箱根越す人も有るらし今朝の雪 芭 蕉
挨拶のこころがある句である。こういう想像をする底には、自分の身を置いているところの、人々の暖かさを感じている気持ちがあるからだ。
「あるらし」は「あるらん」とか、「あるべし」とかいう表現よりも、もっと身近にそれを感じている気持ちである。
『笈の小文』に、「蓬左(ほうさ)の人々にむかひとられて、しばらく休息する程」とあって出る。「蓬左」は、熱田神宮を蓬莱宮というので、熱田の左(西方)の地、熱田から名古屋一帯の称。
「蓬左の人々」とは、越人など尾張の弟子たちをさす。
貞享四年(1687)十二月四日の作。
季語は「今朝の雪」で冬。
「今朝起き出してみると、いちめん目をみひらかせるような雪である。今頃、自分がかつて越えて
きた、あの箱根の険路(けんろ)を、越える人もあるであろう」
雪晴れや埴輪の巫女は腰かけて 季 己
挨拶のこころがある句である。こういう想像をする底には、自分の身を置いているところの、人々の暖かさを感じている気持ちがあるからだ。
「あるらし」は「あるらん」とか、「あるべし」とかいう表現よりも、もっと身近にそれを感じている気持ちである。
『笈の小文』に、「蓬左(ほうさ)の人々にむかひとられて、しばらく休息する程」とあって出る。「蓬左」は、熱田神宮を蓬莱宮というので、熱田の左(西方)の地、熱田から名古屋一帯の称。
「蓬左の人々」とは、越人など尾張の弟子たちをさす。
貞享四年(1687)十二月四日の作。
季語は「今朝の雪」で冬。
「今朝起き出してみると、いちめん目をみひらかせるような雪である。今頃、自分がかつて越えて
きた、あの箱根の険路(けんろ)を、越える人もあるであろう」
雪晴れや埴輪の巫女は腰かけて 季 己