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壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

うぐいす

2009年03月16日 23時06分01秒 | Weblog
        鶯や下駄の歯につく小田の土     凡 兆

   ようやく春になり、いままで凍てついていた田んぼの畦道も凍て解けで、
  土がぬかるんで下駄の歯にくっついて歩きにくい。そんな畦道を歩いている
  と、近くの藪か木立で、鶯の鳴く声が聞こえてきた。

 凡兆は、加賀金沢の人で、京に出て医を業とした。俳号は初め加生、元禄四年(1691)に凡兆と改号した。元禄元年十月二十日以降、京・大津で其角・去来・尚白らと詠句しているので、このころ京へ出てきたものと思われる。
 元禄三年九月の芭蕉書簡に「加生老」とあるので、芭蕉に近い年齢であろう。其角の手引きで、このころ芭蕉に入門したらしい。
 翌年、去来と『猿蓑』の編者になる。『猿蓑』の凡兆の句は、当時の芭蕉の方針に適った秀句が多く傑出するが、九月以降、芭蕉に離反し、詠句も低調になる。
 元禄六年ごろ罪を得、下獄後は旧友と交渉も少なく、正徳四年(1714)春、難波にて没。

 凡兆は、元禄三年秋から四年春ごろは、京・大津あたりに滞在していたから、そのあたりの田園の実景であろう。
 『篇突(へんつき)』に、芭蕉が「時鳥は言ひ当てることもあるべし。鶯はなかなか成りがたかるべし」と、語ったことが記されている。
 凡兆のこの句は、伝統的な素材である「鶯」を、「下駄の歯につく小田の土」が受けて、早春の感を巧みに捉えている。ぬかり道を歩く困難さがあるものの、春を喜ぶ心が感じられる。


      春夕焼つきせぬ思ひあるやうに     季 己

心残り

2009年03月15日 20時25分01秒 | Weblog
 「残心(ざんしん)」ということばがある。『広辞苑』には、
   ①心のこり。みれん。
   ②剣道で、撃突した後、敵の反撃に備える心の構え。
    弓道で矢を射放した後の反応にこたえる構え。
 とあるが、どうやら茶の湯の用語であるらしい。
 室町後期の茶人、武野紹鷗によると、
 「道具置きつけ、帰る手は恋しき人と別るると知れ」という、この“こころもち”を「残心」というようである。また、紹鷗は、道具を取る場合よりも、置くときに、より綿密であれと教える。そこに、残心と言われるゆえんがあるように思う。

 『茶道辞典』には、
 「率直にいえば、名残り惜しさともいえる。互いに心を残しつつたもとを分つことに用う。(中略)にじり口を境に辞し去る気持こそ一会(いちえ)の茶事の要訣」と解説されている。
 残心は、人だけではなく、道具にまで及ぶと言っているのだ。さらに、惜別や綿密の心情とともに、おのおのの心中に別離の後も残されて、いまなお脈動している師や親兄弟や友の願いや思い、さらに道具のたたずまいが、すべて残心であると、言っているのだと思う。

 『茶湯一会集』で、亭主は客の姿が見えなくなるまで見送り、そして再び炉辺に独り坐して独服するのが、一会の極意だと、井伊直弼は教える。そうして「このとき、寂寞として打語らふものとては釜一口のみにして、外に物なし。まことに自得せざれば到り難き境界なり」と結ぶ。
 実に静寂そのままで、胸奥にしみとおる思いがする。

 ところで、きょう3月15日で、「国宝 三井寺展」(東京・サントリー美術館)が終った。最終日ということで、これまで最も混雑しているように思われた。それでも、あの「薬師寺展」の90分待ちを考えれば、行列もなしにすいすいと入館できるのだから、混雑とは言えないかも知れない。
 もう当分の間、いや、わたしの生涯で二度と拝めぬかも……という思いで、秘仏中の秘仏、「国宝 智証大師坐像(御骨大師)」・「国宝 智証大師坐像(中尊大師)」・「国宝 不動明王像(黄不動尊)」・「国宝 新羅明神坐像」・「重文 不動明王立像(黄不動尊)」を、心にしっかりと焼きつけてきた。
 閉館時間まで、とも思ったが、「残心、残心」と心を鬼にして、サントリー美術館をあとにした。

 「二度と拝めぬかも」と書いたが、正確にはそんなことはない。
 「国宝 三井寺展」、大阪展と東京展は終了したが、実はまだ福岡展が残っているのだ。したがって、福岡まで出かければ拝めるのだが、年金暮らしの貧乏人には交通費が……。
 ちなみに、「国宝 三井寺展」の福岡展は、4月1日(水)から5月10日(日)まで、福岡市博物館において開催される。
 九州にお住いの方、ぜひぜひお出かけになられるよう、おすすめしたい。


