鶯や下駄の歯につく小田の土 凡 兆
ようやく春になり、いままで凍てついていた田んぼの畦道も凍て解けで、
土がぬかるんで下駄の歯にくっついて歩きにくい。そんな畦道を歩いている
と、近くの藪か木立で、鶯の鳴く声が聞こえてきた。
凡兆は、加賀金沢の人で、京に出て医を業とした。俳号は初め加生、元禄四年(1691)に凡兆と改号した。元禄元年十月二十日以降、京・大津で其角・去来・尚白らと詠句しているので、このころ京へ出てきたものと思われる。
元禄三年九月の芭蕉書簡に「加生老」とあるので、芭蕉に近い年齢であろう。其角の手引きで、このころ芭蕉に入門したらしい。
翌年、去来と『猿蓑』の編者になる。『猿蓑』の凡兆の句は、当時の芭蕉の方針に適った秀句が多く傑出するが、九月以降、芭蕉に離反し、詠句も低調になる。
元禄六年ごろ罪を得、下獄後は旧友と交渉も少なく、正徳四年(1714)春、難波にて没。
凡兆は、元禄三年秋から四年春ごろは、京・大津あたりに滞在していたから、そのあたりの田園の実景であろう。
『篇突(へんつき)』に、芭蕉が「時鳥は言ひ当てることもあるべし。鶯はなかなか成りがたかるべし」と、語ったことが記されている。
凡兆のこの句は、伝統的な素材である「鶯」を、「下駄の歯につく小田の土」が受けて、早春の感を巧みに捉えている。ぬかり道を歩く困難さがあるものの、春を喜ぶ心が感じられる。
春夕焼つきせぬ思ひあるやうに 季 己
ようやく春になり、いままで凍てついていた田んぼの畦道も凍て解けで、
土がぬかるんで下駄の歯にくっついて歩きにくい。そんな畦道を歩いている
と、近くの藪か木立で、鶯の鳴く声が聞こえてきた。
凡兆は、加賀金沢の人で、京に出て医を業とした。俳号は初め加生、元禄四年(1691)に凡兆と改号した。元禄元年十月二十日以降、京・大津で其角・去来・尚白らと詠句しているので、このころ京へ出てきたものと思われる。
元禄三年九月の芭蕉書簡に「加生老」とあるので、芭蕉に近い年齢であろう。其角の手引きで、このころ芭蕉に入門したらしい。
翌年、去来と『猿蓑』の編者になる。『猿蓑』の凡兆の句は、当時の芭蕉の方針に適った秀句が多く傑出するが、九月以降、芭蕉に離反し、詠句も低調になる。
元禄六年ごろ罪を得、下獄後は旧友と交渉も少なく、正徳四年(1714)春、難波にて没。
凡兆は、元禄三年秋から四年春ごろは、京・大津あたりに滞在していたから、そのあたりの田園の実景であろう。
『篇突(へんつき)』に、芭蕉が「時鳥は言ひ当てることもあるべし。鶯はなかなか成りがたかるべし」と、語ったことが記されている。
凡兆のこの句は、伝統的な素材である「鶯」を、「下駄の歯につく小田の土」が受けて、早春の感を巧みに捉えている。ぬかり道を歩く困難さがあるものの、春を喜ぶ心が感じられる。
春夕焼つきせぬ思ひあるやうに 季 己