壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

盆踊

2010年09月01日 16時46分24秒 | Weblog
          英一蝶が画に賛のぞまれて
        四五人に月落ちかゝるをどり哉     蕪 村

 昔の盆踊は、ずいぶんと賑わしいものであった。所定の踊り場から流れ出て、町々を練ってゆくことさえ珍しくなかった。
 この句は、そういう踊りが終幕に近づいた頃の、興奮の冷めた侘びしいありさまを詠んだものである。もともと英一蝶(はなぶさいっちょう)の略画をそのまま句にしたものであるから、克明に実際の情景へ移しかえてみる必要はなかろう。
 「文字による気軽な画面」として鑑賞すればよいのではないか。われわれがよく目にする編み笠姿のもの、中間姿のもの、腰紐姿のもの四、五人が、手を挙げ足を挙げている、あの画面である。

 「英一蝶」は、はじめ多賀朝湖と称したが、幕府の忌諱(きき)に触れ、三宅島に遠島。赦免後、英一蝶と改名。江戸中期の画家で、狩野安信に学び、人物・花鳥にすぐれ、やがて独自の軽妙洒脱な略画を創始、俳諧もよくした。

 季語は「をどり」(盆踊)で秋。

    「踊り場すべて人で埋まり、唄の声、太鼓の音で沸き立つようであった。
     それが夜の更けるとともに、一人消え、二人消えして、今は、よほど
     暢気な者と、よほど踊り好きな者とが四、五人残っているだけである。
     月ももう傾いて、黄色く濁ったような光を投げているが、この一群は
     なお、さす手ひく手を止めようともしない」


 ――九月一日ごろは、立春から数えて二百十日目に当たる。このころは気象の変化により暴風雨になることが多い。ちょうど稲の開花期でもあることから、農村では心構えをし、「厄日(やくび)」とした。
 富山八尾では今日から三日間、「おわら風の盆」が行なわれる。

 俳人また画家として有名な蕪村。はたして俳諧と画業のどちらの収入が多いか調べてみよう。その暮らしぶりを残された手紙から追うのが一番。
 俳諧による収入としては、月謝・評点料・本の代金など、さまざまな種類がある。そのうちで門人に宛てた手紙から、次のような場合の収入額がわかる。ただ当時の一両が、現在のいくらに相当するか、よくわからない。
 貨幣博物館のHPによると、江戸中期の一両は、米なら4万円、賃金なら30~40万円、そば代なら12~13万円とのこと。これらを勘案し、わかりやすくするために、一両を20万円として計算することにする。
 月謝は書いてないが、月謝のほかの季節ごとの謝礼が2万5千円。俳書・刷物への入句料は、両吟歌仙一巻が5万円、発句一つが6千円、といった金額が見られる。
 一方、画業による収入は、本格的な南画の染筆料が70万円、12枚組の押し絵屏風用の画作が72万円と、俳諧にくらべてはるかに高額となっている。
 さらに面白いのは、現金の必要な年末には、値引きをしてでも絵を売ろうとする手紙があるなど、暮らしの中では、収入源として絵に比重がかかっていたことがわかる。
 ただ、俳諧と画業とがまったく別物ではなかったことは、留意しておきたい。蕪村に絵を描いてもらうために、俳諧の弟子になった者も少なからずいたようだ。
 「こんな暇があったら、画業に精を出せばもっと儲かるのに……」と、嘆きとも愚痴ともとれる本音?を漏らしながら、俳諧に力を注ぐことを楽しんでいる蕪村の姿もうかがえる。

      たつぷりの年金は夢 厄日来る     季 己