壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

観念の句

2010年09月17日 22時34分27秒 | Weblog
        僧朝顔幾死に返る法の松     芭 蕉

 僧・朝顔の上に幾たびも変遷する姿を見、それと対比して松の永久の姿を讃えたもの。
 しかし、対象をそのものとして純粋に生かすことをせず、予測された観念にしたがって詠み出しただけの句のように思える。そのために、感合滲透の深みを欠いた作に終わってしまったもの。
 『野ざらし紀行』に、
        「二上山(ふたかみやま)当麻寺(たいまでら)に詣でて、
         庭上(ていしょう)の松を見るに、およそ千歳を経たるな
         らむ、大いさ牛をかくすとも云ふべけむ。彼(かれ)非情
         といへども、仏縁にひかれて、斧斤(ふきん)の罪をまぬ
         がれたるぞ幸にしてたつとし」
 とあって出ている。貞享元年作。

 「僧朝顔」は、僧と朝顔と並列にとるのが通説。並列でなく、僧は朝顔のごとくはかない意ともとれるが、ここは通説に従っておく。
 「法(のり)の松」は、伐られることなく生きつづけている老松を、仏法の縁でこういったもの。
 なお紀行文中の「大いなる牛をかくす」および「斧斤の罪」云々は『荘子』によったもの。
 「非情」は、草木などの心なきもの。
 「斧斤の罪」は、斧で伐り倒されること。

 季語は「朝顔」で秋。松に対比して、はかなさを強調して用いられている。

    「当麻寺の庭上に、老松が千年の齢を重ねてそびえている。思えば、
     この寺の僧は、幾度生死を重ね、また、この松のあたりに這いまつ
     わっている朝顔は、さらに命はかなく幾度咲きかわったことであろ
     う。それらのはかなさにくらべ、この老松は仏縁を得ることによっ
     て、伐り倒されることもなく、仏法の永遠を象徴するかのように、
     長寿を保っていて、まことに尊いことである」


      点滴の延びてあさがほ瑠璃紺に     季 己