      江戸彼岸 墓碑銘腕の喜三郎     季 己

風光る

2009年03月14日 23時06分44秒 | Weblog
        春の日の巷は風の光りかな     暁 台

 あと1週間足らずで、春の彼岸のお中日。「暑さ寒さも彼岸まで」ということわざが、しだいに現実感を帯びてくる。
 さんさんと降り注ぐ太陽の光りは、心の底まで晴れ晴れと照り輝かし、吹き渡る風さえ、光りに満ちた明るさを感じさせる。
 春光を吹き渡る風が、光るように感じられるさまを「風光る」といい、春の季語となっている。春の風は美しい。色彩があり、光りがあり、そして人なつっこい。

 野や山の木々の若葉も艶を増し、街の家並みさえ、背筋をしゃんと伸ばしたように晴れがましく眼に映る。

        風光る乳房未だし少女(をとめ)どち     憲 吉

 斜めに低く差していた日の光りも、だいぶ高くなってきたので、建て込んだ街中の狭い庭にも、春の陽光は惜しみなく降り注いで、ようやく蕾のふくらんだ椿が、艶やかな緑の葉をまず楽しませてくれる。
 まして、広々とした野や山や海辺の、春の快さはいうまでもない。

        風光りすなはちもののみな光る     狩 行

 風にさやぐ麦の若葉に、陽炎の立つ畑土のやわらぎに、小川の流れ、池の漣(さざなみ)、静かに寄せる海の波、峯にわかれるちぎれ雲、踏みしめて立つ足元の大地から、遠く見はるかす空の果てと、春風の訪れる世界の隅々まで、光りの波がきらきらと照り渡って、冬ごもりから抜け出したばかりのわれわれの眼を、あたかも初めてまじまじと見交わした恋人たちのそれのように、面映く恥らいがちにさせることであろう。


      手の中の誕生仏よ風光る     季 己

馬酔木

2009年03月13日 23時31分33秒 | Weblog
        石影の 見ゆる池水 照るまでに
          咲けるあしびの 散らまく惜しも

 万葉の歌人たちは、しきりに“あしび”の花、つまり“あせび”の花を歌に詠んでいる。
 それも道理、大和の国の山々には、いたるところに“馬酔木”が生い茂っている。
 馬の酔う木と漢字を当てる通り、馬などが、うっかりこの木の葉を食べると、足が起たなくなったり、涎をたらして、酔ったような状態になり、死に到ることさえあるといわれる。
 奈良には鹿がたくさん飼われて?いる。その鹿だけでなく、猪・うさぎ・馬・牛などの草食動物が、馬酔木だけは用心して葉をかじらない。そこで大和の国では、馬酔木の木が異常に繁殖したのであろう。

 春も長けてくると、まだ葉の中から、小さい蕾がちらちら覗かれるが、初夏ともなると、光るような新緑の中に、馬酔木は、鈴蘭やどうだんつつじに似た小さな白い壺形の花を鈴なりにつけて、一面に花を開く。この花が、どうしてそんなに恐ろしい毒を持っているのかと疑わしくなるほど、可憐でやさしい風情を漂わせながら……。

        来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり     秋桜子

 奈良の三笠山、生駒の山々、また東では、富士五湖や箱根のあたり、初夏の日光が降り注いで、まばゆいばかりに馬酔木の花が咲き誇ることであろう。


      馬酔木咲く崩れしままの築地塀     季 己

お水取り

2009年03月12日 20時30分34秒 | Weblog
        水取りや氷の僧の沓の音     芭 蕉

 「二月堂に参籠して、今夜は若狭井を汲むお水取りの儀式が行なわれるときなので緊張して待っていると、深夜、僧が廊をわたる沓(くつ)の音が冴えて聞こえてくる。修法にやつれているが、お松明に照らされて、緊張しきった僧が、二月の夜の余寒の中を、氷のような厳しさを感じさせながら、粛々と沓音をひびかせてやってくる」

 奈良の東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)を、俗に「お水取り」という。
 「暑さ寒さも彼岸まで」といわれるように、関西では、このお水取りがすまなければ、春の暖かさは訪れないと信じられている。
 もとは、陰暦の二月一日、今では三月一日から十五日の未明までの十四日間にわたって、国家安泰を祈祷するするのが修二会である。修二会には、東大寺の僧呂の中から選ばれた十二人の練行衆(れんぎょうしゅう)が、前の月の二十日から戒壇院に籠って精進に励む。
 いよいよ三月一日には、二月堂の石段下のお堂に移っての毎日六回のお勤めに、紺の衣をまとって、石段を登るが、特に午後七時、初夜のお勤めには、童子のかつぐ松明(たいまつ)を先頭に立てて、しずしずと登って行くので、修二会のことをまた「お松明」ともいう。

