澗水湛如藍
朝顔や一輪深き淵のいろ 蕪 村
「や」の切れ字が利いている。「朝顔の一輪深き淵のいろ」では、ある一輪についてその色の事実を説明しただけのことになる。最初に「朝顔や」と朝顔一般の麗しさを強調しておいて、さてその後へ、「一輪……」と出るので、その一論が、朝顔の美の代表者であるかのごとき、また、その一輪へ朝顔の美が集中したかのごとき感を起こさせる。
「一輪深き淵のいろ」は、助詞を省いて先の名詞が直ちに後の名詞に接している点、
夕風や水青鷺の脛をうつ 蕪 村
の中七・下五の表現と同一である。
「一輪深き」というところに、一種の錯覚的な気分の交流があって、その一輪が深淵そのものの象徴であるかのごとき静寂と澄明の感を呼び起こすのである。
また、花そのものの色彩感を鮮やかに巧みに描き出した句である。
先週、「画廊宮坂」で個展を開かれた花岡哲象先生の「朝顔」が、この句の朝顔ではないかと、ふとそんなことを思った。
なお、前書の「澗水湛如藍」は、『碧巌録』中の句であって、「渓の水が深くたたえて藍のようだ」という意。
季語は「朝顔」で秋。
「朝顔の花のなんと好ましいこと。ことにこの一輪こそは、円かな形をしずかに
保ち、色も底知れぬ淵そのもののように、濃い藍色をたたえている」
朝顔や千代女嫌ひで蕪村好き 季 己
朝顔や一輪深き淵のいろ 蕪 村
「や」の切れ字が利いている。「朝顔の一輪深き淵のいろ」では、ある一輪についてその色の事実を説明しただけのことになる。最初に「朝顔や」と朝顔一般の麗しさを強調しておいて、さてその後へ、「一輪……」と出るので、その一論が、朝顔の美の代表者であるかのごとき、また、その一輪へ朝顔の美が集中したかのごとき感を起こさせる。
「一輪深き淵のいろ」は、助詞を省いて先の名詞が直ちに後の名詞に接している点、
夕風や水青鷺の脛をうつ 蕪 村
の中七・下五の表現と同一である。
「一輪深き」というところに、一種の錯覚的な気分の交流があって、その一輪が深淵そのものの象徴であるかのごとき静寂と澄明の感を呼び起こすのである。
また、花そのものの色彩感を鮮やかに巧みに描き出した句である。
先週、「画廊宮坂」で個展を開かれた花岡哲象先生の「朝顔」が、この句の朝顔ではないかと、ふとそんなことを思った。
なお、前書の「澗水湛如藍」は、『碧巌録』中の句であって、「渓の水が深くたたえて藍のようだ」という意。
季語は「朝顔」で秋。
「朝顔の花のなんと好ましいこと。ことにこの一輪こそは、円かな形をしずかに
保ち、色も底知れぬ淵そのもののように、濃い藍色をたたえている」
朝顔や千代女嫌ひで蕪村好き 季 己