壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

餓鬼の後(しりへ)

2009年03月10日 22時38分43秒 | Weblog
                笠 女郎
        相思はぬ 人を思ふは 大寺の
          餓鬼の後に ぬかづくがごと (『萬葉集』巻四)

 笠女郎(かさのいらつめ)が、大伴家持(おおとものやかもち)に贈ったものである。
 「大寺の餓鬼」というのは、新しい素材であった。当時、飛鳥・斑鳩・藤原・奈良などに、しきりに大寺が建てられ、種々の餓鬼が画図として描かれ、あるいは彫像などとして据えられ、ひとびとに強い印象を与えたのであろう。

 「わたしの愛にこたえて、あなたはわたしのことをちっとも思ってくれない。そういう思ってもくれない人を思うなんて、大寺の伽藍の中に飾ってある餓鬼像を、しかも後ろからひれ伏して拝むようなものではありませんか」というので、才気のまさった諧謔の歌である。

 仏教の盛んな時代であるから、才気の豊かな女性たちは、このくらいのことは常に言ったかも知れないが、後代のわれわれには、やはり諧謔的に心の働いた面白いものである。女の語気を直接に聞き得るように感じられる。
 片恋を恨んでいる女の歌だが、別にそう深刻なものではない。まったく効果がないことを言って、もう少しわたしの思いに応えてくれたらどうかと、軽口をたたいているような感じがする。

 こういう歌が始まりになって、やがて歌の上の遊戯になってゆく。
    行く水に数かくよりもはかなきは 思はぬ人を思ふなりけり(古今集)
    鳥の子を十づつ十は重ぬとも 思はぬ人を思ふものかは(古今六帖)
 思わぬ人を一方的に思うことのあじきなさ、すべなさの方向にすすまず、たとえの軽妙さの方に重点を置いている。
 やや気持の冷めてきた男に対して、ああも言い、こうも言い、怨み、嘆き、すかしつつといった女歌の技巧の限りをつくして、家持に贈った二十四首のうちの一首が、この歌なのである。

 『萬葉集』巻十六に、
    寺々の女餓鬼申さく大神の 男餓鬼賜りてその子生まはむ
 というのがある。だが笠女郎の「大寺の餓鬼」の歌は、ことさら滑稽をねらった歌ではなかろう。
 この世に悪業を積んで、餓鬼道に堕ちた亡者が、餓鬼である。仏菩薩のような礼拝の対象でなく、見せしめに置いてある餓鬼の彫像の、そのうしろに頭を下げるという、愚かしい努力を自分はしている、というのだ。
 表現は激しいが、激情をこめた歌ではない。相手の度肝を抜こうとしたのだ。生煮えの男の態度に、どぎつい言葉をぶつけたのだ。ことさらそういう表現を選んだことに、かえってこの歌の軽みが感じられる。


      山門の邪鬼の見上ぐる春の月     季 己