 十四日間のお勤めの中でも、特に呼び物となっているのが、三月十二日の夜に行なわれる「お水取り」なのである。この日の初夜の上堂には、特大の籠松明を炎々と燃やして進むが、周囲にぎっしりと詰めかけた参詣の善男善女は、魔除けになるというので、燃え落ちる焦げかすを拾おうと大騒ぎとなる。
 十二人の僧侶と十二本の大松明が、二月堂のまわりを一周して、お堂の角ごとで水車のように振り廻す松明からの火の粉が飛び散る壮観さ。その練行衆が入堂したあとは一転して真如の闇となる。

 ところで、芭蕉のこの句の「氷の僧」については、「籠りの僧」の誤りであろうとする説と、「氷の僧」で誤りなしとする説とがある。
 「籠り」というのは、「お水取り」の儀式の間、東大寺の僧が二月堂に参籠し、昼夜行法を行なうことで、参詣の者も仏前に宿して籠りをすることが許されている。芭蕉もこの籠りをしてこの句を作ったのであろう。
 芭蕉の真蹟をふくめ、諸本に「氷の僧」とあるので、そのままで解すべきであろう。また、氷を踏み行く沓の音ととる解もあるが、行法堅固で心身緊張し、食事もわずか一合、翌朝まで湯水を禁ずるというふうで、二月の余寒によって氷のように厳しくなった僧の姿と考える説に従った。
 この沓は、足の裏が痛まぬように履くもので、檜で作り、裏は飯粒を練って作った糊を何度も塗ったり干したりして、石のように固めてある。だからその音はきびしくいかめしいのである。
 「水取り」が季語で春であるが、よく春の季節の情(こころ)が句に浸透している。「お水取り」の句に最もふさわしい名句だと思う。


      修二会いま音もきびしく火が走る     季 己

げんげ

2009年03月11日 20時40分38秒 | Weblog
 寒々としていた冬の田が、いつのまにか緑におおわれているこの頃である。
 はこべ・げんげ・うまごやし等、冬越しの草々が、鮮やかな緑を茂らせてくる。
 ことに、麦の裏作をしない水田などでは、干し上げた冬の田に、げんげの根の根瘤(こんりゅう)バクテリアが蓄える窒素を、稲の緑肥にする目的もあって、わざわざげんげの種を蒔く。だから春には、一面に紅紫の毛氈を敷き詰めたような、美しい眺めを展開する。「げんげ」に、紫の雲の花の意の、「紫雲英」という漢字を当てるのも、もっともなことである。

 げんげは、中国が原産のマメ科の二年草だが、いつのまにか野生の状態で、日本国中に広まったものと思われる。
 茎は根元で枝分かれし、四方に広がる。葉は互生し、4~5対の小葉からなる羽状葉である。葉腋から高さ30センチほどの花茎を直立し、頂上に紅紫色の花をつける。花は、蝶形花が多数輪状に集まり、仏の坐る蓮華の座に見立てて、蓮華草の呼び方もある。一般的にはこの「れんげそう」、あるいは「れんげ」の名で親しまれている。関西の方では、それを訛って、「げんげ」というのが普通のようだ。

        野道(のぢ)ゆけばげんげんの束すててある     子 規

 春風にゆらゆらと揺れながら、紫の雲がたなびくかのように咲き誇っているげんげをを眼にすると、つい手を伸ばして摘み取りたくなる。相当たくさん摘んで花束にしても、か細い茎はすぐにしおれて、いつまでも手には持ちきれず、つい道端に捨ててしまうのが落ちである。この句がそれで、「げんげん」は「げんげ」の異称である。

          秋篠寺
        紫雲英咲く小田辺に門は立てりけり     秋桜子

 「やはり野に置けれんげ草」といわれるように、げんげは、手に摘んで愛でるものではなく、一面に咲き詰めている春の田を、遠くから眺めているのが一番であろう。しかし、田んぼの耕作技術が変化し、一面のげんげ風景を見ることも稀になってしまった。
 秋篠寺近くのげんげ田の美しい光景は、この句とともに、いつまでも忘れがたいものがある。


     てのひらにのせげんげんの濃き淡き     季 己

餓鬼の後(しりへ)

