宗因風つまり談林派の特色の第一は、貞門風と同じ言語技巧を土台としながら、その利用法を変革した新手法によって、きわめて強烈な滑稽味を出すことに成功した点にある。
それは宗因が『守武千句』の作風に学び実践した、きわめて特徴的な滑稽表現の手法で、そのため守武流儀の宗因風とさえ呼ばれて、宗因風最大の特質をなすものであった。
守武流儀とは要するに、“意外性”を原理とした笑いの仕掛けである。優雅な古典や謡曲の文句を、急に俗世界に転落もしくは交錯させる違和感、卑俗にもじるパロディー、非現実の空言で意表をつく手法などが最も多く行なわれたが、根本は常識観念の裏をかく機知のおかしみにあった。
西鶴などが軽口と呼び、惟中(いちゅう)が寓言俳諧と称して盛んに喧伝したのもみなこの作風の別称というべきものである。そこには、貞門の鈍重不徹底な笑いの比肩を許さぬ絶妙の滑稽的表現効果があり、これが時代の好みにうまく合致して歓迎され、宗因風談林の一時代を現出させる最大の原動力となったのである。
軽口にまかせてなけよほとゝぎす 西 鶴
この句には、その成立事情を示す長い前書きがついている。
それによると、寛文七年(1677)の夏、伏見の西岸寺に任口上人(にんこうしょうにん)を訪ねた際、ちょうどそこに居合わせた淀の人の所望で、任口が一句を詠んだ。その口裏を察して、任口への挨拶に詠んだのがこの句である。
その夜、大坂八軒屋までの下りの舟の中で、この句を立句に百韻一巻を完了したというのである。
表面の意は、「ほととぎすよ、軽妙な口調で鳴いてくれ」というにすぎないが、「軽口」には、宗因流の軽口俳諧が寓意され、また「口にまかせて」に、「口に任せて」つまり、「任口」の二字が詠みこまれている。季語は「ほとゝぎす」で夏。
この百韻は、宗因の批点にゆだねられ、発句に長点(=すぐれたものにつけられる点)と「ほととぎすも追付きがたくや」のほめことばを得た。「ほととぎすの軽口でさえ追付きがたいほど、あなたの軽口はよどみがありません」という意であろう。
淀川を下る三十石舟の所要時間は、六時間ほどであるから、一句あたり四分弱というスピードであるが、八軒屋到着と同時に「あげ句のはては大坂の春」と、巻きおさめる手際のよさはちょっと信じがたい。フィクションのように思えるのは、ひがみからかもしれない……。
なお、この百韻の付合一組が、寛文七年(1667)刊の惟中著『俳諧蒙求(もうぎゅう)』に抄録されているから、宗因の批点を得てのち間もなく刊行されたものであろうか。ちなみに、これが西鶴の連句作品の初見であり、また、宗因入門の時期を推定させる資料でもある。
くちばしの魚ひかりゐる春かもめ 季 己
それは宗因が『守武千句』の作風に学び実践した、きわめて特徴的な滑稽表現の手法で、そのため守武流儀の宗因風とさえ呼ばれて、宗因風最大の特質をなすものであった。
守武流儀とは要するに、“意外性”を原理とした笑いの仕掛けである。優雅な古典や謡曲の文句を、急に俗世界に転落もしくは交錯させる違和感、卑俗にもじるパロディー、非現実の空言で意表をつく手法などが最も多く行なわれたが、根本は常識観念の裏をかく機知のおかしみにあった。
西鶴などが軽口と呼び、惟中(いちゅう)が寓言俳諧と称して盛んに喧伝したのもみなこの作風の別称というべきものである。そこには、貞門の鈍重不徹底な笑いの比肩を許さぬ絶妙の滑稽的表現効果があり、これが時代の好みにうまく合致して歓迎され、宗因風談林の一時代を現出させる最大の原動力となったのである。
軽口にまかせてなけよほとゝぎす 西 鶴
この句には、その成立事情を示す長い前書きがついている。
それによると、寛文七年(1677)の夏、伏見の西岸寺に任口上人(にんこうしょうにん)を訪ねた際、ちょうどそこに居合わせた淀の人の所望で、任口が一句を詠んだ。その口裏を察して、任口への挨拶に詠んだのがこの句である。
その夜、大坂八軒屋までの下りの舟の中で、この句を立句に百韻一巻を完了したというのである。
表面の意は、「ほととぎすよ、軽妙な口調で鳴いてくれ」というにすぎないが、「軽口」には、宗因流の軽口俳諧が寓意され、また「口にまかせて」に、「口に任せて」つまり、「任口」の二字が詠みこまれている。季語は「ほとゝぎす」で夏。
この百韻は、宗因の批点にゆだねられ、発句に長点(=すぐれたものにつけられる点)と「ほととぎすも追付きがたくや」のほめことばを得た。「ほととぎすの軽口でさえ追付きがたいほど、あなたの軽口はよどみがありません」という意であろう。
淀川を下る三十石舟の所要時間は、六時間ほどであるから、一句あたり四分弱というスピードであるが、八軒屋到着と同時に「あげ句のはては大坂の春」と、巻きおさめる手際のよさはちょっと信じがたい。フィクションのように思えるのは、ひがみからかもしれない……。
なお、この百韻の付合一組が、寛文七年(1667)刊の惟中著『俳諧蒙求(もうぎゅう)』に抄録されているから、宗因の批点を得てのち間もなく刊行されたものであろうか。ちなみに、これが西鶴の連句作品の初見であり、また、宗因入門の時期を推定させる資料でもある。
くちばしの魚ひかりゐる春かもめ 季 己