何喰うて小家は秋の柳蔭 芭 蕉
この句は、元禄十二年刊の『茶の草子』の他には出ていない。したがって年代未詳の句である。
「何喰うて」という発想の性格からみて、初期や中期のものではないようである。晩年の作と見えるので、元禄六年ごろを想定している。
「何喰うて」は、決して小家の生活をさげすんだものではない。「秋深き隣は何をする人ぞ」に一脈通じるものがあるようだ。ちなみに蕪村にも、「凩(こがらし)や何に世渡る家五軒」の作がある。
「何喰うて」の心のたどりゆく筋には、生きてゆくことのあわれさを深く感じているところが見える。
秋の句。「秋の柳蔭」で秋の季を生かしている。柳には「柳散る」という秋の季語もある。
「散り初めた秋の柳の蔭に、一軒の小家が忘れられたようにある。
この侘びしい小家の人は、何をたつきとしているとも見えず、
ひっそりとしている。いったい何を食い、何をしてその日を送っ
ているのであろうか」
散る柳うけていとしむ老夫婦 季 己
この句は、元禄十二年刊の『茶の草子』の他には出ていない。したがって年代未詳の句である。
「何喰うて」という発想の性格からみて、初期や中期のものではないようである。晩年の作と見えるので、元禄六年ごろを想定している。
「何喰うて」は、決して小家の生活をさげすんだものではない。「秋深き隣は何をする人ぞ」に一脈通じるものがあるようだ。ちなみに蕪村にも、「凩(こがらし)や何に世渡る家五軒」の作がある。
「何喰うて」の心のたどりゆく筋には、生きてゆくことのあわれさを深く感じているところが見える。
秋の句。「秋の柳蔭」で秋の季を生かしている。柳には「柳散る」という秋の季語もある。
「散り初めた秋の柳の蔭に、一軒の小家が忘れられたようにある。
この侘びしい小家の人は、何をたつきとしているとも見えず、
ひっそりとしている。いったい何を食い、何をしてその日を送っ
ているのであろうか」
散る柳うけていとしむ老夫婦 季 己