2009年03月10日 22時38分43秒 | Weblog
                笠 女郎
        相思はぬ 人を思ふは 大寺の
          餓鬼の後に ぬかづくがごと (『萬葉集』巻四)

 笠女郎(かさのいらつめ)が、大伴家持(おおとものやかもち)に贈ったものである。
 「大寺の餓鬼」というのは、新しい素材であった。当時、飛鳥・斑鳩・藤原・奈良などに、しきりに大寺が建てられ、種々の餓鬼が画図として描かれ、あるいは彫像などとして据えられ、ひとびとに強い印象を与えたのであろう。

 「わたしの愛にこたえて、あなたはわたしのことをちっとも思ってくれない。そういう思ってもくれない人を思うなんて、大寺の伽藍の中に飾ってある餓鬼像を、しかも後ろからひれ伏して拝むようなものではありませんか」というので、才気のまさった諧謔の歌である。

 仏教の盛んな時代であるから、才気の豊かな女性たちは、このくらいのことは常に言ったかも知れないが、後代のわれわれには、やはり諧謔的に心の働いた面白いものである。女の語気を直接に聞き得るように感じられる。
 片恋を恨んでいる女の歌だが、別にそう深刻なものではない。まったく効果がないことを言って、もう少しわたしの思いに応えてくれたらどうかと、軽口をたたいているような感じがする。

 こういう歌が始まりになって、やがて歌の上の遊戯になってゆく。
    行く水に数かくよりもはかなきは 思はぬ人を思ふなりけり(古今集)
    鳥の子を十づつ十は重ぬとも 思はぬ人を思ふものかは(古今六帖)
 思わぬ人を一方的に思うことのあじきなさ、すべなさの方向にすすまず、たとえの軽妙さの方に重点を置いている。
 やや気持の冷めてきた男に対して、ああも言い、こうも言い、怨み、嘆き、すかしつつといった女歌の技巧の限りをつくして、家持に贈った二十四首のうちの一首が、この歌なのである。

 『萬葉集』巻十六に、
    寺々の女餓鬼申さく大神の 男餓鬼賜りてその子生まはむ
 というのがある。だが笠女郎の「大寺の餓鬼」の歌は、ことさら滑稽をねらった歌ではなかろう。
 この世に悪業を積んで、餓鬼道に堕ちた亡者が、餓鬼である。仏菩薩のような礼拝の対象でなく、見せしめに置いてある餓鬼の彫像の、そのうしろに頭を下げるという、愚かしい努力を自分はしている、というのだ。
 表現は激しいが、激情をこめた歌ではない。相手の度肝を抜こうとしたのだ。生煮えの男の態度に、どぎつい言葉をぶつけたのだ。ことさらそういう表現を選んだことに、かえってこの歌の軽みが感じられる。


      山門の邪鬼の見上ぐる春の月     季 己

黄不動

2009年03月09日 20時20分35秒 | Weblog
 雷に撃たれたというのは、こういうことを言うのだろうか。
 脳天からビリビリしはじめ、胸から腹へと電流が流れ、両足の裏から放電されたような感じを受けた。
 「国宝 三井寺展」(サントリー美術館)で、国宝《不動明王像(黄不動尊)》を拝んでいたときのことである。

 各地の寺院に仏像をたずねるとき、みなさんはどのような態度でのぞんでおられるのであろうか。
 多くの場合、仏像を歴史的な文化財とみて、芸術的な立場から鑑賞しようとしているのではなかろうか。
 ところで、仏師、仏像制作者は、どういう動機・気持で仏像をつくるのだろうか。もちろん依頼があるからつくるのだろうが、芸術作品の創造にあるのではなく、やむにやまれぬ信仰心が、尊崇の対象として仏像を、木の中から彫り出しお迎えしているのだと思う。
 だからこそ、作者の心が、仏像という形をとおしてわれわれに強い感動を呼び起こすのである。
 仏像とは、「みる」ものではなく、「おがむ」べきものなのだ。こう確信している変人は、仏像に接するときはお数珠を手にかけるよう、心がけている。

 「三井寺展」で、最初に《黄不動尊》を拝したとき、表具が妙に気になった。本紙の黄不動に対して柱・中廻しが合っておらず、違和感を覚えたのだ。それがどうだろう、何度か通っているうちに、そんなのはどうでもよくなった。
 特に今日は、黄不動さんだけしか眼に入らず、ビリビリと脳天からしびれたというわけである。
 この絵画の黄不動さんは平安時代(9世紀)の作で、これを模刻した黄不動さんは鎌倉時代初めの作だという。模刻とはいえ、印象はずいぶん違う。慶派の手によるといわれる彫刻は、筋肉のつき方など人体に近いリアリズムを追求している。
 平安、鎌倉とそれぞれの時代に生きた人々の、仏さまに対する感じ方の違いが、よく表われているような気がする。
 ちなみに、彫刻の黄不動さんは、絵画の黄不動さんより多く拝んでいるが、まだ一度もビリビリ感はない。

