痩せながらわりなき菊の莟かな 芭 蕉
「わりなき」の一語に、すべてがかかっている。痩せながらも時至って、莟をつけずにはいられない菊の姿に、いじらしさと痛々しさを感じたものであろう。ここから、「わりなき」の一語は、絞り出されたように据えられているのである。これは、こういうより何とも致し方のない、「わりなき」である。菊に滲透した芭蕉の、静かではあるが清冽な凝集の力が、じりじり動いてくるようである。
「わりなし」は、「理(わり)なし」の意で、「他にとるべき方法がない」とか、「やむを得ない」の意にも使う。ここでは、菊が時至って、やむにやまれぬ力で莟を持つに至ったことへの、ゆらいでいる芭蕉の気持ちを表している。
季語は「菊」で秋。菊に滲透した芭蕉の内にあるものが、滲み出た把握となっている。
「痩せて花を持つことも出来まいと見えていた菊に、痩せながらも、
莟がつきはじめた。時至って、止むに止まれぬ力に動かされている
姿は、痛ましくも切ない感じである」
秋暁や玄関番に「雨後」掛けて 季 己
「わりなき」の一語に、すべてがかかっている。痩せながらも時至って、莟をつけずにはいられない菊の姿に、いじらしさと痛々しさを感じたものであろう。ここから、「わりなき」の一語は、絞り出されたように据えられているのである。これは、こういうより何とも致し方のない、「わりなき」である。菊に滲透した芭蕉の、静かではあるが清冽な凝集の力が、じりじり動いてくるようである。
「わりなし」は、「理(わり)なし」の意で、「他にとるべき方法がない」とか、「やむを得ない」の意にも使う。ここでは、菊が時至って、やむにやまれぬ力で莟を持つに至ったことへの、ゆらいでいる芭蕉の気持ちを表している。
季語は「菊」で秋。菊に滲透した芭蕉の内にあるものが、滲み出た把握となっている。
「痩せて花を持つことも出来まいと見えていた菊に、痩せながらも、
莟がつきはじめた。時至って、止むに止まれぬ力に動かされている
姿は、痛ましくも切ない感じである」
秋暁や玄関番に「雨後」掛けて 季 己