壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

百済野

2009年03月19日 20時31分07秒 | Weblog
                  山部赤人        
        百済野の 萩の古枝に 春待つと
          居りしうぐひす 鳴きにけむかも  (『萬葉集』巻八)

 「百済野」は、百済(くだら)からの帰化人が住みついていたからの名であろう。いま、奈良県北葛城郡広陵町百済に、その名がある。
 百済とよばれる地は、葛城川と広瀬川にはさまれたところにある。ここはむかし応神天皇のときに、朝鮮の百済の人々が来朝して、帰化し居住したところである。また、このあたりに百済池および百済宮址が存在していた。
 百済大寺の址は、いまも田野の中に残っているが、その昔、日本書紀によれば、舒明天皇十一年(639)この地に百済大宮を築き、さらに百済大寺を建立し、その中に九重塔を建てて、三百戸の封を施入されている。
 むかしは百済野といって、野があちこちにあったらしく、『萬葉集』巻八に収められているのが、「百済野の」の歌なのである。

 この歌は空想歌である。もちろん作者は、百済野の萩が記憶の中にあったろう。だが、その萩の古枝(ふるえ)に、春待ち顔に止まっていた冬鶯というのは、ありそうな景色を構えだしたのである。
 赤人は、前に見た景色の記憶を鮮やかに呼び起こすことに長けていた。だが、この萩の古枝の鶯は、優美な構図をそこに趣味的に作り上げてしまったもののようだ。平安朝以降の屏風歌、つまり、屏風絵に合わせて貼られた色紙形に書かれた歌などに多く見られる態度の先蹤というべきである。それは俳句でいう、配合・趣向にまでつながる。「居りしうぐひす」などと言いながら、信用させない。詩人は見てきたような嘘をつく。

 作者にとっては、どこの鶯でもよかったに違いない。萩の古枝の鶯も記憶にあったと思う。百済野という土地の限定が、フィクションだったのかも知れない。
 百済野はこの歌の「花」であり、「萩の古枝に春待つと」が「実」なのである。この土地の名には、百済大寺の衰微についての感慨も流れていよう。萩の古枝は、葉が枯れ落ちた裸の枝、そこに冬鶯が餌をあさっていたという、荒涼たる冬景色が記憶にあった。その鶯にも春がやって来たことだろうと、あたたかく想像しているのである。

 「鳴きにけむかも」の「けむ」は、文法的には過去の想像であって、その通り訳せば、「鳴いたっけな」ということになる。しかし、「けり」と大差なく使われていることが多い。けれども、「鳴きにけむ」は、鳴いたということを直接に経験したら言えないはずである。だから、この数日間の暖かさを経験した作者が、これならもう鶯が鳴き出したことだろうな、と想像しているのである。
 その鶯は、萩の、去年のままの枯れた枝に止まっているのを作者が見たことがあるので、その鶯を、春の来るのを待っているのだと作者はうけとったのだ。その鶯に思いをはせているわけで、そこにこの歌の特殊性がある。

 しかし、こういう想像は、赤人の場合、やがて、

   「春の野に すみれ摘みにと 来し吾ぞ 野をなつかしみ ひと夜寝にける」(『萬葉集』巻八)

 野のなつかしさにひと夜そこに寝た、というのは嘘である。そして、そういう生活が優美で文学的な生活だと、赤人は考えているのである。しかも、こういうねらいを持ったものが文学だとして、尊ばれるようになっていった。後世、赤人が、人麻呂と並んで歌聖としてもてはやされたのは、このような歌の作者としての赤人であった。


      黄水仙 切口上の女かな     季 己