 三井寺の黄不動、高野山明王院の赤不動および京都青蓮院の青不動とを総称して、日本三不動という。いずれも不動の画像として図像上および表現上に特色を持っている。
 では、《黄不動尊》にはどのような特色があるのだろうか。「国宝 三井寺展」図録の作品解説より引く。

  両眼を見開いた黄色身の不動明王が、剣とけんさくを持ち虚空を踏んで直立
 する。ほぼ等身の不動は頭光を負い巻髪、上歯で下唇を噛み左右の鋭い牙が天
 を向く。上半身は裸形、鈴や大ぶりな飾りの付く胸飾りや釧を身につけ、肥満
 した上半身に対し手足は筋骨隆々たる様が表される。帯の大きな結び目を表す
 朱の裳裾は膝上までたくし上げられ、力を込めて両足の親指を上げる。
  この特異な尊容の不動が、日本三不動とも称される黄不動尊で、円珍二十五
 歳の承和五年(838)、岩窟で修行中の眼前に現れた金色の不動を感得し、後に
 画工に描かせたという。画面から飛び出るほどの迫力、金の発色を抑えた明快
 な賦彩、細いが力強い衣文線や肉身の輪郭線など、平安初期を代表する密教画
 とするに相応しい。最近修復が行われ、唐時代の制作とする意見も出された。
 普段は厳重な秘仏で、およそ二十年ぶりの公開である。
                      (「国宝 三井寺展」図録より)


      はくれんの花芽と千手観世音     季 己

善光寺 御開帳

2009年03月08日 19時53分22秒 | Weblog
 丑年と未年の春に行なわれる善光寺御開帳。今年は、4月5日(日)~5月31日(日)の57日間にわたって開催される。

 「牛にひかれて善光寺詣り」でおなじみの国宝・善光寺の創建は、飛鳥時代の皇極天皇元年(642)という。
 推古天皇朝に草堂を営んで、三国伝来の阿弥陀如来像を本尊とし、642年に、現在の地に堂宇を造営したと伝えられている。中世以後、盛んに尊信された。現在の本堂は、宝永四年(1707)の再建という。
 現在は、天台宗の大勧進と浄土宗の大本願とによって管理される単立宗教法人である。

 宗派や男女の性別に関係なく、お参りしたすべての人を極楽浄土へ導いてくれることから、「一生に一度は善光寺詣り」といわれ、全国から参拝客が訪れている。
 前回、平成15年の御開帳は、期間中628万人の人々で賑わった。

 善光寺の御本尊・三国伝来の阿弥陀如来は、いっさい見ることが許されない絶対秘仏で、その「お身代わり」が、前立本尊である。ふだんは宝庫に安置されているが、丑と未にあたる年だけ、本堂に遷され、一般の参拝者がお参りできる。これが「御開帳」だ。
 御開帳のシンボルといえば、本堂前の大回向柱。地元の松代町から奉納された高さ10メートルの杉柱には、白い布が結ばれ、これに五色の糸と金の糸とをつないだ「善の綱」と呼ばれる一連の紐が、本堂に鎮座する前立本尊の阿弥陀如来の右手に結ばれている。
 この大回向柱に触れることで、前立本尊と握手したことになり、ご利益があるといわれ、柱の周りは参拝者で大賑わいになる。

 御開帳行事で最も盛大な儀式が、4月25日(土)、5月9日(土)の「中日庭儀大法要」である。鮮やかな衣装をまとった僧侶やお稚児さんなど、総勢約800名の行列が、本堂に向かって練り歩く光景は、まさに荘厳そのものである。極楽浄土さながらの演出で、御開帳のハイライトを盛り上げる。

 御開帳中に毎日行なわれる「御印文頂戴(ごいんもんちょうだい)」も、ありがたい儀式の一つだ。こちらは、御本尊のご分身ともいわれる宝印を頭に押していただくことで、極楽往生が約束されると言われている。

