壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

『奥の細道』320年

2009年03月07日 23時16分54秒 | Weblog
 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老をむかふる者は、日々旅にして旅を栖とす」

 有名な『奥の細道』の冒頭の一節である。
 芭蕉が、芭蕉庵を人に譲り、弟子の曾良(そら)を伴ない、東北・北陸を経て、大垣までの『奥の細道』の旅に出たのが、元禄二年(1689)三月のことである。
 今年は、『奥の細道』旅立ち320年の記念?の年であるが、矢立初めの句碑のある荒川区では、いまのところ何の行事の予定もない。
 幸い、4月4日に観光ボランティアガイドの依頼があったので、そのグループの方々にだけでも、“320年記念”の年であることを知っていただきたく、計画を練っている。

        鮎の子の白魚送る別れかな     芭 蕉

   「自分はいま、心の通い合う門人やそのほかの人々に見送られて、江戸を
   離れようとしている。折しも春の末のこととて、この大川では、鮎の子が
   先に川に入った白魚を追ってのぼりはじめたころであるが、そのことが、
   いま何がなし心引かれて思いやられることである」

 留別の情が基底になっているので、この比喩がまことに美しく、現代には見られぬおおどかさを持っている。
 鮎の子に門人を、白魚に自分を託したというようにあらわにとってしまうと、この微妙さは失われてしまう。鮎の子の白魚を送るさまが、そのまま今日の別れに匂いあえばよいのである。「別れかな」と、やや比喩の感じがあらわであるのが惜しまれる。

 この句は、『赤冊子草稿』にも見え、「此の句、松島旅立の比、送りける人に云ひ出で侍れども、位あしく、仕かへ侍ると直に聞えし句なり」と注記している。
 つまり、前述のように、この句は、比喩の感じがあからさまなので、『奥の細道』にもれてしまったのである。その差し替えた句が、矢立初めの句碑にもある「行く春や鳥啼き魚の目は泪」なのである。

 芭蕉が、『奥の細道』の執筆にかかったのは、旅を終えて3~4年たったころで、いわゆる素龍清書本『おくのほそ道』が書きあがったのが、元禄七年四月のこと。
 大垣で詠んだ「蛤(はまぐり)のふたみに別れ行く秋ぞ」の句をもって『奥の細道』は終る。この句は、『奥の細道』冒頭の「草の戸も住替る代ぞ雛の家」を承けて、万物流転、人生は無限に続く旅であるとの思いが込められている。
 芭蕉は、『奥の細道』を編むにあたり、首尾相応じた結構を完成させるために、「鮎の子の白魚送る別れかな」を棄て、新たに「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の句を作り、差し替えたのである。
 作品『奥の細道』は、純粋な旅日記や紀行文ではなく、あくまで《文芸作品》であることを忘れてはならない。


      蜜蜂の日とや茶房の昼下がり     季 己