壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

黄不動

2009年03月09日 20時20分35秒 | Weblog
 雷に撃たれたというのは、こういうことを言うのだろうか。
 脳天からビリビリしはじめ、胸から腹へと電流が流れ、両足の裏から放電されたような感じを受けた。
 「国宝 三井寺展」(サントリー美術館)で、国宝《不動明王像(黄不動尊)》を拝んでいたときのことである。

 各地の寺院に仏像をたずねるとき、みなさんはどのような態度でのぞんでおられるのであろうか。
 多くの場合、仏像を歴史的な文化財とみて、芸術的な立場から鑑賞しようとしているのではなかろうか。
 ところで、仏師、仏像制作者は、どういう動機・気持で仏像をつくるのだろうか。もちろん依頼があるからつくるのだろうが、芸術作品の創造にあるのではなく、やむにやまれぬ信仰心が、尊崇の対象として仏像を、木の中から彫り出しお迎えしているのだと思う。
 だからこそ、作者の心が、仏像という形をとおしてわれわれに強い感動を呼び起こすのである。
 仏像とは、「みる」ものではなく、「おがむ」べきものなのだ。こう確信している変人は、仏像に接するときはお数珠を手にかけるよう、心がけている。

 「三井寺展」で、最初に《黄不動尊》を拝したとき、表具が妙に気になった。本紙の黄不動に対して柱・中廻しが合っておらず、違和感を覚えたのだ。それがどうだろう、何度か通っているうちに、そんなのはどうでもよくなった。
 特に今日は、黄不動さんだけしか眼に入らず、ビリビリと脳天からしびれたというわけである。
 この絵画の黄不動さんは平安時代(9世紀)の作で、これを模刻した黄不動さんは鎌倉時代初めの作だという。模刻とはいえ、印象はずいぶん違う。慶派の手によるといわれる彫刻は、筋肉のつき方など人体に近いリアリズムを追求している。
 平安、鎌倉とそれぞれの時代に生きた人々の、仏さまに対する感じ方の違いが、よく表われているような気がする。
 ちなみに、彫刻の黄不動さんは、絵画の黄不動さんより多く拝んでいるが、まだ一度もビリビリ感はない。

 三井寺の黄不動、高野山明王院の赤不動および京都青蓮院の青不動とを総称して、日本三不動という。いずれも不動の画像として図像上および表現上に特色を持っている。
 では、《黄不動尊》にはどのような特色があるのだろうか。「国宝 三井寺展」図録の作品解説より引く。

  両眼を見開いた黄色身の不動明王が、剣とけんさくを持ち虚空を踏んで直立
 する。ほぼ等身の不動は頭光を負い巻髪、上歯で下唇を噛み左右の鋭い牙が天
 を向く。上半身は裸形、鈴や大ぶりな飾りの付く胸飾りや釧を身につけ、肥満
 した上半身に対し手足は筋骨隆々たる様が表される。帯の大きな結び目を表す
 朱の裳裾は膝上までたくし上げられ、力を込めて両足の親指を上げる。
  この特異な尊容の不動が、日本三不動とも称される黄不動尊で、円珍二十五
 歳の承和五年(838)、岩窟で修行中の眼前に現れた金色の不動を感得し、後に
 画工に描かせたという。画面から飛び出るほどの迫力、金の発色を抑えた明快
 な賦彩、細いが力強い衣文線や肉身の輪郭線など、平安初期を代表する密教画
 とするに相応しい。最近修復が行われ、唐時代の制作とする意見も出された。
 普段は厳重な秘仏で、およそ二十年ぶりの公開である。
                      (「国宝 三井寺展」図録より)


      はくれんの花芽と千手観世音     季 己