 二ヶ月間にわたってさまざま行事が行なわれる善光寺御開帳。できれば、宿坊に泊まることをおすすめする。(しかし、もう予約で一杯かもしれない)
 善光寺には現在、39の宿坊が境内に建ち並んでいる。各宿坊ごとに住職がおり、参拝者に善光寺詣りの世話をしてくださる。
 宿坊に泊まる最大の魅力は、住職や宿坊専属の公認案内人による早朝の法要「お朝事」や「お数珠頂戴」などへの案内だ。
 善光寺詣りの真髄は、日の出とともに本堂で行なわれるお朝事を参拝することと、お数珠頂戴を受けることである。宿泊者以外の参拝者も参列できるが、宿坊からの方がより充実した参拝が体験できる。
 もう一つの楽しみは、予約が必要だが、精進料理。肉類を一切使わない料理は、見た目も美しく身体にもよい。
 東京からなら、直行の夜行バスもおすすめ。ただし、こちらは体力に自信のある方に限る。
 そうだ、善光寺詣りも、定額給付金の使い道の一つかも……


      税つかふことを忘れず桃の花     季 己

『奥の細道』320年

2009年03月07日 23時16分54秒 | Weblog
 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老をむかふる者は、日々旅にして旅を栖とす」

 有名な『奥の細道』の冒頭の一節である。
 芭蕉が、芭蕉庵を人に譲り、弟子の曾良(そら)を伴ない、東北・北陸を経て、大垣までの『奥の細道』の旅に出たのが、元禄二年(1689)三月のことである。
 今年は、『奥の細道』旅立ち320年の記念?の年であるが、矢立初めの句碑のある荒川区では、いまのところ何の行事の予定もない。
 幸い、4月4日に観光ボランティアガイドの依頼があったので、そのグループの方々にだけでも、“320年記念”の年であることを知っていただきたく、計画を練っている。

        鮎の子の白魚送る別れかな     芭 蕉

   「自分はいま、心の通い合う門人やそのほかの人々に見送られて、江戸を
   離れようとしている。折しも春の末のこととて、この大川では、鮎の子が
   先に川に入った白魚を追ってのぼりはじめたころであるが、そのことが、
   いま何がなし心引かれて思いやられることである」

 留別の情が基底になっているので、この比喩がまことに美しく、現代には見られぬおおどかさを持っている。
 鮎の子に門人を、白魚に自分を託したというようにあらわにとってしまうと、この微妙さは失われてしまう。鮎の子の白魚を送るさまが、そのまま今日の別れに匂いあえばよいのである。「別れかな」と、やや比喩の感じがあらわであるのが惜しまれる。

 この句は、『赤冊子草稿』にも見え、「此の句、松島旅立の比、送りける人に云ひ出で侍れども、位あしく、仕かへ侍ると直に聞えし句なり」と注記している。
 つまり、前述のように、この句は、比喩の感じがあからさまなので、『奥の細道』にもれてしまったのである。その差し替えた句が、矢立初めの句碑にもある「行く春や鳥啼き魚の目は泪」なのである。

 芭蕉が、『奥の細道』の執筆にかかったのは、旅を終えて3~4年たったころで、いわゆる素龍清書本『おくのほそ道』が書きあがったのが、元禄七年四月のこと。
 大垣で詠んだ「蛤(はまぐり)のふたみに別れ行く秋ぞ」の句をもって『奥の細道』は終る。この句は、『奥の細道』冒頭の「草の戸も住替る代ぞ雛の家」を承けて、万物流転、人生は無限に続く旅であるとの思いが込められている。
 芭蕉は、『奥の細道』を編むにあたり、首尾相応じた結構を完成させるために、「鮎の子の白魚送る別れかな」を棄て、新たに「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の句を作り、差し替えたのである。
 作品『奥の細道』は、純粋な旅日記や紀行文ではなく、あくまで《文芸作品》であることを忘れてはならない。


      蜜蜂の日とや茶房の昼下がり     季 己      

薺の花

2009年03月06日 22時53分14秒 | Weblog
        よくみれば薺花さく垣ねかな     芭 蕉

 薺(なづな)は、アブラナ科の二年草で、田んぼや路傍に生える。春の七草の一種で別称、三味線草・ぺんぺん草。
 葉は、タンポポに似て羽状に分裂。茎の高さは30センチほどで、春もたけたころ、茎の上部に白色の小さい四弁の十字状の花を多数つける。
 花のあと、逆三角形の、三味線の撥に似た実をつける。三味線草・ぺんぺん草の名は、これに由来する。

