年09月02日 20時46分55秒 | Weblog
        痩せながらわりなき菊の莟かな     芭 蕉

 「わりなき」の一語に、すべてがかかっている。痩せながらも時至って、莟をつけずにはいられない菊の姿に、いじらしさと痛々しさを感じたものであろう。ここから、「わりなき」の一語は、絞り出されたように据えられているのである。これは、こういうより何とも致し方のない、「わりなき」である。菊に滲透した芭蕉の、静かではあるが清冽な凝集の力が、じりじり動いてくるようである。

 「わりなし」は、「理(わり)なし」の意で、「他にとるべき方法がない」とか、「やむを得ない」の意にも使う。ここでは、菊が時至って、やむにやまれぬ力で莟を持つに至ったことへの、ゆらいでいる芭蕉の気持ちを表している。

 季語は「菊」で秋。菊に滲透した芭蕉の内にあるものが、滲み出た把握となっている。

    「痩せて花を持つことも出来まいと見えていた菊に、痩せながらも、
     莟がつきはじめた。時至って、止むに止まれぬ力に動かされている
     姿は、痛ましくも切ない感じである」


      秋暁や玄関番に「雨後」掛けて     季 己

盆踊

2010年09月01日 16時46分24秒 | Weblog
          英一蝶が画に賛のぞまれて
        四五人に月落ちかゝるをどり哉     蕪 村

 昔の盆踊は、ずいぶんと賑わしいものであった。所定の踊り場から流れ出て、町々を練ってゆくことさえ珍しくなかった。
 この句は、そういう踊りが終幕に近づいた頃の、興奮の冷めた侘びしいありさまを詠んだものである。もともと英一蝶(はなぶさいっちょう)の略画をそのまま句にしたものであるから、克明に実際の情景へ移しかえてみる必要はなかろう。
 「文字による気軽な画面」として鑑賞すればよいのではないか。われわれがよく目にする編み笠姿のもの、中間姿のもの、腰紐姿のもの四、五人が、手を挙げ足を挙げている、あの画面である。

 「英一蝶」は、はじめ多賀朝湖と称したが、幕府の忌諱(きき)に触れ、三宅島に遠島。赦免後、英一蝶と改名。江戸中期の画家で、狩野安信に学び、人物・花鳥にすぐれ、やがて独自の軽妙洒脱な略画を創始、俳諧もよくした。

 季語は「をどり」(盆踊)で秋。

    「踊り場すべて人で埋まり、唄の声、太鼓の音で沸き立つようであった。
     それが夜の更けるとともに、一人消え、二人消えして、今は、よほど
     暢気な者と、よほど踊り好きな者とが四、五人残っているだけである。
     月ももう傾いて、黄色く濁ったような光を投げているが、この一群は
     なお、さす手ひく手を止めようともしない」


 ――九月一日ごろは、立春から数えて二百十日目に当たる。このころは気象の変化により暴風雨になることが多い。ちょうど稲の開花期でもあることから、農村では心構えをし、「厄日(やくび)」とした。
 富山八尾では今日から三日間、「おわら風の盆」が行なわれる。

 俳人また画家として有名な蕪村。はたして俳諧と画業のどちらの収入が多いか調べてみよう。その暮らしぶりを残された手紙から追うのが一番。
 俳諧による収入としては、月謝・評点料・本の代金など、さまざまな種類がある。そのうちで門人に宛てた手紙から、次のような場合の収入額がわかる。ただ当時の一両が、現在のいくらに相当するか、よくわからない。
 貨幣博物館のHPによると、江戸中期の一両は、米なら4万円、賃金なら30~40万円、そば代なら12~13万円とのこと。これらを勘案し、わかりやすくするために、一両を20万円として計算することにする。
 月謝は書いてないが、月謝のほかの季節ごとの謝礼が2万5千円。俳書・刷物への入句料は、両吟歌仙一巻が5万円、発句一つが6千円、といった金額が見られる。
 一方、画業による収入は、本格的な南画の染筆料が70万円、12枚組の押し絵屏風用の画作が72万円と、俳諧にくらべてはるかに高額となっている。
 さらに面白いのは、現金の必要な年末には、値引きをしてでも絵を売ろうとする手紙があるなど、暮らしの中では、収入源として絵に比重がかかっていたことがわかる。
 ただ、俳諧と画業とがまったく別物ではなかったことは、留意しておきたい。蕪村に絵を描いてもらうために、俳諧の弟子になった者も少なからずいたようだ。
 「こんな暇があったら、画業に精を出せばもっと儲かるのに……」と、嘆きとも愚痴ともとれる本音?を漏らしながら、俳諧に力を注ぐことを楽しんでいる蕪村の姿もうかがえる。

      たつぷりの年金は夢 厄日来る     季 己