壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

談林派

2009年03月23日 21時36分00秒 | Weblog
        さればここに談林の木あり梅の花     宗 因

 宗因は、本名を西山豊一(とよかず)といい、一幽(いちゆう)・西翁(さいおう)・梅翁(ばいおう)などとも号する。
 慶長十年(1605)、肥後の国八代(熊本県)に生まれる。
 城主の加藤正方に仕えたが、のち浪人して上洛。名門里村家の昌琢(しょうたく)に連歌を学び、四十三歳のとき大坂天満宮連歌所の宗匠となった。
 連歌の余技として始めた俳諧が、斬新奇抜だったため、にわかに脚光を浴びた。寛文期(1661~73年)の中頃から、貞門の古風にあきたらず新風を模索していた人々をその傘下に集め、やがて新しい俳壇が形成された。一般に「談林派」と呼ぶのがそれである。
 談林派の盛期はわずか十年ばかりで、天和期には早くもたそがれたが、天和二年(1682)の宗因の死は、そんな意味でまことに象徴的であった。

 延宝三年(1677)の夏、有名な文学大名、内藤風虎(ふうこ)の招きで江戸へ下った宗因が、田代松意ら江戸談林派を自称するほとんど無名の結社から、千句の巻頭にと請われるままに与えた挨拶の句が「さればここに……」である。
 松意らはこれに力を得て、『談林十百韻(だんりんとっぴゃくいん)』を制作刊行、これが大当たりをとって一躍、「談林」の名を天下にとどろかせることになったという、いわくつきの発句である。

 「されば」は、謡曲によくある発端語で、「さて」の意。
 「談林」は、檀林とも書き、もともとは栴檀(せんだん)の林をいう。栴檀とは、南インド摩耶山から出る香木で、これを焚いて釈迦を荼毘に付したことから、いつしか寺院の称となり、また談林の字を当てて、僧徒の学問の場をもいうに至った。松意らは、俳諧修行の場という意味で、比喩的に「談林」を名乗っていたのである。
 「梅の花」は、好文木(こうぶんぼく)ともいい、文運隆盛に赴くときは色と匂いを増すという。春の季語である。句が作られたのは夏であるが、これは千句の作法によるものである。

 こうして一句は、「さて、ここに梅の花がいまを盛りと咲き匂っています。この『梅の木』は、いってみれば談林の林の木、いまをときめくあなたがた俳諧談林派の象徴ですね」というほどの意になろう。
 褒める“つぼ”を心得た、実に心憎い挨拶句である。


      白椿ふくさたためば夕映えぬ     季 己