 ふと心をとめて見ると、垣根のほとりに、薺が白く小さな花をつけているのであった。
 「薺の花というものは、ほとんど人の目に触れることもない、目立たぬ小さな花であるが、よく見ると、その薺が思いもかけず垣根の下に小さな花をつけていたことよ」と、驚いているのである。
 この驚きには深い愛情が感じられる。これが、俳句には大切だと痛感する。
 「よくみれば」と、ことさらに断わったような口ぶりは、写生の筆法ではない。
 「よくみれば」という語はつつましい語であるが、この句では動かぬ重みを内に持っている。この語が、「薺花さく」にひびいて、そのあるとも見えぬ花の開いていたことに驚いている感じが生きてくるのである。
 あまり見ばえのしない雑草の花にまで、あまねくゆきわたった春色を見て、万物はみな造化の端緒としてその所を得、自得自足していることを感じ取っているのである。


      いにしへの子持村なるよもぎ餅     季 己      

定額給付金

2009年03月05日 20時31分14秒 | Weblog
 定額給付金の支給が、今日から始まった。けれども、わが区は4月以降とのことなので、使い道を考える時間はたっぷりあるが……

 当初は、皮肉を込めて、民主党に献金しようかと真剣に思っていた。しかし、小沢代表の献金問題で、それは止めることにした。
 『やましいことはない』と言い切る小沢代表の発言は、強弁にしか聞こえない。どう考えても、納得はゆかず、説明責任を果たしたとは思えない。
 時間がたつにつれて、ますます小沢代表に不利な状況になってくる。遠からず、辞任どころか議員辞職に追い込まれるのではないか、そんな気がしてならない。

 建仁寺や東寺などの仏像を盗んだ男が、逮捕された。
 建仁寺の江戸時代作の木造十一面観音坐像、東寺の不動明王像、毘沙門堂の毘沙門天像など42点を、容疑者の会社社長宅から押収したという。
 容疑者は、『身近に置いて拝みたかったから盗んだ』と供述しているとのこと。これも納得できない。
 文化財は、いわば共有財産のような物で、私するものではない。それを盗んでまで私しようとするのだから許せない。

 仏像好きのわたしも、大小あわせて数体、身近にお祀りしているが、すべてなけなしの金をはたいて購入したものである。有名作家の作品というと、つぎの5体ぐらいしかないけれど……
  「聖観世音菩薩像」(澤田政広・作)   「不動明王像」(北村西望・作)
  「大日如来像」(小野直子・作)    「阿弥陀如来像」(元田五山・作)
  「花菩薩」(小野直子・作)

 定額給付金が、いまのウン十倍もらえるなら、すぐに消費するだろう、「雨宝童子像」(長田武志・作)か、小嶋悠司の絵画「真視」に。だが、2万円ではねえ。
 日本語ボランティアで、日中・日韓・日タイ辞典などがあると便利なので、それにしようか、それともアフリカの子供たちに寄付しようか、よーく考えよう。なにしろ2万円“も”いただけるのだから!? 


      啓蟄の土がほこほこ雑木山     季 己

春雨

2009年03月04日 22時36分49秒 | Weblog
 画家だけあって、蕪村という俳人は、実にきれいな句を作る人である。

        春雨や小磯の小貝ぬるるほど     蕪 村

 しとしとと降りそそぐ春雨に濡れるその貝殻は、きっと薄紅色に透き通るような桜貝であろう。
 真白な砂浜に、寄せては返す、静かな春の海の潮の青さ。それに淡い紅色の貝の色と、いずれも淡い三色の取り合わせを、さらにしっとりと落ち着かせるような春の雨の糸筋。
 蕪村の句は、まったく蕪村の絵そのままのようである。

        いつ濡れし松の根方ぞ春しぐれ     万太郎

 たちまちに降り、たちまちに晴れ、また降ってくる春の雨を「春しぐれ」という。時雨(しぐれ)は冬に多いが、春に降るしぐれは、明るく、あたたかく、やわらかい感じがする。
 冬の時雨のように、思いもかけぬときに、ぽつりぽつりと降り始めて、降りみ降らずみといった天気を繰りかえす。だが、冬の時雨とは違って、春の時雨は、濡れるのを厭うほどのものではない。

 芸妓梅松に寄添われ、「春雨じゃ、濡れてまいろう」と寂しく微笑む美剣士・月形半平太。切った張ったの血なまぐさい修羅場に明け暮れる、幕末維新の志士も、ついこのようなしゃれた気持ちになったのであろう。
 春雨には、そんな風情がある。


      雲をどるまるいまあるい春の丘     季 己

朝床

2009年03月03日 20時52分41秒 | Weblog
                 大伴家持
        朝床に 聞けば遥けし 射水川
          朝漕ぎしつつ うたふ船びと (『萬葉集』巻十九)

 この歌は、三月三日の朝の歌である。詞書に「遥かに江をさかのぼる船人の歌を聞く歌」とある。
 家持は、詳細に歌日記をつけていたようだ。「朝床に」の歌が詠まれたのは、三月一日(もちろん旧暦である)の日付のある歌の、翌々日の朝だ。春眠をさそう季節である。

 射水川は、富山湾にはいる川で、越中の国府の館から、ほど近い。
 まだ朝の床にいて、うつらうつらと聞いているのが、遥かにしている船唄である。船を漕ぎながら、船人たちが声をそろえてうたう船唄が、風に乗って遠くから聞こえてくるのである。
 その船人の声は、射水川をさかのぼってゆく船人の声であることを知っていて作っているわけで、叙景の歌ではないのだが、叙景歌と同じような効果が出ている。
 遠くから聞こえてくる船唄を、朝床で聞いているという、ものうい一つの情緒の発見なのだ。
 「朝床」の語に、家持の倦怠感が感じ取れる。
 今日も宴、そして歌を詠み、明日も宴、そして歌を詠む、といったような日々の連続ではなかったろうか。どこか疲れの残った、うつらうつらした朝床の彼の意識を、遥かな船唄がこころよくゆさぶるのである。

 家持は、天平十八年(746)秋に、越中の国守となって下って行った。その月日については、記録によって違いがあり、『萬葉集』の記載は誤りであろうとされているが、ともかくこの年から、まる五年にわたって越中の守をつとめている。家持が三十一歳から三十六歳ぐらいまでにわたる年月である。巻でいうと、巻十七の途中から巻十八を経て巻十九にわたって、越中守時代の日記が続いている。


      彫刻展出て春雪のsakuraいろ     季 己

春の月

2009年03月02日 20時50分07秒 | Weblog
 ほのかにかすんだ月が見えていたが、今はまったく見えない。
 昼ならば霞となるはずの水蒸気が、夜もやわらかに立ちこめて、月が朧にかすんで見えるこのごろである。

        照りもせず 曇りも果てぬ 春の夜の
          朧月夜に しくものぞなき   (大江千里)

 月の光もとろりと溶けこむような、春の夜の悩ましさ。大江千里のこの歌は、汲めども尽きぬ春の月の情緒を、みごとに表現している。
 『源氏物語』の「花の宴」の巻に、こんな件(くだり)がある。
 仲春二十日余り、宮中の桜の宴が果てた夜のことである。藤壺の女御に一目逢いたくて、弘徽殿(こきでん)の細殿あたりを去りかねてたたずむ光源氏の前へ、「朧月夜にしくものぞなき」と口ずさみながらやって来た若い女性。
 時は時なり、人は人なり、春の夜の月のかもし出す妖しいまでの艶かしさに、源氏は、ふと、その女性の袖をとらえる……
 朧月夜内侍(おぼろづきよのないし)と名付けられるこの若い女性が口ずさんだ歌が、前に述べた大江千里の歌なのである。

        大原や蝶の出て舞ふ朧月     丈 草

 「大原」は、京都北郊の地名で、王朝時代から詩歌・物語にうたわれてきた伝説と史跡の里である。
 なかでも建礼門院が、平家滅亡後この地の寂光院に隠棲したことは、『平家物語』や謡曲の『大原御幸』でよく知られている。
 そうした大原の里に寄せる作者の詩情を形象化したのが、「蝶の出て舞ふ朧月」にほかならない。この句の情景に地勢がふさわしいとして、洛西の「大原野」をあてる意見もあるが、賛成しがたい。
 
 春の宵、おぼろにかすむ月下に、どこからともなく現れて舞う孤蝶は、
        思ひきや 深山の奥に 住まゐして
          雲井の月を よそに見むとは
 と嘆じた、建礼門院の精霊であるのかもしれない。
 「出て舞ふ」という表現には、あたかも能舞台にシテが登場する光景を想わせる。
 地名の持つ古典的イメージをみごとに生かした、幽艶な一幅の幻想世界である。
 元禄四年(1691)冬、江戸でこの句を知らされた芭蕉は、「この僧なつかしと言へ」と去来に書き送ったという。「この僧」とは、もちろん丈草のことである。

 やるせない感傷の涙、ロマンティックな甘い夢、こうした心の乱れを中空に描いて見せるかのように、ひらひらと舞い狂っているのが胡蝶である。
 春の夜の感傷に、しっとりと濡れた人々の眼には、その胡蝶が、月の光の精霊とも見えることだろうし、我と我が魂のさまよい歩く姿とも見えることだろう。


      切株のひそと夢見るおぼろ月     季 己